9 サラスヴァティー川の再発見

 アーリア人侵入説と替わって出てくるのがヴェーダ文学のなかでもよく知られたサラスヴァティー川である。ほとんどの学者は意識にとめていないようだが。
 最近の発掘から、ハラッパー文化の住人の大部分はインダス川の西側でなく、東側に分布していることがわかってきた。なかでもパンジャブ州、ラジャスタン州のタール砂漠中の干上がったサラスヴァティー川沿い(現在ガッガル川と呼ばれる)に集中している。何百もの遺構がこの地域に点在していて、それらは文化の揺籃といっていいだろう。
 最初に発見されたモヘンジョダロやハラッパーはサラスヴァティー文明の地域への入り口に位置していたのだ。この文明はインド北西に花開いたが、水不足はこの地域を不毛にした。川の流れが変わることによって文明の位置も移動したのであり、侵入によるものではなかった。母なる自然によって人々は移動したのであり、侵略者によるものではなかった。

 もっとも興味深いのは、ヴェーダ文学は聖人マヌがサラスヴァティー川とドリシャドヴァティ川のあいだで発見したというふうに言い伝えられている点だ。リグ・ヴェーダで讃えられていて、もっとも頻繁に登場するのはサラスヴァティー川だった。七つの川のなかで、大きな洪水が起き、はてしなく広いとされるのがこの川だった。サラスヴァティー川は「高山から海へと流れる」純粋な川なのだ。ヴェーダの人々はこの川のすべてを知っていて、故郷とさえみなしていた。

 現在の研究から、紀元前1900年以前の古代インドのもっとも大きな川、また紀元前3000年以前のインド全体でもっとも大きな川であることがわかってきた。サラスヴァティー川にはサトレジ川やヤムナ川も流れ込んでいたが、流れが変わってしまった。サラスヴァティー川はハラッパー文明終結の前、アーリア人侵入とされる紀元前1500年以前に干上がってしまった。

 もしアーリア人が来る何百年も前に川が干上がっていたなら、どうやってこの川のことを知り、その川の沿岸に文化を築くことができただろうか。リグ・ヴェーダにサラスヴァティー川は緑濃く、豊かな土地として描かれている。ハラッパー文明の時代にはすでに凋落の兆しが見えていたのだ。
 ブラーフマナ文献やマハーバーラタではサラスヴァティー川は砂漠の中を流れ、後者では海にまで達することができなかった。サラスヴァティー川はそのうちガンジス川に取って代わられ、プラーナの頃にはほとんど忘れ去られてしまった。サラスヴァティー川の枯渇をリグ・ヴェーダのなかに見ることはできるが、人々は川と運命をともにしたわけではなかった。

 サラスヴァティー川が大河であることは、ごく最近まで知られていなかった。ヴェーダのサラスヴァティー川が砂漠の中の小さな流れであることは、侵入説の裏づけと目されていた。というのはもともとのサラスヴァティー川はインドでなく、どこかほかの国、たとえばアフガニスタンにあったと考えられたからだ。
 しかし現在では大河のサラスワティ川が実在したことが確認されている。もしアフガニスタンの川がヴェーダの名前をもっているなら、それはインドの人々がアフガニスタンに移動したということを意味するだろうが、アフガニスタンには規模、位置とも該当する川はなく、ヴェーダに描かれるような海に達する川もない。

 それゆえ私はほかの学者たちとともに、ハラッパー、あるいはインダス文明でなく、サラスヴァティー文明、それでなければインダス・サラスヴァティー文明とでも呼べるものを提唱したい。誤解に終止符を打ち、サラスヴァティー川がヴェーダの中核であることを広めたい。
 海まで達するインダス・サラスヴァティー地域こそがハラッパー文化の中心であり、それはヴェーダの中心地と重なるのである。

 
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