アラカン(ラカイン)とイスラム神秘主義(スーフィズム)   宮本神酒男

 アラカンの宗教史は一筋縄ではいかない。ゴータマ・ブッダと同時代からこの地には仏教が栄えてきた、と地元のラカイン人は誇らしげに語るが、その宗教史は何かがおかしい。そもそもラカイン人がこの地にやってきたのは西暦1000年頃なのだから、それまでのことは話半分に聞いておいたほうがいいだろう。紀元前にマハムニ・パヤー(寺院)を建てたのは、おそらくインド人(ベンガル人)仏教徒だった。その後、ウェータリーを都とするヒンドゥー教王朝を経て、ムラウー王朝(1430ー1784)は、国王と貴族階級がイスラムに感化されていたか、イスラム教徒そのものかどちらかだった。平民に仏教徒が多かったとしても、宮廷は完全にイスラム化していたのではなかろうか。

 アラカン人にとってベンガル国のイスラム教のはなやかな宮廷やその文化はあこがれの的だった。イスラムのスーフィズム(神秘主義)も時代をときめく先進的な文化だった。とくにベンガルにおいてはヒンドゥー教神秘主義とイスラム教神秘主義が相互に影響し合い、詩や散文として後世に残されることになった。

 当時、ベンガルには5人の聖人、すなわちパーンチ・ピール(Panch Pir)と呼ばれるスーフィー伝説が流布していた。ガジ・ミヤン(サラル・マスード)、ズィンダ・ガズィ、シャイフ・ファリド、ファジャ・ヒズル、そしてピール・バドゥル(Pir Badr-i 'Alam ?−1440)の五人である。このなかでアラカンに来たことがあるのはピール・バドゥルだけだった[ベンガルの5人のスーフィー聖人のうちのひとりがアラカンに来たということは、アラカンもベンガルの一つという意識があったからかもしれない。少なくともベンガル人はたくさん住んでいたのだろうただしこのパーンチ・ピール信仰はイスラム教徒だけでなく、ヒンドゥー教徒にも見られる]。

 アラカンではピール・バドゥルは船乗りの守護聖人としていまも身近な存在である。彼は(現在のバングラデシュ内の)フェニ川上流の森で修行を積んだあと、水に浮く岩に乗ってチッタゴンにやってきた。彼はさらに、魚の背中に乗ってアラカンを訪れた。魚に乗ることが意味するのは、川を支配したということらしい。今も、船乗りが出発する際には、ピール・バドゥルの霊にたいし、つぎのような歌をうたう。

われらは(彼の)子供のようなもの。
われらの守護神はガズィ(5人の聖人のひとりガズィ・ミヤーン)なり。
われらの前にガンジス河を広げよう(われらは何も恐れない)。
おお、パーンチ・ピール(5人の聖人)よ、あなたがた皆をここに呼ぼう。
おお、バドゥルよ、バドゥルよ。
(Amara achchi polapan / Gazi achche nigahman / Shire Ganga dariya Panch Pir / Badr, Badr, Badr)
 

 ピール・バドゥルの象徴的な廟は(実際の墓<チョーティ・ダルガー>はビハールにある)、チッタゴン、アラカン、東ベンガルのどこかの河口を向いた場所に建てられた。17世紀の歴史家タリシュ(Shihabu'd-Din Talish)によれば、チッタゴンの丘の上に建てられたアスタナ(記念館)は参詣者に守られてきた。彼らはここで祈祷と断食に時間を費やしたという。仏教徒やヒンドゥー教徒のマグ人はここにいくつかの村を寄贈し、そこを巡礼センターとした。ラカイン人に言わせればマグとはブッダの時代のマガダ国のことであり、つまりラカイン人のことである。驚くべきことに、この時代にはヒンドゥー教徒がまだたくさんいて、仏教徒とともにこのイスラム教神秘主義の聖人をあがめていたのである。現在のラカイン人が「チッタゴンにはいまだにラカインの仏教徒が住んでいる」と語るとき、それはこの村々のことを指しているのだろう。


 17世紀、ふたりのベンガル詩人がアラカンの宮廷で重用された。
 ダウラト・カズィ(Daulat Qazi)はティリ・トゥダンマ王(Thiri Thudamma 在位1622−1638)のとき、ラスカル・ウズィル(laskkar wazir 戦争大臣)アシュラフ・ハーン(Ashraf Khan)の庇護を受け、『サティマイナ・ロル・チャンドラニ(Satimaina Lor-Chandrani)』という詩文集を編纂した。ただ、カズィが急逝したため、完成には至らなかった。
 それを完成させたのはアラオル(Alaol)だった。アラオルは1600年頃、ベンガルに生まれた。父親はファテハバードのザミーンダール(大地主)マジリス・クトゥブのもとで働いていた。あるときアラオルは父とともに舟で旅をしていたところ、ポルトガル人の海賊に襲われ、父が殺された。アラオルはなんとか逃げて、泳いでアラカンの岸に渡った。
 彼はのち騎兵隊に入るが、その育ちのよさ、知識、楽器の巧みさが知れ渡った。王のもとの首相であるマガン・タクル(Magan thakur)はアラオルに弟子入りするとともに、パトロンとなった。彼は代表的な作品『パドマワティ(Padumavati)』を編纂した。この作品のもとになったのは、北インドのスーフィー詩人ジャヤシがメワル国の女王パドマワティの生涯について書いたものだった。これはアラカン王タド・ミンタル(在位1645−1652)のときに編纂された。
 またアラカン王のもとの首相スリマト・スライマンの庇護も受けた。スライマンの要望を受けて、カズィの未完の『サティ・ナイマナティ』を完成させた。アラオルはさらに、ベンガル語、アラブ語、ペルシア語の作品を翻訳した。そして音楽に関する論考を書き、ラーダとクリシュナを主題とした韻文を著した。

 当時、ベンガルはムガル朝の一部であり、世界に誇る高度な文化が咲き誇っていた。その文化の香りがアラカンにまで流れてきて、あらたな花が開こうとしていたのである。バガン系ビルマ人を先祖にもつ人々がアラカンの主体民族であったとしても、ベンガル系の人口もその半分くらいには達していたはずで、なんといっても、宮廷内はベンガル文化に酔いしれていたのである。

[参考:Saiyid Athar Abbas Rizvi 'A History of Sufism in India'] 



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