7 ハラッパー文明

 アーリア人侵入説が現れたあと、考古学的発見が止まったわけではない。あたらしい発見は徐々に侵入説の価値を下げていった。
 ハラッパー文明(紀元前3100年―1900年)はその時点では世界最大だった。その遺跡は、西はイランの沿岸、北はトルキスタンのアム・ダリヤ川(アーリア人の地域)、東北はガンジス川、南はゴーダヴァリ川まで広がっている。アラビア海沿岸にも遺跡は発見されている。
 何千もの遺跡とともに、ハラッパーやモヘンジョダロ同様、サラスワティ川のガンウェリワラ、クチ近くのドーラヴィラなどいくつかの都市遺跡も発見された。ほとんどの遺跡がいまだ未発掘だが、調査をすればするほど文明の範囲は広がっていくだろう。これだけ大きな文明が民族移動や侵略によってやすやすと転覆するとは思えない。

 ハラッパー文化には持続性と統一性があり、その点で当時並ぶものがなかった。広い通り、すばらしい下水施設など、都市プランは見事だった。芸術、手工業、度量衡なども地域全体を通じて統一されていた。そのような組織化された文明が簡単に征服されるとは思えない。その文化、伝統、とくに言語が変えられたり、削除されたりするとはとうてい思えない。

 もともとハラッパー文化は、アーリア人の侵入により突如滅びたとされてきた。しかしさまざまな証拠が物語るのは、破壊されたのではなく、気候の変化、とりわけ川の流れの変化や洪水、砂漠化によって捨てられたということだった。
 すでに述べたように、サラスヴァティー川の枯渇もそのひとつである。しかし不幸なことに、西側の学者の多くはヴェーダに登場するサラスワティ川の重要性に気づかず、たんなる人々に忘れられた川ぐらいとしか考えていない。

 一部の学者はこれらのことから、ヴェーダの人々はハラッパー文明を破壊したのではなく、文明が弱体化したあと、そこへやってきて占領したのだと考えるようになった。つまり打ち捨てられたハラッパーの都市にアーリア人がやってきたというわけだ。しかしこの見方からはまだアーリア人は残虐というイメージが消えていない。
 このハラッパー文明消滅後の侵略という見解を、私はアーリア人侵入説の「第三の誕生」と呼びたい。もっともアーリア人が何を破壊したのかはっきりしないが。理論そのものがあやしくなってきたといえる。

 ほかの学者は、ハラッパー文化の後期にアーリア人がインダス文明に入り込んできた、だからハラッパー文化にはアーリア系と非アーリア系の要素がまじっていると主張する。ハラッパー文化にはとくに混合した要素はないのだが。この学者たちは、いまだにアーリア人を残虐と決め付ける。しかしそのような証拠はなく、民族移動の形跡も認められない。

 
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