11 馬、戦車、鉄

 アーリア人侵入説は形を変え何度も現れるが、そのどれも肯定しがたい。ハラッパー遺跡には馬がいないし、車輪も鉄も出土していなかった。馬の骨が発掘されるようになったが、ハラッパー遺跡だけでなく前ハラッパー遺跡からも、またカルナタカからガンジスへ及ぶ広い地域からも馬、しかも土着の馬の骨が見つかるようになった。

<ハラッパー遺跡や低地からエクウス・カバルス・リン種の馬の骨が多数発掘されていることは、馬が飼育されていたことを示す>(A・K・シャルマ)

 古代インドにおいてずっと馬が用いられたことは証明済みだ。ハラッパーの人々が馬を持っていなかったなんて考えることはできない。アフガニスタンを含むハラッパー文明の人々は、ラクダと同様、馬の交易も行ってきたはずである。

 ハラッパーから馬の土偶は出土しているものの、古代インドの遺跡から馬の図像が発見されていないのは事実である。しかし図像はその地域の動物相や植物相を表わすのではなく、神話を表わすと考えるべきだろう。たとえばユニコーンはハラッパー遺跡ではありふれた図像だが、ハラッパー文明の時代に実在したとは考えにくい。逆に馬の図像は後世のインドで見かけることがないが、かといって馬が珍しい存在でないことはだれもが知っている。

 興味深いのは、ヴェーダの人々の敵であるダーサ人(あるいはダシウ人)がリグ・ヴェーダで「馬の財」をもつとされている点である。アーリア人はそれらを奪い取ったり、贈り物としてもらったりしている。実際バルブタという名のダーサ人はヴェーダの仙人に6万もの馬を贈っている。
 ヴェーダのなかでは、馬を持つ文化と馬を持たない文化のあいだに戦争などないのだ。一方、よく知られた古代インドでどこでも見られるヴェーダのバラモンの牛は、ハラッパー文化でもスワスティカなど他のヴェーダのシンボルと同様、ありふれたものなのだ。

 車輪や馬車のスポーク付き車輪の印章が後期ハラッパー遺跡から発見されている。とはいえそれらに乗っていたのが遊牧民というのは疑わしい。戦車は遊牧民の乗り物などということはありえない。古代のローマやギリシア、中東のように都市のエリートや貴族が乗っていたはずだ。大きな平坦な都市にこそ馬車は適しているのであり、大河の流れる北インド平原はぴったり当てはまる。
 アーリア人が侵略したとしたなら、その適さない馬車で山や砂漠を越えなければならなくなる。リグ・ヴェーダにはアシュヴァーローヒー、すなわち「馬に乗る者」ということばは出てこない。つまりステップ草原から馬に乗ってやってきたという概念はなかったのだ。

 アーリア人侵入説によれば、ヴェーダの人々は紀元前1500年以降に鉄を使用するようになったのだが、ヴェーダ中のアヤスということばが重要になってくる。しかしアヤスはラテン語やドイツ語などインド・ヨーロッパ語の銅や青銅、鉄鉱石を表わすのであり、とくに鉄を指すわけではない。それは英語のore(鉄鉱石)の語源であり、インド・ヨーロッパ語の青銅や銅を意味する語幹Aisに発し、のちに鉄を表わすようになった。
 ヴェーダの中のアヤスが金属の何かを指すわけではなく、鉄である必要はない。金はアヤス以上にヴェーダに頻出するのだが。アタルヴァ・ヴェーダやヤジュル・ヴェーダは赤や黒などさまざまな色の金属について述べるが、黒の金属は鉄だろう。アヤスは金属全般を指すことばなのである。リグ・ヴェーダ中のアヤスは「金のように輝く」と形容されているので、銅を指すと考えられる。

 さらにリグ・ヴェーダでは、敵対する人々は馬を所有するだけでなく、ヴェーダの人々とおなじく鉄を用いて都市を建設している。ヴェーダ文学では、ヴェーダの人々が鉄を用いるとも、敵対する人々が鉄を用いないとも、述べていない。
 それが何であろうと、両者とも金属を用いているのだ。ヴェーダの戦争は馬、アヤス、馬車をもつ同一の文化共同体のあいだで起こるのであり、アーリア人の侵入によって分断された文化のあいだで起こったのではない。

 初期のヴェーダ文明の基本はアヤス(あるいは銅)、主要穀物の大麦(ヤヴァ)、主要家畜の牛である。前ハラッパー文明の遺跡でも、アヤス、大麦、牛が中核を占める。ハラッパー時代になって米や小麦が取り入れられ、アタルヴァ・ヴェーダなど後期ヴェーダにも描かれる。ヴェーダに現れる文化は前ハラッパー文化およびハラッパー文化を反映していて、それらの発展を示している。

 
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