世界一みじめな難民キャンプ 宮本神酒男
ジャーナリスト・作家のロバート・D・カプランは、国境を隔てるナフ川のバングラデシュ側にあるテクナフ(Teknaf)のロヒンギャ難民キャンプを訪ねたときの印象をつぎのように記している。
「数々の難民キャンプを見たけれど、こんなにひどいところはなかった」。
竹とプラスチックでできた簡易小屋は平均的なサイクロンが来ただけで一割の屋根が吹き飛ばされるほど脆弱だった。衛生状態は劣悪で、下痢や皮膚病、気管疾患がはびこっていた。彼らはミャンマーからは国籍が与えられず、かといって難民となってもマレーシアやタイ、インドネシアなどから迎え入れられることはなかった。
バングラデシュには同胞も多く、ある程度はこうして難民キャンプに受け入れてもらえるのだが、維持費だけでも莫大な費用を要し「招からざる客」であることに変わりはなかった。
これもカプランの情報だが、サウジのNGOメンバーがロヒンギャの難民キャンプでテロリスト要員をリクルートしているという噂があるという。「だれかを殺したかったらロヒンギャを雇うといい」などまことしやかにささやかれるほど、裏業界が確立されつつあった。もちろんテロリストになったロヒンギャなど聞いたことないが、現在置かれている状況がそれほどにも八方ふさがりであることを表している。近年はIS(イスラム国)からの魔の手が伸びてきているかもしれない。
なぜこういう状況にいたったのだろうか。「国をもたない民」ロヒンギャの歴史について簡単にまとめてみよう。
*ムハンマド・ヌールの『エクソダス(出国)』(2012)は、ロヒンギャ自身が記した貴重な半生記である。ロヒンギャ難民のなかには空路でサウジアラビアに逃れる人々がいた。ムハンマドの両親は難民としてカラチのキャンプに収容され、そこでパキスタン国籍を得てからサウジアラビアに定住したロヒンギャ難民であり、彼はいわば難民二世だった。
彼は81年にメッカに生まれ、メッカの丘の上に育った。世界中のメッカ巡礼を夢見るイスラム教徒からすればうらやむべき境遇である。しかし彼は公共の学校に通うことができず、ロヒンギャ自身が建てた学校に通った。
長じてムハンマドはいろいろと手を尽くしてマレーシアの大学に進んだ。もとは無国籍ロヒンギャとはいえ、高等教育を受けることのできた恵まれた難民といえるだろう。
2006年、彼はインドネシアのUNHCR(国連難民高等弁務官事務室)から連絡を受けたマレーシアのUNHCRから通訳の仕事を依頼される。バングラデシュから小さな船団で脱出したロヒンギャのボートピープルが保護されたのだった。難民たちは十日間も飲み食いしなかったため、顔には黄疸が出て、瀕死の状態だった。ムハンマドははじめて同胞の置かれた悲惨な状態をつぶさにすることになったのである。
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