老いについて    宮本神酒男 

萩原朔太郎、老いについて語る 


「老いて生きるということは醜いことだ」

 冒頭から直球をぶつけてくるのは『月に吠える』で知られる詩人萩原朔太郎(18861942)である。この一言がグサリと胸に刺さるのは、朔太郎の享年(55歳)と同じ50代か、その前(40代後半)か、60代かもしれない。30代までなら、「たしかに老人は醜いな」とか「おれは老いるまで生きちゃいないよ」と瞬時に反応するかもしれない。

 朔太郎自身も死や老いについて考え方の変遷があったことを認めている。

「自分は少年の時、二十七、八歳まで生きていて、三十歳になったら死のうと思った。だがいよいよ三十歳になったら、せめて四十歳までは生きたいと思った。それが既に四十歳を過ぎた今となっても、いまだ死なずにいる自分を見ると、我ながら浅ましい思いがすると、堀口大学君がその随筆集『季節と詩心』のなかで書いているが、僕も全く同じことを考えながら、今日の日まで生きのびてきた」

 6つ年下の詩人、フランス文学者の堀口大学(18921981)が90歳近くまで生きたことを考えると、朔太郎の60代、70代になってからの老いの感想が聞けないのは残念なことである。この文を書いている時点で朔太郎は50代であり、つまり死を目前にしていたので、これ以上の感想は持てなかったのだ。この没年では夭折の詩人とは言い難いが、かといって長寿を全うしたわけでもないので、中途半端な年齢で没したことになり、老境の詩作が見られなかったのは我々としても残念である。

 朔太郎は老いについての若いときの気持ちを思い起こす。

「三十歳になった時に、僕はこれでもう青春の日が終わったと思い、取り返しのつかない人生を浪費したという悔恨から、泣いても泣ききれない断腸悲嘆の思いをしたが、それでもさすがに、自殺するほどの気は起こらなかった」

 彼は40歳になって中年になったら自決しようと考えるが、いつのまにか40歳を過ぎ、50歳の坂を越えた老年になっていると嘆く。

「五十歳なんて年は、昔は考えるだけでも恐ろしく、身の毛がよだつほど厭(いや)らしかった。そんな年寄になるまで生きていて、人から老人扱いをされ、浅ましい醜態を晒して徘徊するくらいなら、今のうちに早く死んだほうがどんなにましかも知れない」

 50歳になった朔太郎は想定していた境地にないことを知る。

「ところがいよいよ50歳になってみると、やはりまだ生に執着があり、容易に死ぬ気が起こらないのは、我ながら浅ましく、卑怯未練の至りだと思う」

 朔太郎は一般の芸術家も同じで、「芸術家に年齢なし」というが、彼らは精神的に永遠の青年であるだけでなく、肉体的にも永遠の青年でありたいと欲するはずだと考える。俳優や女優が「世の常のいかなる人にもまして、老いを悪夢のように恐れ厭うのは当然である」が、文学者や詩人もそれについては変わらないという。

「故芥川龍之介の自殺については、色々な動機が憶測されているけれども、或る確かな一説によれば、あの美的観念の極度に強い小説家は、常に自分の容貌のことばかり気にして、老醜を晒すのを厭(いや)がっていたということだから、あるいはそうしたことが、有力な動機になっているかもしれないのである」

 まさか芥川のような文豪がそんな理由で……と思ってしまうが、あながちありえない説でもないのだ。

「ギリシアの神話にある美少年ナルチスは、自分の青春の姿を鏡に映して、惚れ惚れと眺め暮らしていたということであるが、芸術家という人種は、原則として皆一種の精神的ナルチスムスである」

 芸術家は常にイメージのなかでは永遠の美少年でありたいので、故意に鏡を見ないようにし、無精髭を生やして汚くしている、と朔太郎は持論を述べる。

 しかし老いということはそれほど悲しいものではない、むしろ若いときよりは、ある意味ではるかに楽しいものだ、と前述のキケロ(大カトー)とおなじようなことを言っている。

 なぜなら若いときは「不断の試験地獄に苦しめられ、慢性的な神経衰弱にかかっていた」し、「何よりも悲しいことは、性欲ばかりが旺盛になって、明けても暮れてもセックスの観念以外に何も考えられないほど、激しい情火に反転悶々することだった」と心情を吐露する。

 人生の楽しさを知ったのは、40歳になってからのことだという。いくらか収入が入るようになり、妻とともに独立した生活をすることができるようになり、子供が親の手を離れたとき、自由の本当の意味を知る。

「物質の窮乏などというものが、精神の牢獄から解放された自由の日には、ほとんど何の苦にもならないものだ」ということを味得(みとく)するのである。

 しかし朔太郎はその時期に父親の遺産を継いでいるので、物質の窮乏から逃れることのありがたさを本当は知っていたはずである。彼は若いときには物質ではなく、精神上の余裕のなさが問題だとする。

「青年の考える人生というものは、常に主観の情念にのみ固執しているところの、極めて偏狭なモノマニア的なものである。彼らは何事かを思い詰めると、狂人の如くその一念に凝り固まり、理想に淫して現実を忘却してしまうために、遂には身の破綻を招き、狂気か自殺かの絶対死地に追い詰められる」

 中年期に入ると、人はようやくこうした病状から解脱することができるという。

「自己と対立する世界を認め、人生の現実世相を、客観的に傍観することの余裕を得てくる」のである。

 しかし喜んでばかりもいられない。

「苦悩がないということは、常にその一面において、快楽がないということと相殺する。老いて人生が楽しいということは、別の側から観察して、老年のやるせない寂しさを説明している」

 老いのネガティブな面を朔太郎はさらに明かしていく。

「老いて何よりも悲しいことは、かつて青春時代に得られなかった、充分の自由と物質とを所有しながら、肉体の衰弱から、情欲の強烈な快楽に飽満できないという寂しさである」

 それにもまして悲しいのは、純潔な恋愛を異性から求められないと朔太郎は述べて、ゲーテの例をあげている。

「八十歳になったゲーテが、十八歳の娘に求婚して断られた時、彼はファウストの老博士を想念し、天を仰いで悪魔の来降を泣き呼ばった」

 ヨーロッパの元首相や大統領、どこやらの富豪や日本の老いた芸能人のように、年を取ってから若い娘を嫁や妾にするという話はよく聞くことである。しかしそれはあくまでカネの力によってつなぎとめているのであり、純粋な愛情というものを求めるだけ無駄というものだろう。それは決して幸福な老後の姿ではないが、一般の老人はもちろんそうした特権も持っていないのである。

 朔太郎はアナトール・フランスの「神は何故に人間を昆虫のように生態させてくれなかった」という言葉を引用している。幼虫時代は醜い青虫の時代であり、食い気に専念し、飽満の極みに達したとき、繭を作って蛹となり、仮死の状態に入って昏睡する。

「その昏睡から醒めた時、彼は昔の青虫とは似もやらず、見違うばかりの美しい蝶と化して、花から花へ遊び歩き、春のうららかな終日を、恋の戯れに狂い尽くした末、歓楽の極みに子孫を残して死ぬ」

 ところが人間の生態は真逆である。

「ようやく準備が終わり、一人前の人間として、充分の知識や財産を蓄えた時には、もはや青春の美と情熱とを失い、蝉の抜け殻みたいな老人となっている」

 朔太郎は、西洋人のほうが人生を享受する秘訣を知っている、と述べる。学生時代の楽しみ方をよく知っているというのだ。それに比べ日本の学生や青年は抑圧されている。しかし老後に関していえば、西洋人より不幸ではないと主張する。

「なぜなら彼らは、老後において妻子眷属にかしずかれ、五枚布団の上に坐って何の心身の苦労もなく、悠々自適の楽隠居をすることができるからだ」

 残念ながら、朔太郎が描く日本人の老後の姿を現在思い浮かべるのはむつかしい。学生や青年の時代に西洋なみにエンジョイすることができるようになったが、一方で旧来の家族は崩壊し、孤独な老人が増えているのである。

「仏陀やショペンハウエルの教える通り、宇宙は無明(むみょう)の暗夜であって、無目的な生命意欲に駆られながら、無限に尽きない業(ごう)の連鎖を繰り返しているところの、歎きと煩悩の娑婆(しゃば)世界にほかならない。しかもその地獄から解脱するには、寂滅為楽の涅槃に入るより仕方がないのだ」

 そう述べて、「日本人という人種は、こうした仏教の根本原理を、遺伝的によく体得しているように思われる」という結論を導き出している。『徒然草』の兼好法師のように、出家悟道の大事を知って修行し、いつのまにか悟りをひらいてあきらめのよい人間に変わっているのだという。

 一方でトルストイやゲーテのように「プラトニックな恋愛を憧憬したり、モノマニアの理想に妄執したりする人間」は日本にはいないとする。

 朔太郎が思い描く日本人像、西洋人像はほとんどファンタジーのなかにしか存在しないようである。もし彼が長生きしていたら、せめて60代を経験していたら、彼の人生観、老後観、死生観もずいぶんと変わっていただろう。

 それにしても朔太郎は、こういった文を書きながら、自分の人生の終わりが近づいていることに気づかなかったのだろうか。

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