わが町は浮世絵にも多数描かれる名所だった MAP 
                                       宮本神酒男  


近所で花火が打ち上げられていた……隅田川花火大会(2014年7月26日)だけど 

 2013年11月のはじめ、浅草寺の北東数百メートルに位置する待乳(まつち)山聖天で開催された浮世絵展を見ました。正確には「名刹待乳山聖天と周辺地域 浮世絵展」という名称で、寺がたつ待乳山とその周辺地域が描かれた浮世絵だけを見せるという独創的な企画です。(右の広重の浮世絵と展示作品とはかならずしも一致しません)

 待乳山という名前はかなり変わっています。エロティックなようでもあり、母性愛的なようでもあります。恥ずかしながら、私は東浅草に住むようになってから、はじめてこの地名を知りました。待乳山保育園と書かれた看板を見つけて、これはどういう意味なのだろうかと考えたのが最初です。待乳山という名の由来や聖天様についてはまたあとでくわしく話したいと思います。

 なぜこの浮世絵展を見ようと考えたかといえば、東浅草(浅草といっても雷門から徒歩30分ほどかかります)に住むようになって何年かたつのに、この地域のことを何も知らなかったからです。チベットや中国西南、インド、東南アジアなどについて私はよく知っているのだけれど、地元のことにはあまり興味を持っていませんでした。

 浮世絵展を見て、目からウロコが落ちたような気がしました。

 このあたりは本当に美しかったのです。とくに広重が描いたこの地域の浮世絵を眺めるだけで涙が出てきそうになります。隅田川はかぎりなく澄み、それに浮かぶ舟、舟をこぐ船頭、川に迫る森、森の中の神社や寺、田んぼ、田舎道、道を行く菅笠をかぶった庶民……どれもがかぎりなく美しいのです。

 広重の『名所江戸百景』から近所の風景をピックアップしますと

「真乳山(まつちやま)山谷堀(さんやぼり)夜景」
「隅田川水神の森真崎」
「真崎辺より水神の森内川関屋の里を見る図」
「墨田河橋場の渡かわら竈」
「猿若町 夜の景」
「請地(うけち)秋葉の境内」
「木母寺内川御前栽畑」
「吉原日本堤」
「小梅堤」

 これら以外にも浅草近辺や堀切、綾瀬、箕輪、四ツ木など「近所」の範疇に入る風景画がたくさんあります。

残念ながら現在、これらの浮世絵に描かれた場所は見栄えのしない、覇気が感じられない地域です。先日も自転車に乗って吉原方面から(べつにソープに行ったわけじゃありません)、あしたのジョーのペナントやポスターが目立つだけの閑散とした「いろは会商店街」を抜け、日本堤交番の横に出ると、日中から缶ビールをあおり、地面に寝転がっている浮浪者風の男たちに出くわしました。もうこれだけでこの世の終わりが近いような暗鬱な気分になってしまいます。

 そう、ここはかつてドヤ街として名を馳せた山谷(さんや)の中心なのです。もっとも、山谷という地名を残すのは、今では山谷堀公園だけになってしまいました。その山谷堀は暗渠となり、地下に隠れてその姿を見ることはできません。

永井荷風の『すみだ川』には、「(お糸は)学校の帰り道には毎日のように待乳山の境内で待ち合わせて、人の知らない山谷の裏町から吉原田圃(たんぼ)を歩いた」というふうに出てきます。(吉原の遊郭の向こうには田んぼが広がっていました)

待ち合わせ場所はきまって待乳山なのです。山谷堀は待乳山の横で隅田川とつながっていました。そこに小さな木橋である今戸橋がかかっていました。橋のかたわらには竹屋があり(浮世絵「真乳山山谷堀夜景」でも灯りがともっているのでそれとわかる)そこから舟に乗って対岸の向島に渡ることができました。当時この界隈は洒落た雰囲気があったことでしょう。

待乳山を含む一帯は聖天(しょうでん)町と呼ばれ、皮革の町として栄えてきました。その隣にあったのが猿若町です。ここには猿若三座(中村座、市村座、守田座)などの芝居小屋が並び、茶屋やさまざまな店が集まった江戸でもっともにぎやかな町であり、流行の発信地でした。こんな栄えたおしゃれな町も、いまひとつ冴えない町になってしまいました。空襲によって焼野原になったせいでしょうか。1966年に現在のお役所的な地名(浅草6丁目)に変更したことも大きいでしょう。なお台東区の誇り、作家の池波正太郎はここ聖天町に生まれました。

 わが住まいの近くに白髭橋があります。大正3年(1914年)に木橋がかけられ、向島寺島町(墨田1〜4、向島4〜5、東向島1〜6、京島1〜3など広範囲)との行き来が簡単になりました。橋が架かるまでは、橋場の渡しが川を渡る手段として一般的だったのです。(註:五木ひろしの曲「橋場の渡し」はここを舞台としています)

明治3年には明治の元勲三条実美がここに対鴎荘という別荘を建てました。隅田川の向こう岸に見える景色は京都のような抒情がありました。(もっとも、江戸時代には橋場で銭が鋳造されていて、抒情性ばかりともいえなかった)
 池波正太郎によると、昔は「なんとか出世をして、橋場の大川(隅田川)べりに家を持ちたいものだ」という言い方があったそうです。

『江戸名所図会』には「三囲(みめぐり)稲荷のあたりより木母寺の際まで、堤の左右へ桃桜柳の三樹」が植えられ、「さながら錦繍(きんしゅう)をさらすがごとく」であったと記されています。いまでも春は桜並木がきれいですが、覆いかぶさるような首都高が邪魔をしています。作家の杉本苑子さんも「たどりたどり歩く頭上に、高速道路がのしかかるうっとうしさ」と不平をこぼしています。(『東京の中の江戸名所図会』)

橋場の渡しが知られるのは、在原業平がここで渡河し、また源頼朝がここに「船橋」を作ったという伝説があるからです。隅田川の20を超える渡しのなかでも、もっとも古いとされています。

石浜神社とガスタンク 

 白髭橋から上流へ数十メートル歩くと、石浜神社があります。このあたり(真崎)には大きな港があったといわれています。石浜神社からはかなりのパワーを感じるのですが、となりの敷地に東京ガスの巨大タンクが3基もあり、まるで神社パワーと拮抗し、それを押しつぶそうとしているかのように見えます。永井荷風の『葛飾土産』によれば、ガスタンクがある場所にはもともと梅園があったのですが、つぶされ、タンクが建てられたそうです。(大正10年の地図を見ると円筒形のタンクが描かれています。この時点ですでにガスタンクができていたようです)

 石浜神社を背に隅田川沿いの遊歩道(わがジョギング・コースです)から対岸の墨田区を眺めると、水平に走る首都高速と巨大な団地(白髭東アパート)がいやがおうにも目に入ってきます。広重の浮世絵を見ると、そこに森に囲まれた水神さまが浮き立つように見えるはずなのに、日陰になってよくわかりません。水神さまはいま、隅田川神社のなかに祀られています。その左手には梅若伝説にまつわる木母寺(梅の字を木と母に分解して名付けられた)があるはずですが、やはりよく見えません。(木母寺はもう少し東側に位置していましたが、団地が建てられたため移動させられました)

 視線をすこし右にずらすと、高層ビル(リバーサイド隅田セントラルタワー)が目に入り、白髭橋の向こうにはスカイツリーがそびえたっています。こうした近代的な風景と浮世絵に描かれる風景が同一の場所とはとうてい思えません。


白髭橋の向こうにスカイツリーが見える。左はリバーサイド隅田セントラルタワー 

 名所案内をするつもりはないので、本題に移りましょう。わが町はもともとの地名で石浜となります。明治期の作家・ディレッタントの淡島寒月によると、石浜はもともと石が多かったので、石浜と呼ばれたそうです。

『台東区史』によれば、石浜には現在の台東区橋場、清川、今戸、浅草、荒川区南千住などが含まれます。この地域には長い濃厚な歴史があります。ということは、いわくつきの場所や謎めいたもの、聖なる建物などがたくさんあるということです。

 そのなかから近所のパワースポット十傑を選んでみました。それほど厳密なものではなく、パワースポットとして有名なものもあれば、怨霊が渦巻いているようなものもあります。近所という定義もあいまいかもしれません。自宅から自転車で5分程度以内を目安としました。カウントダウン方式ということで、
10位からはじめたいと思います。⇒ 第10位 

→ カワウの画像 
広重の浮世絵にも描かれる都鳥、ことユリカモメ。近づいても逃げない。ということは小舟で隅田川を渡るとき、舟のへりにとまって愛くるしい姿を見せたはず。(桜橋にて。言問団子はすぐ近く) 

名にし負はば いざこと問はむ都鳥 わが思ふひとはありやなしやと(伊勢物語)

 


真乳山山谷堀夜景 手前に堀の芸者。隅田川の向こうに待乳山。山谷(さんや)堀の左に竹屋、右に有明楼の明かり。永井荷風の小説でおなじみ 


隅田川水神の森真崎 遠くに筑波山。右中に水神様の神社。向こう岸は真崎(現石浜神社)


真崎辺より水神の森内川関屋の里を見る 石浜神社あたりの豆腐田楽の料理屋から対岸を見る。


墨田河橋場の渡かわら竈 今戸の今戸焼工房から現白髭橋の橋場の渡しを眺める。


猿若町 夜の景 芝居小屋が並ぶ活気あふれる町はいまの浅草6丁目。 


請地秋葉の境内 現在、スカイツリーに近い神社は、池や森も消え、探し当てるのも困難。 


木母寺内川御前栽畑 右に植半という料理屋に隅田川の内側にある内川から向かう。


吉原日本堤 遠くに吉原遊郭の屋根。山谷堀に沿って日本堤。現在日本堤交番は山谷の労働者のたまり場。