8 侵略ではなく民族移動

 現在にいたるまでハラッパー文化の都市が破壊された形跡はなく、大規模な民族移動の証拠もなく、最新の理論は「牧畜を主とする小規模な集団がおなじ第二千年期にゆっくりと移動してきた」に変わってきた。その論をたてたのは、たとえばヴェーダ文化を認めないマルクス主義歴史家ロミラ・タパル氏である。

 <ハラッパーの都市文化が衰退したのはさまざまな環境の変化によるものであることがわかってきた。それによって政治の風向きが変わったり、交易が遮断されたりしたのであって、侵略があったのではない。また考古学的発掘からも、ひとつの文化を覆すほどのイランから北西インドへの大規模な移動があったとは思えない。

 もし侵略がなかったとするなら、どういう民族移動があったのか、どういう交流があったのかが焦点となるだろう。移動したのはアヴェスタやリグ・ヴェーダに登場する遊牧民であるように思われる。>

 獰猛なアーリア人はいまや鉄も戦車ももたないおとなしい遊牧民となった。私はこれをアーリア人侵入説の「第四の誕生」と呼びたい。

 そんな小さな遊牧民の集団がどうやって、独自の大文化をもった亜大陸といわれるほどの地域の言語、文化、社会組織を変えることができるのだろうか。ありえない、というよりばかげているだろう。古代インドはそういった集団を吸収したかもしれないが、小集団が大きな文化を吸収するということは不可能だ。
 牧畜民がゆっくりとその勢力を拡大したとしても、先住民が抵抗するのはさほど難しくない。しかもハラッパーの人々は家畜をもっていないわけではなかった。彼らには長い畜産の歴史があり、外部の牧畜民に圧倒されることはなかっただろう。とりわけ牧畜民がより遅れた民族であったとするなら。

 アーリア人移動説は、侵入説よりも説得力に欠ける。もし移動が小規模で先住民にインパクトを与えず、考古学的痕跡を残さなかったなら、文化のなかでもっとも堅固で変化しにくい言語を変えるということはなかっただろう。
 もしその地域の文化も人も変わらなかったら、言語だけ変わったというのは辻褄があわない。移動説は結局侵入説の最後のあがきのようなものだ。とはいえポピュラーだった「アーリア人ハラッパー文化破壊説」の筋書きは修正されて生き延びることになった。

 アーリア人侵入の時期、場所、人々に関しては、土台がしっかりしているわけではなく、つねに揺れ動いた。破壊説から遊牧民移動説までさまざまあるが、論理的な結論は、それらは廃棄されるべき、ということだ。データによって変わる説は、本質的にまちがっていることを示している。侵入説は強烈なインパクトをもってあらわれたが、もはや消え行く運命にある。

 ヴェーダにあってハラッパーにないとされてきた要素が、近年ハラッパー文化から発見されている。侵入説を守るため、シェンジなど一部の学者はヴェーダの神々、バラモンの儀礼、ヴェーダの賛歌などのヴェーダ特有の文化、またプラーナ経典群をアーリア人到来以前とみなすようになってきている。
 それらは先住民から盗まれ、翻訳されたというのだ。カーストさえ借用だという。ヴェーダ以前の人々はおなじ儀礼を行い、おなじ賛歌をうたい、祭司階級によって支配されたが、言語は非インド・ヨーロッパ語だった。
 しかしヴェーダの人々はどうやってヴェーダ以前の文化を、古来より連綿とつづいてきた彼らの厖大な文化に移し変えたというのだろうか。それに彼らは文盲という話ではなかったか。いっぽうヴェーダ以前の人々はいっさい記録を残さなかった。

 このような学者にとってヴェーダでさえアーリア人以前の人々が作ったものなのである。ほかの侵入説派の学者は賛同せず、彼ら自身の考えがあるようだ。ハラッパー文化特有と思われていたものが、ヴェーダの中に発見されている。
 もし侵入説が正しいなら、文化のなかにしっかり現れているはず。おそらく侵入はなく、ヴェーダ文化とハラッパー文化は実質的な相違はないという結論が導き出せる。すなわちヴェーダの人々は早い時期にインドにいて、ハラッパー以前から文明の担い手であった。

 他の侵入説論者が受け入れそうにない、極端な意見を主張するのはアスコ・パルポラである。その意見によると、ヴェーダの戦いの主戦場はインドではなく、アフガニスタンであり、ふたつのインド・イラン・アーリア人集団が戦っているのだという。
 この主張を受け入れるなら、すべてと矛盾してしまうし、ヴェーダ文化がどうやってインドにやってきたのか、説明することができなくなってしまう。もしヴェーダがアフガニスタンにおけるインド・イラン・アーリア人文化の征服を示しているとするなら、インドの征服は何によって示されるだろうか。プラーナはすくなくとも、示してはいない。
 またパルポラの主張では、リグ・ヴェーダに頻出するインドの川、たとえばサラスヴァティー川やインダス川、ヤムナ川を特定できなくなってしまう。とはいえこの主張にも納得できる点がある。それはヴェーダのなかの戦いがおなじ集団の中の、おそらくイラン人を含むアーリア人内の戦いであるとしている点だ。ただパルポラはこの戦いがインドではなく、アフガニスタンで行われたと考えているのだ。しかし侵入説を捨てるなら、場所がどこかについて考える必要もなくなる。


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