(6)尋問 

                    宮本神酒男 


 ホテルの部屋になだれ込む制服の公安たちに押し飛ばされた私の心臓は高鳴り、息は荒れ、発汗し、アドレナリンがドバドバと出てきた。心の準備はできていたはずなのに、それゆえ根拠なく形成されていた自信と安心感が一挙に吹っ飛び、かえって底知れぬ絶望感の中に落とされてしまった。公安(警察)たちの仕事は早く、手際よかった。アメリカの刑事ドラマのよくあるシーンとおなじく、みなが私の荷物をひっくり返し、中をチェックし、バスルームまでしらべた。そして私のパスポートを取り上げた。若い気のよさそうな男(おそらく満族)はIT担当なのか、わがパソコン(VAIO)をすでに開けて見始めていた。

 共産党の穀田氏そっくりのチーム・リーダーらしき男がソファの上にふんぞり返り、タバコの火をつけた。このとき以来テレビで穀田氏の姿を見ると激しい嫌悪を感じ、頭がクラクラするようになるのだが、もちろん本人とは関係ない。

 彼はタバコの煙を大きく吐き、ガラス・テーブルの上の灰皿にタバコの火を押し付けると、身を乗り出した。私はすでにベッドの端に申し訳なさそうにちょこんと腰を掛けていた。居心地の悪い座り方をさせるのも、公安の心理作戦だろう。

「われわれが何をしに来たのかわかるだろう?」

「ええ、はい……」私は何が問題とされているのか、正直わからなかった。未開放地区に入ってしまったのだろうか。ハミ市はもちろん開放され、外国人観光客もたくさん来ていた。しかし都市部から70キロも離れた郊外の村なら、制限があっても不思議ではない。あるいはシャーマン儀礼を見たことか。私はこれまでイ族やチベット人などのシャーマン儀礼を何度も見てきたが、取り締まりを受けたことはなかった。公安の人に手伝ってもらったことさえあった。

 しかし私はシャーマン儀礼を見た(というより開催した)という理由で捜索の対象になっていたのである。男は小冊子をカバンから出し、テーブルの上に広げた。そこには新疆ウイグル自治区の条令が記されていた。ラサで拘束されたときのことがよみがえってきた。担当官が示したのはチベット自治区の条令の「外国人はデモに参加してはならない」という一文だった。ほとんどデモの後尾について歩いただけだったが、最高潮のときにデモ隊の前に出て写真を撮ったのがまずかったのだろう。

 ここで引っ掛かった条令は「宗教活動はしてはならない」だった。マルクスの「宗教はアヘンである」という言葉はまるでドグマのようになって共産国の間に受け継がれていた。しかし中国がとくに警戒するのは、太平天国の乱や白蓮教などカルト的な宗教に国が翻弄されてきたからである。その意味で「共産党員の数を信者の数が上回った」と噂された法輪功が国家レベルで弾圧されたのも理由はわからなくもない。しかしシャーマニズムに政治的な意図はなく、それはむしろ芸能であり、民俗なのである。そもそもシャーマニズムはイスラム教と相性が悪く、その存在が認められる余地は多くない。イスラム教神秘主義(スーフィズム)からしても、シャーマニズムをイスラム教の一部と認めることはできない。このスーフィズムさえイスラム原理主義者の目の敵とされているのに、シャーマニズムが認められるはずもないだろう。シャーマニズムは原理主義者、一般のイスラム教徒、スーフィーのすべてから疎んじられているのである。存続の危機にあるのは当然のことだろう。

「宗教は迷信活動だ。迷信活動をやっているから、おまえを捕まえたのだ」と男は勝ち誇ったように言った。私は納得がいかなかったが、ひたすらあやまり、反省を口にした。たてついたところで意味はなかった。公安の人たちは職務をまっとうしたにすぎない。しかし私はウイグルの独立運動を支援しているわけでもないし、いったい何をそんなに騒ぐのかわからなかった。しかし公安の男は凶悪犯のように私を扱った。

「わかっているだろうな、おまえはわが国の風紀を乱したのだ!」

「はい、すいません……」

 こういう言葉の暴力が延々とつづいた。私のプライドは完膚なきまでにたたきのめされた。いったいあと何時間尋問はつづくのか。

 そう思った矢先に突然男は「三時だ。今日はいったんここで終えるとしよう。また明日の朝来るからな。パスポートは預かっている。だからここから逃げ出そうとするなよ。パソコンは持っていく。心配するな、あとで返すから」

 一瞬ののちに彼らの姿は消えていた。部屋の中にはタバコの煙が重苦しい霧となって充満していた。忘れていたおなかの痛みがかえってきた。便座に座ろうとして洋式トイレの中を見ると、数十本のタバコの殻が落ちていた。いやがらせなのか? 穀田似の男は灰皿を使っていた。ほかの男たちはトイレの便器を灰皿代わりに使っていたのだ。我慢できなかったので私はレバーを上げ、水とともにタバコの殻を流した。幸い、トイレがつまることはなかった。

 朝十時、公安の男たちが戻ってきた。いくぶんみなの表情がやわらいでいた。この合間に彼らは村まで行き、どうやら関係者全員を取り調べたらしい。正直なところ、彼らがどういう処罰を受けたかはわからない。バクシは投獄されたのだろうか。あるいは「再教育」を受けているのか。「再教育キャンプ」だなんて、地獄のありさましか浮かんでこない。タクシー運転手は大丈夫だろうか。彼もどうやら公安の追っ手を振り切ることはできなかった。どういった処罰が下ったのだろうか。免許取り上げとか、投獄とか、そういう目に遭っていたなら、あまりにもひどすぎる。私の判断のまずさからこういうことになったと考えると、落ち込まずにはいられなかった。

 正式名称は忘れたが、「反省文」のようなものを書かされた、中国語で。そのなかで「日中友好関係を損ねてしまい、申し訳ありません」といった一文を入れた。なんとも大げさすぎる文章である。しかしこういう歯が浮くような表現は当局者を満足させ、すべてがうまくいくのである。

 夜半の取り調べは「尋問」に近かったが、昼前には通常の取り調べになっていた。満族の公安はわがVAIOを開けるのに相当苦労したようだった。ソニーは簡単には開けられないパソコンを作っていたのだ。私はハードディスクの中身を公安側が購入していたハードディスクにコピーし(その代金はもちろん払った)、彼らはパソコン内部のハードディスクを持ち去った。シャーマン儀礼の画像はなくなってしまったのである。それどころか念願かなって歩いた大氷河とか、世界一危ない橋(板と板の間が1・5mも離れている)などの画像も消えてしまった。いつの日かまた写真を撮りに行きたいけれど、氷河は消失しつつあるし、危ない橋ももうないだろうし、望みがかなえられることはなさそうだ。

 

 お昼過ぎ、意外とあっけなく私は解放された。没収されてしまった写真はあきらめるしかなかった。しばらくぼんやりとする。ふと、我に返った。渡したビデオのデジタル・カセットは、儀式のではなく、ホータンやウルムチで撮ったものだ。儀式のテープは手元に残っていた。そもそもが反政府でもなく、独立を求めるものでもなかったので、当局に追われるような中身のものではなかった。しかし私はこのテープまで取られてはたまらないと考え、問い合わせを受ける前にハミを脱出することにした。そんなときに部屋の電話が鳴った。出ようかと思ったが、出られなかった。電話をしてくるとなると、タクシー運転手か公安しかありえない。運転手であれば彼がどういう状況に置かれているか確認したかったし、公安であればテープの提出を求られるかもしれない。後者の可能性のほうが大きいと私は考えた。

 私はホテルをチェックアウトし、タクシーを拾った。若い女性の運転手だった。ハミの鉄道駅に着くと、電光掲示板の前にずっと立って、流れてくる座席・寝台の情報をじっと見つめた。20分くらい立ちっぱなしで電光掲示板を目を皿のようにして見ていると、ようやく3時間後の四川・成都行きの便に寝台がひとつ空いているのがわかった。私はすぐに窓口に行き、寝台を購入した。

 そのあとの待合室での3時間は地獄だった。数百人が入れる巨大な待合室で、人はみな公安に見えた。外から入ってくる人の半分は私服の公安のようだった。緊張のあまり頻尿症になってしまった。公衆トイレに入って用を足し、待合室の中ほどに戻る。するとすぐ用を足したくなり、トイレに向かう。この繰り返しで私は数十回もトイレに立つことになった。しだいに中ほどに戻らないで、トイレから出たところでまたトイレに戻るようになった。自分がこんなにもプレッシャーに弱いことを私は知らなかった。

 出発30分前に改札の前に列が作られたときには、なんとかなりそうでほっとした。しかし出発前にプラットホームを歩くときも、呼び止められそうでドキドキした。ようやく列車の中に入り、自分の寝台を見つけた。出発したとき、隣の人たち(ひとりは公安の制服を着ていた)の会話を聞いて驚かされた。

「どこからいらっしゃったのですか」

「あ、わたしは五堡郷の四堡村に住んでいます」

 ドキリとした。シャーマン儀礼を開いた件の村の公安だというのだ。そもそもわれわれの活動に関し、だれかが村の公安局にたれこみ、それによって大捕り物劇がはじまったのだ。さて、私はこの公安に声をかけるべきだろうか。しかしたとえ当事者でなくても、今回のことを知らないはずはない。私は公安を毛嫌いしているわけではない。親しくなった公安の人も数えきれないほどいる。しかし波を起こさないほうがいいと考え、しばらくはだれとも話さず、殻に閉じこもることにした。成都に着くのは34時間後。ハミから遠くなればなるほど心は休まるだろう。

 成都で一日、二日ゆっくりし、それから列車に乗って24時間後、雲南省の昆明に着いた。そこで二日か三日休んだあと、バスに乗って20時間後、シーサンパンナのラオス国境にたどり着いた。成都や昆明で飛行機に乗ることもできたろうが、空港を使うと危険な気がして、私は陸路による国外脱出をはかったのである。北朝鮮の脱北者もこのあたりから国外に出るというではないか。(半分冗談だが、脱北者の脱出コースがこのあたりにあるのは事実) 

 北のほうでは冬の足音が大きくなり、私はホータンで厚手のジャンパーを買い、ウルムチの露店でセーターを買った。しかし亜熱帯の国境に季節はなく、Tシャツ一枚でも汗ばむほどだった。ラオス側に入ると、緊張感が抜け、私は怠惰のかたまりみたいになった。

 そう、あとで考えるに、ここまで恐れることはなかった。タクシー運転手が言ったように、新疆ウイグル自治区の外まで追っ手が来ることはなかった。逆に言えば、自治区のなかだけの論法があり、理論があり、常識では考えられないことも起こりうるのだ。ウイグル人への弾圧はこのころからひどくなり、信じられないほどの人権蹂躙が起こり始めていた。この一年九か月後にはウルムチで「ウイグル大騒乱」が起こり、多数の死傷者が出ている。私が開催したシャーマン儀礼に対する処罰も大弾圧の一環といえるかもしれない。この儀礼そのものは、三千年前、ウイグル人が中央アジアの遊牧民であったころからずっと受け継がれてきた古代の文化である。こういったものを長年受け継いでいくこと、保っていくことはとてもむつかしいけれど、失うのは一瞬であり、簡単だった。

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