3 アーリア人侵入説とは何か

 特筆すべきことは、インド史において、アーリア人の侵入は記されることも記録されることもなかったということだ。19世紀にヨーロッパの学者らが提唱するまでそういった考え方そのものがなかった。
 亜大陸といわれるほどの大きな地域を「征服」したというのに、「征服」した人々も「征服」された人々も記録に残っていないのだ。インドからその記憶が消えてしまったというのだろうか。

 もしヒンドゥーの古代文学、つまりヴェーダをよく読んだなら、デリーの西を流れるサラスヴァティー川から東西に文明が拡大していったことがわかってくる。
 サラスヴァティー川はハラッパー文化の中心地でもあった。プラーナをよく読めば、ガンジス川からインドの古典文化が拡大していったことがわかってくる。
 「征服」されたドラヴィダ人であるタミールの王たちさえも自身をアーリア人と呼び、ヴェーダの王の末裔であることを誇っている。ヒンドゥー文学をもとにするかぎり、彼らはインド国内のどこかから勢力を拡大しているのであり、国外から入ってきたのではない。

 しかしながら現代の学者はアーリア人侵入を基礎にヒンドゥーの古代文学を読んできた。考古学的発見もまたそういった考え方に沿って適用され、ヴェーダもまた誤読し、都合のいい部分ばかりがピックアップされ、不都合な箇所は無視された。この本では侵入説によって作られた考え方に焦点を当てていきたい。考古学に関しても同様である。

 もっとも興味深いのは、アーリア人侵入説はいかなる考古学的発見をも基にしていない点だ。19世紀の時点ではまだほとんど発掘されていなかったのだ。
 侵入説はあくまでも言語学的仮説だった。インド・ヨーロッパ語の相似からインド・ヨーロッパ語族の故郷がヨーロッパか中央アジアのどこかにあるにちがいなく、そこから移動と侵略がはじまり、インドに到達した。

 もしそうした言語学的仮説が受け入れられるとしても(ありえないわけではない)侵略や移動(それらはまったく異なる現象だ)は紀元前1500年かもしれないが、同様に紀元前6000年であってもおかしくない。実際そのような早い時期に、インドからヨーロッパにかけての広い地域にインド・ヨーロッパ文化が存在していたように思われる。古代では現在よりはるかにゆっくりと文化は発展し、拡大していたのである。

 アーリア人の移動はよく言われるような西からインドではなく、インドから西ではないだろうか。いくつもの大河をもつ亜熱帯インドのほうが、現在でも人口過疎の荒涼とした中央アジアや寒冷な東ヨーロッパよりも、移動に必要な人口を生み出せるのではなかろうか。アーリア人侵入説や略奪者としてのヴェーダの人々のイメージ通りに暴力的に侵略する必要はなかった。

 インド亜大陸のような巨大な地域の歴史を組み立てるのに、言語学は十分な道具とはいえず、ときには間違いを導き出した。言語学的証拠と呼ぶが、それは仮説にすぎない。現存する言語の断片を寄せ集め、言語の原型や起源を再構築し、異なる言語間に存在する語彙をもとに文化を特定し、言語の変遷を推測して時系列にまとめる、などなど。
 それらは堅固な証拠とはとうていいえない。ほとんどの場合、古代の言語は絶滅したか、わずかに残っているにすぎない。
 しかしヴェーダはよく保存されてきたので、さまざまな仮説をあてはめようと試みられてきた。まったく異なる文化や価値観をもつわれわれ現代人が、わずかな言語の断片をもとに古代の言語や歴史を読み解くのは、あまりに無理があるのではなかろうか。

 言語学的だけでは、たしかなことは何もいえない。多くの学者が唱えてきたアーリア人の言語の起源地は、中国西部からハンガリー、スカンジナビアからアナトリア(トルコ)のどこか、ときにはインドさえ含まれるのである。そのような言語学的仮説を文学や考古学のような堅固なものにあてはめるべきではない。実際ヴェーダ文学や古代インドの考古学的発見はそれら言語学的仮説にしばしば反するのだ。

 侵略者アーリア人のもとと特定される古代インドの文化は存在しない。遺跡も、埋葬跡も、農業の痕跡も、陶器もなく、アーリア人の作った物はひとつとして確認できない。また彼らの故郷とされる中央アジアからやってきたそのルートには何の痕跡も残されていない。いかなるものも時間の試練に耐えなかったというのだろうか。それにまた文化、宗教、人々、そのいかなる点においてもアーリア人を非アーリア人と区別することはできない。

 最近の考古学的発見はハラッパー時代とハラッパー後のギャップ(紀元前1900−1000年)を埋めつつある。この時期はもともと「ヴェーダの暗黒時代」と呼ばれ、アーリア人が侵攻してきた時代とされてきた。それと矛盾する証拠もまたなかったのだ。
 しかしアーリア人侵略によるハラッパー以後の停滞は、サラスワティ川の乾燥・消滅によるハラッパー文化の移動と発展によって説明されるようになった。ハラッパー文化の主な要素は保たれ、村の数はむしろ増加しているのだ。ハラッパー以後の時代の都市は少ないが、ラオ博士はグジャラートにドワラカとベト・ドワラカというふたつの都市遺跡を発見している。紀元前1500年頃のドワラカは、実際モヘンジョダロよりも大きく、ハラッパー遺跡のなかで最大の都市である。

 クリーブランドのケース・ウェスタン・リザーブ大学の考古学者ジム・シェイファーは最近の論文のなかで大胆に述べる。

 紀元前千年期以前の南インドで考古学的に唯一西から東への移動がみられるのは、ハラッパー集団とインダス川流域のモザイク状の集団だけである。

 アーリア人侵略論が成り立つには、中央アジアからインドへという西から東の移動の証拠が必要だが、それはみつかっていない。シェイファーの指摘する移動は、乾燥・消滅したサラスヴァティー川からガンジス川への移動であり、文化そのものは継続している。
 それはサラスヴァティー川を中心とするヒンドゥー文学がガンジス川を中心としたプラーナ文学に移行するのと軌を一にするのだ。つまり古代インドにおいて西から東へ移動するのはハラッパー文化(サラスヴァティー文化)の人々だけであり、外部の侵略者ではない。

 さてつぎの章では侵入説をさらに検証し、それがいかに価値がないかをみていこう。

 
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