ハプル王の末裔 宮本神酒男

 話を一日もどそう。私たちはスカルドからハプルへ向かうミニバスのなかからも、ハプルのホテルにチェックインしてからも、何度もチョルバト村に電話をかけた。しかし結局その教師と会うことはなかった。教師は日本からやってきた者と会いたくなかったのだ。イドの前後の多忙のせいかもしれないが、もしかすると教師は専門の物語師ではなく、知識として知っているにすぎず、気が引けてしまったのかもしれない。

 理由はどうであれ、唯一の手がかりをなくしてしまった私は意気消沈し、もはや帰路につくことしか頭になかった。なにもする気にならないので、ワジド君といっしょに散歩に出かけた。舗装された道を上がっていくと、16世紀に建てられた美しい木造建築のチャクチャン・モスクがあった。そこから歩を進めると、ハプル王(ヤブゴ)の王宮が見えてくる。いまは王族の手から離れ、アガ・ハーン(イスマイル派の精神的指導者)の管理下で修復工事が行なわれている。そのとき王宮のほうから数人の地元の青年がやってきた。そのなかのひとりとワジド君がなにか神妙な面持ちで話し始めた。しばらくして打ち解けあい、なごやかな雰囲気になる。2、3年前、彼らはどこかで顔をあわせたことがあったのだという。この地元の山岳ガイド、アシュラフさんと知り合うことができたのは、あとで考えるとなんともラッキーなことであった。

 ハプルの旧王宮

 「村長さんならソマレクの語り手を知ってるかもしれませんよ」とアシュラフさんは近くの石塀を指しながら言う。「村長さん」というのはハプル王のことだった。王といっても村長程度ということなのかもしれない。ともかく、本来なら王宮に住むべき王の末裔なのだ。石塀のなかは広い敷地で、雑木林があり、畑があり、ブランコのある庭があり、住居の白亜の建物も大きかった。

 突然の訪問にもかかわらず、赤毛の老紳士が丁重に出迎えてくれた。ラジャ(王)の弟だという。西洋人に見えるのでギルギットのシン族のようだと一瞬思ったが、母親が英国人なのだった。父親が若いとき、カシミールの大学で学んでいた。そのとき留学生だった英国人の女性と恋に落ち、結婚したのだという。なにかロマンスがあるようで詳しい話を聞きたかったが、時間の余裕がなかった。

 しばらくするとすぐ近くの別邸にいたお兄さん、すなわちラジャのタハワル・アリ・ハーンさんがやってきた。老人にはめずらしく透き通った印象を与えた。出されたカシミール茶と菓子類を口に入れながら、私は部屋の壁に飾られた古い写真の説明を聞いていた。巨大なアイベックスの角の傍らで誇らしげにポーズをとる男たち、おそらく父親と友人の姿が印象的だった。角はいままで博物館などで見たものよりはるかに大きかった。アイベックスの角はいまでも玄関に掲げる習慣があるが、以前は崇拝の対象にさえなっていたという。アイベックスは美しいが、たんなるヒツジの親戚ではなく、撃たれてもなかなか死なず、襲い掛かってくることもある猛獣なのである。

 ラジャは「明日の朝もう一度いらっしゃってください」と丁寧に言った。ただしもしラマザンが明けたら忙しくなるので午後以降にしてくれと付け足した。どうやらラジャ自身が歌うらしかった。ラジャが聴くのならともかく、自身が歌うなんてことがあるのだろうか。半信半疑ながら、私たちはホテルに引き返した。

ハプル王の末裔

 前述のようにその夜遅く、テレビを通じてラマザン明けが宣言された。私はその日に明けることはないだろうと高をくくっていたので、あせらずにはいられなかった。日本でだって元旦の朝によく知らない人がやってくると聞いたら迷惑に思うだろう。

 翌朝、ホテル内のホールでは従業員が集まってビスケットやぶどうを食べていた。一月も日中飲食をしない生活を送っていたので、なにか異様な感じがした。朝食が終わるとほとんどの従業員は実家に帰り、ホテル内は人の気配が消え、静寂が支配した。仕方なく花の咲き誇る庭の陽だまりで、太陽光を全身に浴びて時間をつぶした。ラジャの家を訪ねたのは午後3時を回ってからだった。一時間ほど待つと、ラジャが申し訳なさそうな表情を浮かべながら部屋に入ってきた。

 ラジャはメモを見ながら歌った。かぼそいが、しっかりと音程の保たれた声でソマレクの歌がうたわれた。内容は理解できなかったが、はじめて聞く民歌に私は酔いしれていた。

 ラジャによれば昔は「歌くらべ」が頻繁に行なわれたという。だれもがこの歌くらべに参加することができる。決勝まで行って甲乙つけがたい場合、このソマレクを歌って決着をつける。民歌のなかでソマレクの歌のステータスが高いことがうかがわれる。

 私なりにラジャの歌には満足していたのだが、ラジャは意外な言葉を発した。

「私の歌はじつは半分にも足りません。いい語り部がカルコにいるので、そちらに行かれたらよろしいのでは」。

 私たちは翌朝カルコへ行くことに決めた。その日の夕方、ホテルの部屋に戻ると、しばらくしてホテル内のレストランから太鼓の音や歌声が鳴り響いてきた。イドの祭りのため、百人を超える村人が集まり、歌え、踊れの大騒ぎだったのだ。太鼓を叩く人はモンと呼ばれるカースト。インド・ラダックとおなじだ。イスラム教なのにカーストが残っているというのはどういうことなのだろうと思った。ひとりずつ前に出てたくみに踊り、民俗的な歌をうたう。ワジド君に言わせれば、半分はインド映画の曲らしいが。またチベット語の一種をしゃべるにもかかわらずチベットっぽさはまったくなく、ややカッワリー音楽(スーフィー音楽)の節回しのようだった。それでも私はその場の雰囲気を堪能していた。夜も更けた頃、昼間会ったばかりのラジャがレストランに入ってきた。ホールは水を打ったように静かになる。ラジャはおもむろに笛を吹き始めた。ドンちゃん騒ぎが一転して笛のソロ演奏。演奏が終わると、場内には割れんばかりの拍手が起こった。なんと多彩な老人だろうか。王様自らが臣民の前でパフォーマンスするなんて!


⇒ NEXT
⇒ 目次
⇒ HOME