ミル・サムレク 宮本神酒男
テンパ・ナムカと比べると、ミル・サムレクはより伝説的である。ボン教の「三つの啓示」という口承の系譜の五番目に登場するミル・サムレクは(デーヴァでもナーガでもなく)人間界のシェンであり、タジクの王子だという。
母タントラを編纂したミル・サムレクはおそらく同一人物だろう。このサムレクはギャルカル・バチョ(rGyal-mkhar ba-chod)という国に生まれた。生まれる前、国王が死にかけたとき、隣国がこの機会を狙って攻めようとした。国民がチャンマ女神(Byams-ma)に祈ると、願いが通じ王妃に子どもが生まれた。王子のサムレクはサンワ・ドゥパ(gSang-ba ’Dus-pa)やタグラ・メバル(sTag-la Me-’bar)といった神々から教義を学び、ヨンス・ダクパ(Yong-su Dag-pa)からマギュ(Ma-rgyud 母タントラ)の教えを授かった。マギュに関してはその源泉であるとして、トンバ・シェンラブの母サンサ・リンツン(bZang-za Ring-btsun)にも教えを請うている。
別の伝承では、内シャンシュン(ペルシア、バダクシャン、ボハラなど)にギャルワ・ニェツェ(rGyal-ba mNyes-tshal)という遺構があり、山があった。山の上には密教尊が自然にあらわれたものがあった。そこにミル・サムレク王はギャルカル・バチョ城を建設した。建設のとき、空中に人体ほどの大きさの岩があらわれ、落下することがなかった。人々は岩の下に石を積み、それを礎とした。この城から32の部族が生まれたが、のち外部からの侵入によって滅んだ。
このようにミル・サムレクは王子・王であり、学者でもあるのだが、中央アジアの人のようである。サムレクの国がバルチスタンにあったという可能性はゼロではない。チベット人が侵入してくる前は、サカ人(イラン・アーリア系)かダルド人(インド・アーリア系。イラン系説も)の国であり、内シャンシュンに含まれていたかもしれない。またバルチスタン・スカルドの城砦カル(城)ポチョは、ギャルカル(王城)バチョと妙に名前が似ている。サムレクはまさにバルチスタンの出身だったのではなかろうか。
上述の空中岩伝説について付け加えておきたいのだが、これとおなじ伝説はダラムサラの南のカングラ地方にも伝わっている。インドではさほど珍しいわけではない類型的な伝説のようだ。しかしたとえオリジナルではないにせよ、こうしてエピソードが集まることによってサムレクはより偉大な伝説的存在となるのだ。
サムレクは実在した。といってもギルギットの王統のなかに3人のサムレクを発見した、ということなのだが。ギルギットを統治したトラハネ家(Trakhane)の5代目、10代目、15代目はスマリクという名を持つ。このうち10代目スマリクはギリット・マリカ(Gilit Malika)という別名を持つ。ギリットはギルギットの旧名だが、注目したいのはマリカ。マリカはあきらかにイスラムの典型的な名前マリクだろう。そうすると、サムレクがソマレクと呼ばれるのもうなずけるような気がする。サムレクではチベット人の名だが、ソマレクならモスレム風の名なのである。イスラム社会のなかでチベット文化が生き抜いたのにはこういったことも大きく作用していたのだった。
ボン教のクントゥ・サンポ(左)とユンドゥンの印。
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