20 古代中東のアーリア人
加えて中東のアーリア人、とりわけ有名なヒッタイト人は、シュメール文学にも言及されているように紀元前2200年にはこの地域にいた。実際シュメール第三王朝にその名が刻まれていた。記録を遡るかぎり、中東の山岳地帯の人々がインド・ヨーロッパ語族であることはあきらかだが、そうすると中東へのアーリア人侵入は何世紀も前のことになるだろう。
古代中東のインド・ヨーロッパ語族であるカッシート人はスーリヤやマルート、それにヒマラヤという名のヴェーダの神々を信仰していた。紀元前1400年、ヒッタイト人とミッタニ人はインドラ、ミトラ、ヴァルナ、ナサティヤといったヴェーダの神々の名の下に契約をかわしていた。ヒッタイトが馬車レースについての取り決めを書いたとき、その言語はほとんど純粋なサンスクリット語だった。古代中東のインド・ヨーロッパ語族が話していたのはインド・アーリア語であり、イラン・アーリア語ではなかった。ということはつまりその地域にはヴェーダ文化が存在したのだ。ヴェーダ文化は紀元前2000年までにはインドからアナトリアまで広がっていたということだ。
紀元前1500年から1100年のミノア線文字Bが解読され、初期のギリシア語ということが証明された。このことはギリシア人がギリシアに紀元前2000年からもしかすると3000年には存在したことになり、アーリア人が来た年代をさらに早めることになる。初期のミノア人はギリシア語、つまりインド・ヨーロッパ語を話していただろう。
紀元前1500年頃のギリシアや中東へのアーリア人の侵入はなかった、また彼らの存在を千年、あるいはもっと以前に早めなければならなかった、ということは同時期にインドへのアーリア人侵入が起こったという仮説をたてる必要もないということだ。これらの地域へのアーリア人の移動が想像以上に早いなら、インドへの移動も早いということになるだろう。
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