5 いかにしてアーリア人侵入説は形成されたか
マックス・ミューラーにつづく19世紀のヨーロッパの学者たちはヴェーダの人々(まちがってアーリア人と呼んでいた)が紀元前1500年頃、インドへ侵入したと決めつけた。彼らは原始的な土着の、おそらくドラヴィダ人の文化を破壊し、より進んだ文明をもたらした。彼ら自身も野蛮とみなされてはいたが。土着の原住民はヴェーダに出てくるダシウス、あるいは従わない人々と考えられた。
マックス・ミューラーがヴェーダ文学を比較的遅い時期に設定した理論的根拠は、あくまで仮説にすぎず、言語的データに頼っていた。彼は四つのヴェーダとウパニシャドはブッダ以前の二百年の期間に書かれたものと考えた。
しかしながら言語、とくにサンスクリットやラテンの変化の度合いは仮説にすぎなかった。それらの言語は経典や学者の言語であり、普段会話に使用される言語ではなかったからだ。
しかもヴェーダ時代のサンスクリット自体の変化が大きく、紀元前500年頃とされる文法家パーニニ以降の、すなわち2500年間の古典サンスクリットの変化よりはるかに大きかった。古典サンスクリットはその時期あまり変化がなかったので、この二百年の期間はさほど重要ではないことになる。それに二百年はそもそも短すぎるだろう。
アーリア人が特別な人種であるという考え方にすべての人が同意したわけではなかった。マックス・ミューラー自身が拒絶したのである。しかしながらその考えはアーリア人論に組み込まれ、多くの人がそれを事実として受け入れるようになった。
アーリア人が特別な人種であり、特別な言語を話すという考え方が一般化したことを私はアーリア人侵入説の「第一の誕生」と呼びたい。しかしながらこの段階ではアーリア人は彼らが征服した先住民よりも進んだ人々というふうにとらえられていた。
ハラッパーとモヘンジョダロは20世紀初頭になって発掘された。このころまでにはヴェーダの時代は紀元前1500年頃という説が受け入れられ、ハラッパー遺跡はヴェーダ以前であるという説は定説となった。アーリア人侵入説は書き換えられ、文明化していないアーリア人が文明化したドラヴィダ人のハラッパー文明を破壊したということになった。
何かの証拠に基づいたわけではないのだが。私はこれをアーリア人侵入説の「第二の誕生」と呼びたい。ヴェーダのアーリア人は暴力的で無慈悲なだけでなく、偉大な文明の破壊者という汚名を着せられることになった。まるでナチスの原型であるかのように。これが現在もなお一般的に受け入れられているアーリア人侵入説である。
多くの学者が、外部者によってハラッパーの都市が破壊された証拠がないことを知っているにもかかわらず。ヒンドゥーやヴェーダの文化を快く思っていない人々はとくにこのネガティブな見解に与する傾向にあるようだ。
一部の考古学者は20世紀前半、紀元前二千年期半ばの中東にいくつかのインド・ヨーロッパ語族、たとえばヒッタイト、ミッタン、カッシートなどが現れ、何世紀にもわたって支配したことを指摘した。ギリシアがヨーロッパに侵攻したのもこの時期であり、入れ替わりに非インド・ヨーロッパ語族のミノアが没落している。
このことがギリシア、中東へのアーリア人侵略が結び付けられた。インドへのアーリア人侵略は、紀元前二千年期半ばのインド・ヨーロッパ語族の民族移動の別バージョンと考えられた。これは世界史のなかでもっともドラマティックなものとみなされた。
ウィーラーなどインダス文化の発掘者は外部者による文化破壊の証拠を発見したと考えた。モヘンジョダロから大量の殺戮された人骨が発見されたのである。それはずっと前に否定されたが、いまなお証拠のひとつとして数えられることが多い。
ヴェーダ文化の担い手は、鉄器を携え、戦車に乗って中央アジアから侵攻してきた原始的な遊牧民と考えられた。それはまさに最初に鉄器を用いた中東のインド・ヨーロッパ語族ヒッタイトの鏡写しだった。アーリア人は残虐だったが軍略にたけ、より進んだハラッパー文化の都市を攻め滅ぼした。しかしハラッパー遺跡からは馬も馬車も鉄も発見されていない。いっぽうヴェーダ文学にはそれらのことが言及されている。この文化はヴェーダ以前のものだろう。
この理論を補強するためにヴェーダの一面が強調された。ヴェーダ文学中にハラッパー文化の破壊が言及されているというものだ。アヤスということばは鉄を表わすとされた。実際金属全般を指す語なのだが。
ヴェーダの海洋を指す語は、インダス川か北西インドやアフガニスタンの大河や湖を指すと考えられた。インダス川からガンジス川までいくつかの川が列挙されているが、それらは西から東へ民族移動した証拠とされた。アーリア人侵略論の考古学的、文書中の証拠というのは、このように解釈を変えることによって得られたものだった。
こうして侵入説は論理性をもち、理論として形成されていく。ひとたび形成されると、そのイメージはのちのフン族のアッチラにも応用された。