(2)お金が消えた! ギリシア人を追え! 

                  宮本神酒男 


 私はある意味便利屋さんだった。打ち出の小槌のように叩けばいくらでも少数民族のお祭り情報が出てくるのだから。ギリシア人のテッドが私と行動をともにしたがったのは、ひとつには情報を持っているからだった。90年代を通じて親しかったドイツ人のマヤもそんな感じだった。私より十歳くらい年上の彼女はミュンヘン在住の英語教師なのだが、毎年夏休みの時期に青海省の西寧か同仁県(レコン)で私と会ってから予定を組んでいた。私は情報を独占するつもりはなかったので、喜んで日時や見どころを教えた。

 康定(旧名は打箭炉、チベット語でダルツェンド)はその地に足を踏み入れた瞬間、チベットにやってきたと感じさせる独特の雰囲気があった。歩けばすぐにチベット仏教の寺院があり、そこのお坊さんたちが三々五々と歩いていた。寺院内のバターランプの匂いが外に漏れだすのか、町全体にヤク・バター独特の匂いが立ち込めていた。町の海抜は2560mで、チベットのほかの地域と比べるとそれほど高いわけではないが、空気は薄く、7556mの美しいコンガ山(ミニャクコンガ山 gong dkar)が間近に迫り、圧迫感を感じさせた。コンガ山の中腹まで行ったのはこの15年後(2006年)だった。このときは町でチベット仏教美術の権威と言われる人の自宅を訪ね、またケサル文化協会の会長兼作家とも会っている。

 町から跑馬(パオマ)山の転山会の会場まで歩いて1時間たらずだった。農暦四月八日(チベット暦かもしれない)、釈迦牟尼が生まれたとき、九匹の竜が水を吐いて赤ん坊に沐浴させたという。そのためこの日を「沐仏節」ともいう。人々はこの日香を焚き、ルンタ(風馬)を撒き、祈りを捧げる。さらに歌、踊り、演奏を披露する。また馬に乗って競争をしたり、流鏑馬をしたりする。このあと人々は聖なる山を巡礼(コルラ)する。

 この時期、私はポケットがたくさんついたズボンを愛用していた。ズボンのお尻のポケットに財布を入れるのは危険だし、マネーベルトも安全とはいいがたかった。実際、翌年バスの中でズボンを切られ、マネーベルトのお金を盗られている。私は意表を突いてふくらはぎあたりのポケットにお金を入れていた。どんなスリでもこのポケットから抜き取るのは不可能だと思ったのである。私はテッドに「ここに入れるなら意外と安全だ」とこのポケットを見せながら説明した。そう、たしかに説明したのである。

 問題となる日の朝早く、6時前にテッドは一足早く成都へ向かった。私はもう一日か二日、康定に残ろうとしていた。私はベッドのシーツにくるまっていて、もう30分は寝ていようとぼんやり考えていた。テッドが何かごそごそやっているような気がしたが、出発の準備を整えているのだろうと思った。ソファに置いていたわがズボンのあたりにいるのが気にはなったが、起きて確認することはなかった。

 テッドが出ていったあと、起き上がり、顔を洗ってトイレをすまし、なんとなくいやな感じがしたのでズボンのポケットを見ると、中の現金がなくなっていた。頭の中の霧を払うように頭を数回振ってみる。どう考えても、あるべきお金がない。テッドだ。このギリシア人以外お金を抜き取るのはノーチャンスだ。突然、テッドが怪しい人間に見えてきた。信用していた人物が詐欺師であることに気づいたときと一緒だ。「そんなはずはない」とはじめは思う。「あの人はいい人だ。そんな悪いことをするはずがない」。

 悪い人に見えたら、彼は詐欺師ではなく、ヤクザなのだ。詐欺師であるからこそ、彼はいい人に見えるのだ。きわめて当たり前の結論。

 テッドはそもそも本当に写真家なのだろうか。ライカを持っているのはたしかだし、人物の写真の撮り方はプロフェッショナルである。しかし肝心の彼の作品は一枚も見たことがない。あるとき欧米人旅行者らの前で彼は「わたしはフクロウの写真を撮ったことがある」と高説を述べ始めたことがあった。「あの鋭い目。間近で撮った写真はわたしの最高傑作だ」。

 何か違和感を覚えた。何年も中国の少数民族地帯にいるのなら、その方面の写真を撮っているのではないか。しかしもちろんその方面のいい写真をたくさん撮っているかもしれないし、フクロウの写真は本当にすばらしいのかもしれない。

 しかし知識が生半可であることはまちがいない。たとえば彼はナシ族(納西族)のことをナキとかナクヒと呼ぶ。昔の研究者ジョセフ・ロックがNa-khiと記述しているからだろう。しかし当のロックがkhiの発音はドイツ語のイッヒのヒに近いと注釈に書いているのである。つまり正しくはナヒ族(江戸っ子の発音で)だ。中国にはヒの発音がないので(ヒトラーはシタラーになる)西(xi)という字を当てている。地域によってはナへ族、ナハ族と呼ばれる。彼は中国語が話せず、読めず、英語を通じて得られる情報もわずかなものにすぎなかった。

 彼の話を総合すると、彼はもともと船員だったのではなかろうか。だから世界中の波止場を知っているのだ。築地の寿司屋によく行っていたのも船が東京に寄っていくからだろう。しかしある時期、世界中に海運不況の嵐が吹き荒れ、船員の多くが解雇された。

 テッドは長期滞在先として中国を選んだのではなかろうか。当時は驚くほど物価が安く、一日三百円で暮らすことができた。外国人、とくに日本人と仲良くなり、そっと財布からお札を抜き取る。一枚や二枚抜き取っても、案外気づかれない。私の場合、リスクを冒して一挙に10枚の札を抜き取ったのである。

 私は地元の公安局に出向き、事情を話して成都の公安局に連絡してもらい、彼の身柄を拘束するよう頼んだ。私は煮えたぎる怒りを抑えながら、翌日バスに乗り、成都へ向かうことになった。

 成都に着くと、私はすぐに公安局へ行った。すでにテッドには連絡が行き、呼び出され、建物のどこかにいるようだった。結局、異なる部屋で別々に事情聴取を受けることになった。しかし絶望的な気分にならざるをえなかった。私の推測の通り、ずっとこうやって仲良くなった人物の財布からお金を抜き取って旅の資金に充てているなら、そのことを自白するわけがないだろう。のちにテッドを知る友人(シーサンパンナでタイ族の建築を研究していた大学院生)にこのことを話し、「テッドってそんなことをする人物だと思う?」ときくと、一瞬考えて、「たしかに、ありえるね」と言った。彼もテッドのことを不審に思っていたのだ。

 取り調べ担当官はひとりだった。彼はテッドから事情聴取をしたあと、私と一対一で会った。担当官は言う。「あのギリシア人が言うには、あなたはすでにお金をなくしていたのに、あとになってこちらの責任にしようとしている、と」。

 私は唖然としてしまった。いや、そんなこと言うはずがない。この担当官が鎌をかけているのではないか。そもそも私が被害者なのに、なぜ対等の扱いになるのか。おそらくギリシア人の風貌のせいだろう。ひとかどの人物に見える。こんな立派そうな人物が泥棒みたいなことをするだろうか、と。もしかするとギリシア人と日本人は喧嘩しているのではないか。だから日本人が濡れ衣を着せようとしているのでは、と。

 こうして膠着状態になったまま、事情聴取は終わり、ホテルに戻ることになった。帰り際に担当官は言った。「なかなか証拠がないとむつかしいですね。持ち物を見せろともいえないし、もう換金しているかもしれないし。気持ちはわかりますが」

 ホテルの部屋に戻り、しばらくするとテッドがやってきた。きわめて黒に近いグレーだが、彼が白状する可能性はほぼない。私は公安の担当官が鎌をかけたという話をした。「そんなこと言ってないよね」と言うつもりで。ところが彼のことばは驚くべきものだった。

「そもそもズボンのポケットに入れていたなんて知らなかったよ」

 私は一瞬切れそうになった。あれだけはっきりと、ここにお金を入れていると言って、お札まで見せたというのに、知らなかった? 彼が詐欺師であり、泥棒であることに確信を持った瞬間だった。

「テッド、やはりおまえが盗んだのか……」

「わたしはやってない。日本人は好きだったが、おまえみたいなひどい日本人はあったことがない!」彼の口髭がブルブル震えていた。

 そしてわが頬に平手打ちを食らわした。ビシッときれいな音がした。私も負けじと彼の臀部に蹴りを入れた。彼は怒りを収めるふりをしながら部屋を出ていった。もう二度と会うことはないだろう。

 その年の11月、私は四川省北部の茂(マオ)県にいた。羌(チャン)族の地域である。羌年、すなわち羌族の新年がおこなわれるはずだった。はずだった、とうのは、めでたい新年の行事が中止になっていたからだ。

「新年はいつから始まるんだい」と私は旅館を経営している家族の息子に聞いた。

「今年は中止だよ」

「中止? せっかくここまで来たのに中止とは。どうして?」

「近くの家の娘が毒を飲んで自殺してしまったからなんだ」

 調べると、たしかに死亡者が出ると新年行事は中止になると書かれている。春節だけを祝うのだという。

 ところで、私はテッドがここに来るのではないかという予感がしていた。彼にその日程を教えていたからだ。旅館の二階の部屋にいるとき、下のほうで口笛が聞こえた。陰気なメロディ。テッドがいつも吹いていた口笛だった。そのメロディは二、三年前にはやった流行歌だった。ただその流行歌は明るい曲調なのだけれど、テッドが吹くと陰鬱な調子になるのだった。しかしこのときは顔を合わせることはなかった。

 2002年、私はアメリカ人の友人ジェフといっしょに第一回のケサル大会を見に青海省のゴロクに行った。ここのホテルのロビーで久しぶりにテッドの顔を見たのである。彼は老けて、体が弱っているように見えた。私に気づいていないのか(気づいていないふりをしているのか)こちらを見ないでジェフに話しかけた。何を言っているのか、中身は忘れたが、いちいち語尾にSirをつけているのが気になった。こんな卑屈なしゃべりかたをするやつなんて見たことがなかった。私といっしょにいるから学者だと思ったのかもしれない。ジェフは学者ではなく、チベットとボリビアが気に入っている旅行好きのアメリカ人にすぎなかった。このときは私といっしょにゴロクの草原でケサル英雄叙事詩の文化を知り、バスで南下してアバ(このあと焼身自殺者がたくさん出たことで有名になってしまった)のチョナン派の寺院やボン教の僧院を訪れている。

 テッドがその後どうなったかはわからない。テッドを見かけたのとおなじ頃、チベット自治区で出ている季刊誌の表紙に「外国人旅客」として写真が載っていたので驚かされたことがあった。いま存命だとしてもずいぶん高齢のはずである。



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