6 巧みに生き延びてきたアーリア人侵入説

 アーリア人侵入説はそもそも言語の謎を解決するべきものだった。しかし問題点を多く孕んでいた。問題を解決しても、つぎつぎとあらたな問題が生まれた。

 もし侵略論が実際に起こったとしたら、どうなっていただろうか。すでに述べたように、中央アジアは人口過疎の地域であり、現在もそうである。数少ない人口でどうやってインドのみならず中東やヨーロッパを征服することができるだろうか。
 古代インドの人口はけっして少なくなかった。長いハラッパー文化時代のあと、侵略の時期、インドは大量の人口をかかえていた。それだけの人口を征服したり、従属させたりするのは容易ではなかったはずだ。組織化された征服ではなく、数々の部族のランダムな移動があったにすぎず、そのなかからアーリア人が形成されたと考えるべきだ。

 原アーリア人はなぜヨーロッパ、中東、インドとさまざまな方向へ移動したのだろうか。一般的に、ひとつの集団が移動するとき、それはひとつの方向である。人々はそうたやすくは故郷を捨てないし、理由もなしに熱狂的にさまざまな方向へ移動するということはない。とりわけ地域に根付いた遊牧民は。

 それに原始的なアーリア人がどうやって世界的文明であるギリシアやインドを征服できたのだろうか。彼らはどうやって古く、洗練された文化に彼ら自身の文化や言語を押し付けたというのだろうか。言語はとくに文化のなかでも変えることのむつかしいものである。
 キリスト教のヨーロッパやイスラム教のイランやパキスタンは宗教を変えたが、言語は変わらなかった。原始的なアーリア人は、洗練されず、人口も少ないのに、どうやってこれらのことを成し遂げたというのだろうか。

 アフガニスタンはいまも通り抜けるのがむつかしい地域である。アレキサンダー大王でさえ苦しみ、多くの兵士を失った。古代においてどうやって多くの人々がアフガニスタンを越え、インド北部にやってきたというのだろうか。たしかに歴史上、何度も中央アジアから来た人々によってインド北部が征服されたが、人々を変え、言語を変えるということはけっしてなかった。組織化されない遊牧民であるヴェーダの人々がこれらのことを成し遂げ、しかもすべての記録や記憶を抹消したとでもいうのだろうか。

 仮に原アーリア人が単純な悪意をもって他地域を征服したいと考え、馬など有利なものをもち、そのとおりにできたとしよう、しかしその先は容易ではない。征服された人々のすさまじい抵抗にあったはずだが、古代インドやギリシアなどからは考古学的証拠はなにひとつ発見されていない。
 それに古代インド・ヨーロッパ語族がとくに残虐だといわれたことはなかった。紀元前二千年期と千年期の中東を見た場合、ヒッタイトやミッタン、カッシートなどのインド・ヨーロッパ語族がいたが、残虐性で知られたのは彼らではなく、彼らの敵であるセム語族のアッシリア人やバビロニア人だった。アッシリア人やバビロニア人がユダヤ人を奴隷化したとき、救ったのは自らをアーリア人と呼んだペルシア人だった! いずれにしろ大量の人口がインドに入り、都市を破壊したという形跡は発見されていない。


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