10 ヴェーダにおける海

 リグ・ヴェーダには海(サムドラ)への言及が百ヶ所近く、船への言及も数十ヶ所、海に流れ込む川という記述もある。マヌ、トゥルヴァシャ、ヤドゥ、ブジュといったヴェーダの初期の主役たちは洪水に関係し、海から救い出されている。
 ヴェーダの海の神、ヴァルナは、もっとも有名な預言者であるヴァシシュタ、ついで有名なブリグの父祖である。実際インドラ神の神話、七つの川を海に流したという話はヴェーダの中核ではないか? そんな神話がどうしたら中央アジアの砂漠から生まれるだろうか。

 アーリア人侵入説を守るためにヴェーダの、のちにはサンスクリット文学の海を表わすことば、サムドラは、元来海ではなく、大きな水、とりわけパンジャブのインダス川を示していたと考えられた。リグ・ヴェーダやのちの文学のなかであきらかに海に流れるサラスヴァティー川について記されているのに、アーリア人侵入説に都合のいいように改変されてしまったのだ。
 グリフィスの翻訳の索引を見ればわかるように、海を示す70ヶ所は、海ではないとされた。しかしサムドラは海でないのに、どうしてなお海と訳されるのだろうか。ヴェーダの王たちが海からもサラスヴァティー川からも遠く離れた中央アジアにいるなんてことはありえないのだ。

 考古学的証拠がなく、またサラスヴァティー川が現に存在しないため、サムドラの意味が変わったということを誰も認めることができなかった。しかしいまヴェーダに言及された遺跡が発見されるようになり、インダス・サラスヴァティー文明の船や古代貿易というものの実在性がかなり高くなってきている。

 ここで興味深い点をあげたいが、遅くとも紀元前500年にはグジャラートからスリランカへのアーリア人の移住があり、紀元前300年頃のブラーフミ碑文がインドネシアで見つかっている。
 遊牧民のアーリア人が海上交易をし、移住するなんていうのは奇妙なことではなかろうか。しかしもしヴェーダの人々がもとから海に親しんでいたなら、何の不自然なこともなくなる。
 ソロモン王の時代、つまり紀元前975年、フェニキア人はボンベイの北オーフィル(ソーパラ、あるいはスルパーラカ)の港とのあいだで交易をしていた。このことはヴェーダの人々が古代から、アーリア人侵入説の紀元前1500−1000年よりも前から、インド中央部を基点とした海上交易を行っていたことを示している。

 
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