ボン教の変遷 宮本神酒男
ボン教はシャーマニズムではないが、もともとそれに近い民間宗教であった可能性が大きい。現在のボン教がそういった側面、とくに血の犠牲を否定しているにもかかわらず。他のチベット・ビルマ語族、たとえばイ族、ラフ族、ハニ族、リンブー族、タマン族なども、それぞれの民間宗教を発展させ、複雑な宗教体系を構築してきた。同様にヤルルン朝チベット(吐蕃)やシャンシュン国も独自の民間宗教を発展させてきた。それをボン教と呼んだのではなかろうか。
著名なチベット仏教の活仏で歴史家のトゥカン・ラマ(1737−1802)はボン教の発展を、1)ドゥル・ボン(原始宗教)2)キャル・ボン(カシミール、ブルシャ、シャンシュンなど外地から入ってきたボン)3)ギュル・ボン(仏教化したボン)の3段階に分けた。これは仏教側から見たボン教の変遷だが、指標として使えなくはないだろう。ただ仏教化したボンというとき、「仏教から剽窃した」という意味を言外に含んでいる。ボン教側はしかしむしろ、ボン教および開祖トンバ・シェンラブがタジク(イランおよびイラン系の人々がいた地域)からやって来たことを強調する傾向がある。
しかし仏教がインドから来たのに対し、ボン教はイランから来たと主張しているという仏教側の主張は言いがかりだろう。吐蕃が大国となった7世紀よりずっと前に西チベットやその西方でシャンシュン(漢文資料中の羊同)はすでに大国であり、ペルシアから直接的に影響を受けていたのだ。