16 アーリア人とドラヴィダ人に二分することの是非

 南インドのドラヴィダ語は、北インドのインド・ヨーロッパ語とまったくことなる言語集団に属している。このふたつの集団は多くの異なる語根を擁し(共通の語彙はあとで加わったもの)異なる文法構造をもつ。
 ドラヴィダ語は膠着語、インド・ヨーロッパ語は屈折語とされる。ドラヴィダ語自体、かなり古い言語である。インドやスリランカのドラヴィダ語の伝説やタミル・サンガ文学は五千年以上も前にさかのぼるのだ。

 言語の違いに応じて、インドの南から北へ、肌の色も変わると考えられた。すなわち南へ行くほど黒く、北へ行くほど白いと。西洋人の見地からすると、インド西北の人々をのぞけばさほど白いわけではないが。言語ほどにはきわだった違いはないのだが、それらはいっしょくたにされ、人種と言語が同等にみなされてきた。

 インド北方と南方ではなぜ人種や言語が違うのか、その説明にアーリア人侵入説が利用されてきた。
 いや説明どころか侵入の「証拠」とみなしさえした。まるでそれ以外の可能性はありえないかのように。アーリア人はひとつの人種とされ、するとドラヴィダ人も人種となり、「アーリア人
/ドラヴィダ人」と二分したことから人種戦争、すなわち侵入者のアーリア人対ハラッパー・モヘンジョダロの先住のドラヴィダ人の対立という構造ができあがる。
 この見方によればヴェーダの人々は人種においても言語においても優位を示し、異なる人種および言語を簡単に駆逐したことになる。しかしすでに論じてきたように、サンスクリット語のアーリアは、人種を指すのではなく、尊敬の意をこめた称号のようなものだった。ドラヴィダ人の王でさえ自身をアーリアと呼んでいたのだ。それにヴェーダ文学は、ドラヴィダ人を偉大なるヴェーダ文化と伝統の埒外に置きはしない。
 このようにアーリア人対ドラヴィダ人という言葉はあやまった言葉の使用法なのである。ともあれアーリア人とドラヴィダ人に二分する発想法自体が過ちである。

 さて科学的見地からもアーリア人/ドラヴィダ人という区別に意味がないということが決定的となった。いわゆるアーリア人やドラヴィダ人はおなじコーカソイドの地中海型に属する。[訳注:ドラヴィダ人をどの型に分類すべきか、諸説あり、定まっていないのが現状。それどころかドラヴィダ人という人種が存在しえるのかさえあやしくなってきている] 
 この支系は古代エジプトやシュメールでは一般的であり、いまもなお地中海、北アフリカ、中東では多数派なのである。コーカソイドは単純に白いわけではなく、黒い肌の人もいる。肌の色と人種で分けるのも現在ではすたれてしまった19世紀的な発想法なのだ。

 褐色の肌は一般的に南方の人々に多く見られるが、それは暑い気候、強い太陽光に適合した結果である。ヨーロッパにおいても南方の人のほうが黒いのだが、北と南で人種がちがうわけではない。
 このことから、地中海型のドラヴィダ人が適合するまで何千年もの月日を要したであろうと推察するにかたくない。おなじことがインド北部の人々にもいえるだろう、もし起源地が北方で肌の白い侵略者だったとしても。

 言語の問題は同様に、しかしもっと複雑だ。ドラヴィダ語はアジアや東ヨーロッパの言語、すなわちフィン語、ハンガリー語、旧ブルガリア語、トルコ語、モンゴル語、日本語、フィン・ウゴル諸語、ウラル・アルタイ諸語とおなじく膠着語の特性をもっているのだ。これらの言語の共通点は中央アジアにオリジンがあるということであり、一部の学者が主張するように、ドラヴィダ人も中央アジアから来たのかもしれない。

 とするとおなじような論理から、ドラヴィダ人侵入説だって言えてしまいそうである。侵入どころかそのルートさえ同一の可能性がある。シュメールの東に位置するイラン西南部の都市国家エラム(Elam)は古代を通じて高度な文明を保ち、その農業構造はドラヴィダ人のそれとよく似ていた。いやシュメール人自身の可能性すらあるだろう。ドラヴィダ語タイプの言語がイランに多数あったのかもしれない。
 ということはドラヴィダ人はアーリア人のように(理由はわからないが)中央アジアからやってきてイランに入り、一部はメソポタミア、一部は(多数派だが)インドへ移動したのかもしれない。のち侵入したアーリア人はドラヴィダ人を故郷のインダス川・サラスヴァティー川から南方へ追いやったという。しかしながら前述のようにそのような移動の証拠はないし、ヴェーダの人々のようにサラスヴァティー川のドラヴィダ人による記述があるわけでもない。

 ドラヴィダ人侵入説もアーリア人侵入説も中央アジアから移動してきたグループの言語・民族を説明するのに、とくにインドにとっては都合のいい万能薬みたいなものだ。しかしこれらは単純すぎて複雑な文化、言語、民族の相互作用を説明するのは、実際不可能といっていい。

 ドラヴィダ人もアーリア人のように先住民であることを主張しているが、言語学的には十分言い切れない。それでも両者はかなり古くから接触があり、おなじ地域に起源をもつ可能性がある。つまりインドの外で長い間接触していたかもしれないのだ。もし侵入説を否定したなら、歴史時間にインド国内で接触したとする考えが妥当かもしれない。

 古代ギリシア人やペルシア人には黒い肌と呼ばれていたのだが、現在のインド人は、アーリア人であろうとドラヴィダ人であろうと中央アジアから来た白い肌の人々によって形成されたのではない。さらにはアーリア人の侵入がインド人形成を進めたようにドラヴィダ人の侵入が言語の変化をもたらした、などということはない。おなじ地域で似たようなことが二度起こるということはありえないだろう。

 もしドラヴィダ語やアーリア語が中央アジアにあったなら、またインド・アーリア人がより白い肌のヨーロッパ人で、ドラヴィダ人が白い肌のフィン人やハンガリー人、あるいはモンゴル・トルコ人なら、民族移動ですべてを説明するのは無理があるだろう。民族の境目には言語の違いがあるだろうが、実際文化、とくに芸術や宗教は民族を越えて融合するものである。

 インド・ヨーロッパ語とその他の言語、すなわちアーリア語とドラヴィダ語に分けるのは疑問だ。ノストラティック語という大言語グループが提唱されたことがある。それはインド・ヨーロッパ語、ドラヴィダ語、セム語をも含む。その三つの言語の共通の祖先をわれわれは探してきた。それらが接触する場所を想定するのに、中央アジアはあまりに遠すぎるだろう。カリヤナラマン(Kalyanaraman)が述べるように、サンスクリット語とインドの先住民のことばムンダ語の同化現象があったことから、それらが接触する場所はやはりインドしかないのだ。オーロビンドが主張するように、ドラヴィダ語とサンスクリット語には共通点が予想以上にあり、共通の祖先が存在したように見える。

 ドラヴィダ人の歴史はヴェーダの歴史と矛盾するわけではない。ドラヴィダ諸語のなかでももっとも古いタミル語はリグ・ヴェーダのかがやかしい聖仙アガスティヤに帰せられるほどである。ドラヴィダの王たちも自身のことをアーリア人と呼び、マヌの末裔を自負していた。マツヤ・プラーナによればマヌは南インドの王だった。言葉意外にも南北インドは共通する宗教、文化をもっていた。ヴェーダのサンスクリット語に先んじ、ドラヴィダ語、サンスクリット語の基となる言語があった。

 ひとつの文化から異なるふたつの言語システムが生じることはない、という考えはまちがっている。ヴェーダ文化と聖仙の力によってインド・ヨーロッパ語だけでなく、ドラヴィダ語も生み出してきた。

 いずれにしろアーリア人・ドラヴィダ人に分けるという考え方はもはやアーリア人侵入説を維持することはできないだろう。その考え方はドラヴィダ人侵入説をも導き出した。それはいわばアーリア人侵入説の副産物であり、それが間違った考え方であることを示すことになった。

 このアーリア人・ドラヴィダ人分割は侵入説の上に成り立っていた。たとえば南インドを代表するのが前ヴェーダ・シヴァ教であるなら、北インドを代表するのはバラモン文化、という考え方がそうだ。あるいはわれわれは北インドといえば、カイラス、ヴァラナシ、カシミールのシヴァ教を考え、ヴェーダのルドラをシヴァとみなす。大胆に南北インドを分けた場合、それはじつは大きな文化複合体の地域差にすぎず、それにともなう精神的伝統の差異なのだった。

 ドラヴィダ人の誇りやナショナリズムはアーリア人侵入説に基づくべきものではないし、北インドの文化を貶める必要もない。ドラヴィダ人はずっとインドでもっとも重要な人々であったし、皮肉なことだが、ヴェーダ文化の担い手だった。ヴェーダのサンスクリット語、儀礼、伝統は南インドによく残っているのだ。南インドこそがヴェーダ文化の貴重さ、正統性を保持してきたのだ。 



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