2 疑問だらけのアーリア人侵入説

 歴史の本をひもとけば、この「アーリア人侵入説」が今も古代インド史の中心をなしていることに気づく。
 これを短くまとめると、紀元前1500年から1000年頃、インドは中央アジアから来た白い肌の遊牧系のインド・ヨーロッパ語族によって侵略され、征服されたという仮説である。彼らは黒い肌のより進んだ文明をもったドラヴィダ人を追いやった。侵略の過程でアーリア人はドラヴィダ人に何も与えなかった。ただ彼らは言語(インド・ヨーロッパ語族であるサンスクリット語)とのちにインド社会の中核となる祭司階級を付け加えたにすぎない。

 いわゆるアーリア人、すなわちヒンドゥー教の最古の聖典であるヴェーダをかかげる人々は、賢者や預言者、あるいはリシやヨーガ行者でなく、原始的な収奪者であるかのごとくいわれた。そのため祭司カーストはヒンドゥー教や文化の影の部分と思われた。

 いっぽうアーリア人以前、すなわちドラヴィダ人は、インダス文明またはハラッパー、モヘンジョダロの都市遺跡の主とみなされてきた。このインダス川流域に発達した文明をわれわれはハラッパー文明と呼ぼう。というのはこの文明はインダス川流域を越えてはるか遠くまで伸びているからである。
 それは目下のところ紀元前3100年から1900年にかけて繁栄したと考えられている。アーリア人侵入説によれば、インドの古代文明はヴェーダ以前に築かれた文明であり、ヴェーダがどれほど厖大な量を誇る文学であろうと、それにつづく暗黒の時代に書かれた作品ということになる。ヴェーダ後の時代に復活したヴェーダ以前の文化のみが古代インドの都市文明だとされる。

 アーリア人侵入説が基本となり、インドの歴史は西からの絶え間ない侵略によって成り立ったと考えられてきた。インド土着の人々、文化的革新ともほとんどなかった、というわけだ。アーリア人、ペルシア人、ギリシア人、スキタイ人、フン人、アラブ人、トルコ人、ポルトガル人、イギリス人、そういった外部の人々がつねにインドに押し寄せてきたように見えるのだ。
 しかしこの論理でいうならば、ドラヴィダ人もまた外部からやってきたということになるだろう。アーリア人の来る数千年前にドラヴィダ人は中央アジアから来て、先住民を駆逐したということになる。先住民はその地域の部族民だろう。もっとも、ドラヴィダ人侵入説は広い支持が得られているようには見えないが。しかし西方ばかり見て、インドそのものを見ないなら、そういうことになるのである。

 アーリア人侵入説はたんなる歴史家の研究対象ではなかった。植民地時代、英国はいわゆるアーリア・ドラヴィダ・ラインによってインドを南北に二分した。さまざまな南インドの政治家がそれをドラヴィダ人のアイデンティティーの礎とした。
 アーリア人侵入説はまたマルクス主義者に利用された。インド史においてカースト間の闘争は階級闘争にあたり、アーリア人以前の土着の人々は抑圧された大衆、アーリア人は抑圧者、すなわち堕落した支配者階級というわけである。
 キリスト教やイスラム教の宣教師はこの仮説を用いて野蛮な侵略者の産物としてヒンドゥー教を貶め、改宗を促した。こうしてインドには真の土着の文明が育っていないとされ、外国人の支配が正当化されるのである。
 今日でもインドの新聞の紙面に現代版のマルクス主義や反ヒンドゥー教の政治家のこのような意見が散見されるのだ。しかしそれらはインドの真のアイデンティティーでもヒンドゥー教でもなく、外部から来た人々や文化の寄せ集めにすぎない。それゆえこの点を吟味することは、おそらく今日のインドにおいてもっとも知的で活気のある関心事だろう。

 アーリア人侵入説はヨーロッパや中東にも適用される。紀元前二千年紀にインド・ヨーロッパ語族はこれらの地域にも侵略したと考えられているのだ。中東の、すなわちメソポタミアのもっとも古い文明も、こうして形成されたという。
 アーリア人侵入説はヒンドゥー教や仏教などの東方の宗教がキリスト教やイスラム教など西方の宗教に劣っていることを示すためにも利用された。西方の宗教はアダム、すなわち聖書のなかの最初の人間に始まっているが、アダムはメソポタミアから来たというのである。メソポタミアの古代宗教は神や女神、寺院崇拝などにおいて、はるかにヒンドゥー教に類似しているにもかかわらず。

 アーリア人侵入説は歴史と一致しないのだが、政治的、宗教的に利用されてきた。侵略論を少し変えながら、東西の古代文明の解釈を変えてきた。それが抵抗にあったとしても、イデオロギーに沿うように論点を変化させたのである。
 矛盾点があったからといって、簡単に侵入説が引っ込められることはなかった。もし都合の悪い証拠が挙がったとしても、あらたに論を練り直すだけのことだった。論の中核点はあくまで固持したのである。

 しかしながらあらたな証拠の積み重ねによって、いよいよアーリア人侵入説は否定されようとしている。それを支持する考古学的、文書記録的、言語学的証拠は、実際ほとんどないのだ。専門の研究者のあいだで、ヴェーダをかかげた人々(すなわちアーリア人)を外部から来たとする人々でさえ、アーリア人が残虐な侵略によってハラッパーを破壊したという古典的な侵入説には賛成しなくなったのだ。

 四つの論点が浮かび上がってきた。

1)ハラッパー文明の中心はむしろヴェーダで有名なサラスヴァティー川である。インダス川流域に三十数ヶ所の遺跡が発見されているが、サラスヴァティー川流域からは五百以上の遺跡が発見されている。紀元前1900年頃にハラッパー文明が滅びるのは、まさにこのサラスヴァティー川が干上がってしまったためである。ヴェーダはハラッパー文明の頂点期にはすでに存在していたにちがいない。ゆえにハラッパー文明はサラスヴァティー文明と名づけるべきだろう。このヴェーダの文化は紀元前2000年より前に遡ることができる。

2)古代インドには、侵略者の存在を示す証拠、破壊された都市、殺戮された人々を示す痕跡はいっさい発見されていない。ウィーラーが発見したとされるモヘンジョダロの殺戮現場は、イマジネーションが歪めてしまった好例である。気候の変化によってサラスヴァティー川が干上がり、人々はそこに住まなくなった。

3)アーリア人の文化は馬、鉄、牧畜、火の崇拝と関連付けられる。ハラッパーやハラッパー以前の遺構からそれらは発見されてきた。古代インドのアーリア文化は土着の文化ととくに異なることはなかった。

4)ヴェーダをしっかり読むと、古代世界最大のハラッパー文明は、古代文学中最大のヴェーダと矛盾しないことがわかってくる。ヴェーダは特定の文明と関係深いわけではないが、ハラッパー文明の破壊にかかわってきたかのように言われてきた。古代最大の文学であるヴェーダが文盲の遊牧民によって書かれ、彼らによって偉大な文明が滅ぼされた、しかもその文明は文字をもち、都市型の文明だった‥‥というのは矛盾だらけであまりにもばかげているのではなかろうか。

 これらのことから、ヴェーダの文化、農業、芸術、工芸などは、ハラッパー文化、前ハラッパー文化とまったくおなじであるという結論が導き出される。ヴェーダの文化はハラッパーとほぼおなじ地域だが、サラスヴァティー川を中心としていた。
 侵入説を捨て去ると、数多くの謎が一挙に解ける。ヴェーダは古代世界最大の文学であり、ハラッパー文明は古代世界最大の文明である‥‥つまり五千年にわたってインドはずっと文明の中心でありつづけたのだ。

 もはや過去の遺物となりつつあるアーリア人侵入説は捨て、新しいモデルを書かなければならない。インドの文明は紀元前6500年から絶えることなくつづいてきたのである。侵入説が主張する闖入者についてあれこれ考える必要などないのだ。インドの古代文明は侵略者によって絶滅したのではなく、つねに発展し、その記録はヴェーダとして今日も残っているのだ。

 こうしてインド、西欧の研究者たちはアーリア人侵入説を捨て、考古学、骨相学、地理学、数学、天文学、言語学などからあたらしい証拠を得ている。
 具体的には、S・R・ラオ、ナヴァラトナ・ラジャラム、スバシュ・カク、ジェームス・シェイファー、マーク・ケノイヤー、S・P・グプタ、バグワン・シン、B・G・シッダールト、K・D・セトナ、K・D・アビヤンカル、P・V・パタク、シュリカント・タラゲリ、S・カリヤナラマン、B・B・チャクラヴォルティ、ゲオルグ・フエルスティン、それに私自身である。これらの考え方は、一昔前のインドの学者やヨギ、たとえばオーロビンドやティラクなどとまったくおなじであることがわかる。

 アーリア人の起源を外部に求める学者は少数派になり、侵略、破壊説もまた支持されなくなっているが、それでも彼らは外部説にこだわりをみせている。アーリア人が移動してきて、土着の人々と融合し、混合したという説は元来の侵略、侵入とは大幅に異なっている。(この点に関してはローミラ・タパルを参照)
 これらの学者の一部はハラッパー文化のなかに、たとえば火の崇拝などヴェーダ的要素を認めるようにはなってきたが、ハラッパー文化全体をヴェーダ的と認めるにはいたっていない。

 ヴェーダの人々がインド土着か(これが現在の主流である)あるいは時間をかけてインドへ移動してきたのか、いずれにせよ侵略者、破壊者としてのアーリア人のイメージはなくなろうとしている。
 ファシストの原型としてのインド・アーリア人のイメージはまったくの間違いだった。ヒンドゥー教ないしヴェーダの文化は平和的であり、他国を侵略することはなかった。ドラヴィダ人を追いやり、古代インドに暴力のイメージを焼き付けたのは理由のないことだった。

 この文の趣旨は、拙著『神、聖人、王』で私がすでに詳しく述べたように、侵入説がまったくもってばかげていることを実証することである。

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