4 アーリアって言語? それとも人種?

 アーリア人侵入説は、基本的に特定の言語を話すアーリア人という人種を前提としている。しかしヴェーダ文学のなかで、アーリアは特定の人々や部族を指す名ではない。いわば称号であり、善良な、高貴な行いに対して与えられる尊称である。
 ブッダはこの意味で自身の教えをアーリアとかアーリアのダルマと呼んでいるのだ。ジャイナ教徒もまた古代ペルシア人と同様、自身をアーリアと呼んでいる。それゆえわれわれはヴェーダを編んだ人々をヴェーダの人々と呼ぶべきで、アーリア人と呼ぶべきではない。この意味でアーリアという語を用いるなら、侵略を行う人種や言語がよいかのごとき錯覚をもってしまう。

 しかしアーリア人侵入説によって、アーリア人が特定の人種に属するかのように言われてきた。そのアーリア人とは金髪、青い目のコーカサス人種か、少なくとも白い肌のヨーロッパ人のことだったが、古代インドにそんな人々がいたという証拠はない。
 また彼らはヴェーダのサンスクリットを話した。サンスクリットは当初から祭司階級の言語であり、庶民の話し言葉ではなかったようなのだが。アーリア人はまた異なる人種的外貌をもつ人々、非インド・ヨーロッパ語を話す人々を見下していた。こうして侵入説はさまざまな偏見をもたらした。ヴェーダの人々は人種差別者であり、言語的優越主義者というわけだ。
 実態を確かめないで、文化にたいして先入観と不寛容の中傷が与えられていた。古代インドの変遷はすべて人種や言語グループの戦いによって描かれ、ほかの社会的要素は無視されてきた。

 民族や言語の純粋性を推進する単一の文化集団という排他的な考えは、19世紀の植民地主義の産物である。それは19世紀のヨーロッパの人道主義的見解であり、黒人は劣等民族とみなされ、奴隷制を正当化するにいたった。それはヒンドゥー教やヴェーダの「ひとつ」が多くの名とかたちを持つが、究極的には同一であるという考え方とまったく異なっていた。
 そんな単一的集団はアーリア人が遊牧民とする見方とは一致しない。遊牧民は散らばっていて、まとまりがなく、帰属意識に乏しく、より大きな集団である文明化した人々にやっかいをかけたというわけだ。

 アーリア人侵入説はヨーロッパ人の植民地主義が歴史モデルになった好例である。そのシンプルさは見事ではあるが、疑わしいものでもある。人種と言語は文明が発展するための唯一の要因ではない。宗教や経済は人種や言語をさらにこまかく分けるが、圧倒する場合さえある。たとえば古代メソポタミアには数々の民族が存在し、さまざまな異なる言語集団があった。さらにシュメール、バビロニア、アッシリアのなかに多くの文化的要素があった。

 この単一的人種・言語という歴史の見方はあまりにも単純化しすぎたきらいがあった。とくに20世紀以降の多元的文化(ヒンドゥー文化はその典型)が認識される時代にあっては。インドのような大きな国の歴史にたいしては、ステレオタイプよりも複雑な見方をすべきだろう。

 移動理論は19世紀から20世紀初頭にかけて流行したが、それはヨーロッパからアメリカへの大量の移民があったからだろう。考古学的発見がなされた場合、民族移動があった証しとされた。あたらしい様式の陶器が発見されるということは、ある人々がそこへ移ってきたことを意味した。
 しかしながら通常、社会変化の第一要因は民族移動ではなく、内的要因だった。そうでなければ現在の文明の変化を説明するのに、コンピューターを擁した人々の到来について言わなければならない! いま考古学者は民族移動ではなく、内的要因を探しはじめている。古代インドの場合、文化発展の内的継続性は前歴史段階にまで遡ることができる。民族移動など必要ないのだ。

 ヴェーダ文学中、多くの神や女神があれこれと結び付けられるが(マックス・ミューラーはそれをhenotheismと呼んだ)それは多元的文化の証しであり、一元的文化(ヒンドゥー教はけっしてそれを生み出したことはない)の世界観ではなかった。多元性のなかの統一を基本とするヴェーダはつぎのように言う。

「ひとつの真実がある。賢者はさまざまな言い方でそれについて語る」。

 これは好戦的な遊牧民の哲学ではなく、さまざまな要素が織り成された成熟した文化の哲学である。単純化した侵略・移動理論は文化発展を矮小化し、ヴェーダの宇宙観を反映していないといえるだろう。

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