古代シャンシュン国(前1000?〜8世紀?)はいつごろ成立したのか、どういう形態の国家だったのか、その領域はどこまで含まれるのか、これらすべてが曖昧で、確固としたものがない。しかし吐蕃(ヤルルン朝チベット王国)以前の西チベットを中心としたおそらくチベット人主体の大国であり、仏教伝来以前の宗教、ボン教が誕生したか、あるいは発展を遂げた地として、チベット人からは神聖な、理想的な国家とみなされることがある。
中国の史書上の羊同(ヤントン)はシャンシュンだと考えられる。唐代に書かれた『通典(つてん)』には勝兵八、九万を擁したと記され、人口はおよそ30万人と推定される。意外なほどの大国である。唐代には大・小羊同に分かれていた。近年キーロンで発見された石碑「大唐天竺使出銘」から、ツァン地方の西部は小羊同に属していたことがわかっている。小羊同は大羊同の西にあったと史書に記されるのは奇妙だが、当時、国力の落ちた大羊同の中心はタンラユムツォ湖周辺に移っていたのかもしれない。最後のシャンシュン国王リミギャLig mig rgya(リミリャLig myi rhya)もこのあたりで命を落としている。
シャンシュンは18の部落による連合国家とも言われる。それぞれの部落が小規模のものであれば、西チベットの範囲で収まってしまうだろう。しかしもっと大きな邦(くに)レベルであったなら、インド領のラダックはもちろんのこと、ホータン(中国新疆)やバルチスタン、ギルギット(パキスタン)なども含まれる、広範囲に及ぶ巨大国家ということになる。ボン教文献『世界地理誌』によれば、シャンシュンは内(phug pa)中(bar ba)外(sgo ba)に三分され、遠くに至ってはバダクシャン(アフガニスタン東部)やボハラ(ウズベキスタン)までも含むという。ここまで来ると、にわかには受け入れることができない。
シャンシュンの精神的中心はティセ(カイラス山)とマナサロワール湖(マパム・ユムツォ)であり、都はキュンルン・ングルカル(銀城)だった。キュンルン銀城の候補としては、現在のキュンルン村の近くとカルドンの2ヶ所が挙がっている。ルトクやプラン(タクラカル)、ツァパラン(グゲ王宮)などはシャンシュンを支える有力な地域であり、それぞれが堅固な城砦を擁していた。
『智者喜宴』というチベット語の古書によれば、吐蕃支配下の「5ル(翼)61トンデ(千戸部落)」のうち、5トンデは上シャンシュン、別の5トンデが下シャンシュンに属していた。上述の内・中・外シャンシュンという分類とは異なることに注意したい。上シャンシュンの5トンデは、オチョ(’O co)、マンマ(Mang ma)、ニェマ(gNye ma)、ツァモ(Tsa mo)、バガ(Ba ga)、下シャンシュンの5トンデは、グゲ(Gu ge)、チョグラ(Cog la)、ジツァン(sPyi gtsang)、ヤルツァン(Yar gtsang)、チデ(Ci de)だった。それらが現在のどの地名に対応するか、まだ一部を除いて確定に至っていない。
もう少し詳しくシャンシュン国の版図について見ていきたい。
西方では、パキスタン北部のギルギットがポイントとなる。ボン教徒の間では、ブルシャ(ギルギット)がシャンシュン国の西端だと言われてきた。実際、地元でも忘れられていたブルシャという古名がチベット語のなかで生きているのは感慨深い。もっとも、フンザやナガル、ヤシンなどで話される言語はブルシャスキ語であり、プニヤルの王系はブルシェ氏である。ブルシャの名は断片的になら残っているのだ。
プニアルやヤシンまでも含む広大なギルギット地区のボロール国(勃律)がいわばシャンシュン連合に属していた可能性はないとはいえない。
7世紀後半から8世紀にかけて、吐蕃(ヤルルン朝チベット王国)がギルギットまで攻め込んだのは、歴史的事実である。714年、吐蕃は小勃律(ギルギット)から「道を借りて」中央アジアに攻め込んだ。言い換えればその時点でギルギットは吐蕃の属国的な位置にあった。722年、吐蕃は小勃律を攻めるが、小勃律・唐合同軍の逆襲にあい、敗れた。しかし737年、吐蕃はふたたび小勃律を攻め、今度は攻略に成功した。747年、唐の高仙芝が小勃律を攻め、奪取した。このようにギルギットは吐蕃と唐のあいだで翻弄されつづけた。チベットからすれば、一瞬ではあるが、ギルギットは吐蕃の領地だった。この記憶がシャンシュン国の一部だったという誤解を生じたのかもしれない。
現在もなお人々がチベット語の一種を話すことからも、王がマクポン(チベット語で将軍)と呼ばれていたことからも、現パキスタン領のバルチスタン(大勃律)における吐蕃のプレゼンスはかなり大きかったといえる。吐蕃の圧迫によって勃律が大小に分裂したのは693年のことだった。バルチスタンにいたダルド系の王(一説にはトルコ系)の王がスカルドからギルギットに逃れることによって分裂したのだろう。小勃律が吐蕃に完全に併呑されたのは734年である。753年、唐の封常清が大勃律を攻略しているが、おそらくそのあとも二、三百年、チベット人が駐留したのではなかろうか。
パキスタン建国直後までは、バルチスタン東南部のチョルバト谷に若干の仏教徒が残っていた。もっと注目すべきは、いまもボンデパと呼ばれる人々(もちろん現在はイスラム教徒)がバルチスタンに存在することだ。ボンデパ、すなわちボン教徒がシャンシュン国の後裔である可能性もある。またシャンシュンと同一視される東女国がバルチスタンである可能性も捨てきれない。考古学の泰斗、故ジェットマル氏によれば、「金を産出する女王国」の伝説を持つのは、西チベットではなく、バルチスタンのシガールだった。大プリニウスの『博物誌』に描かれる「黄金を掘る巨大蟻」の伝説もまた、シガールのことかもしれない。
西チベットで私自身金鉱を見たことがあるが(マナサロワール湖付近)金に関する伝説はいまのところ聞いたことがない。
もし「金の女王国=シガール」そして「金の女王国=羊同=シャンシュン」であるなら、「バルチスタン=シャンシュン」という図式が成り立つのだが……。
インドのラダックにも、シャンシュン国やボン教の痕跡が多く残っているとはいえない。都のレーから南へ100キロほどのギャ村にはシャンシュンと書かれた文字やボン教のマントラが記された痕跡が最近まで残っていた。そのほかマンユル寺やサスポールの洞窟群は西チベットのシャンシュンの洞窟群を彷彿とさせるものがあるが、これらからシャンシュン国の存在を確定するには無理がある。ただ、シャンシュン国の重要な地域であったルトクは、細長いパンゴンツォ湖に沿ってラダック内のチャンタンにまで勢力を伸ばしていたのではないかと思われる。
ロシア出身の神秘画家レーリッヒによれば、ラダックのヌブラからカラコルム峠を越えたところ(中国新疆側)にも「敦煌のような数層の」大規模な洞窟群があったという。その近辺には仏教のストゥーパだったと見られるマザル(モスレムの聖人の墓)が多数あった。しかしこの洞窟群はやはりもともとシャンシュンの時代に造られたのではなかろうか。1925年、レーリッヒはそこから下り、(レーリッヒはダルド的と評した)岩絵でで知られるサンジュのオアシスを通ってホータンに出ている。
ボン教徒はしばしばシャンシュン国の北限をリユル(ホータン)だという。しかし7世紀以降、吐蕃は何度もホータンを攻め、とくに790年頃から850年にかけてはホータン支配を堅固なものにしていた。ホータン北部のマザタグ城砦から出土した木簡を調べると、駐屯した兵士のうち2割程度はシャンシュン出身者だが、けっして大多数ではない。しかもそのころにはシャンシュン国は吐蕃に降伏し、消滅しようとしていた。
しかしホータンの南はシャンシュン国の領域であった可能性がある。『漢書』によれば、ホータンはその南で若羌(若は女ヘン)と接しているのだ。羌が当時からチベット・ビルマ語族の遊牧民を指していたなら、シャンシュン国であった可能性は強まる。レーリッヒの見た洞窟群はまさに紀元前に造られたシャンシュンの城砦だったということになる。
ラダックの西南のザンスカール、南のラホール(ラフル)においても人々の顔を見ると、大半がチベット系である。彼らは吐蕃の兵士の後裔と考えられ、シャンシュン国とのつながりを示すものは少ないように思える。しかし民間神の多くはボン教的であり、したがってシャンシュン国との関連を想起させる。たとえばラホールの強力な山神であるゲパン・セ。ボン教の神であるニパン・セとの音の類似は偶然ではないだろう。セ(sad)はまたボン教・シャンシュンの神を表す語である。
また8世紀頃ラホールからさらに西へ山を越えてカングラのバルモールまで踏み入った吐蕃軍の将軍の名は、キュンポ・ジョヌ・パグパと言った。キュン(ガルダ)という名がつくと、シャンシュン人である可能性は高い。当時インド北西部には相当の亡国シャンシュン人が入り込んでいたのではなかろうか。
ラホールの南、クル谷もやはりチベット人が支配した時期があった。しかしより重要なのは、クルの町の東の山中に隠れ里のように身を潜める村マラナだ。マラナは「世界最古の共和制の村」として知られ、言語も顔つきも周囲の民族と違うことから、謎の村と呼ばれる。アレキサンダー大王の兵士の子孫ではないかと言われることもある。興味深いのは、彼らの先祖がカイラス山から西チベット、スピティを経て、マラナに来たという伝承を持つ点だ。ということはシャンシュン国から来たということだ。彼らはとうていチベット人には見えないが、シャンシュン国は他民族国家だったのではなかろうか。現在のネパール西部には、強大なカシャ王国があった。現在もカイラス山南方のフムラには、チベット系のニンバ族に混じって多くのカシャ人が住んでいる。彼らの一部が現在の国境の北側に住み、何かの事情で西方へ移動したとしても不思議ではない。
西チベットと国境を接したインド・スピティはそもそもシャンシュン国の一部だったのではなかろうか。シャンシュンを構成する10のトンデのなかで、ジツァン(sPyi gtsang)はスピティ(Spyiti)のことかもしれない。(ジツァンはシガツェのあるツァン地方にあったかもしれないが)現地の人によれば、言語的にもスピティ語は西チベット西端の言語ときわめて近い。スピティで私はガルダらしきかなり古い岩絵を発見した。ガルダ(キュン)はヒンドゥー教でも仏教でも崇拝される神格だが、ボン教およびシャンシュン国ではとくに神聖視される。
千年前、リンチェン・サンポがタボ寺院を建てるまで、スピティにはボン教が栄えていた。タボ寺の周囲は岩絵だらけで、なかには卍(ユンドゥン)や九層のストゥーパなどボン教と関連がありそうな図案も見つかっている。タボ寺院の横の斜面にはシャンシュン型といえそうな数十の洞窟がある。これらから考えるに、ボン教の聖地に仏教寺院を建てたのではなかろうか。
スピティのピン谷はこのあたりでは珍しくニンマ派が圧倒的な地域だ。ニンマ派寺院ができた11世紀頃までは、ボン教が主流だったのではないかと言われる。チベット本土ではボン教がニンマ派に改宗することがきわめて多いのだ。しかし現地の人々は大概ボン教に関しては否定的である。
スピティの東南、キナウルはボン教徒にとって格別の場所である。ランチェン・ツァンポ川はマナサロワール湖に発し、キュンルンをはじめとするシャンシュン国の中心部を通過し、ツァパラン(グゲ王宮)から西へ進み、中印国境を越え、インド側でサトレジ川と名を変え、パンジャブ地方では大河となる。シャンシュンとキナウルは直接川を通してつながっているのだ。
ボン教徒がキナウル(チベット語でクヌ)と聞いただけで興奮するのは、ボン教経典などに見られるシャンシュン語とキナウル語が非常に近いからだ。キナウル地方の、上キナウルには仏教徒が多く、下キナウルにはヒンドゥー教徒が多く、中キナウルはそれらが入り混じっている。少なくとも上と中キナウルはシャンシュン国の一部であったとされる。ただし一部の学者はシャンシュン語そのものに疑義を呈し、古代ではなく、たかだか数百年前に作られたものにすぎないと指摘している。
とはいえ、キナウルがシャンシュン国の中心地から近く、サトレジ川でつながれているという立地を軽視することはできない。たとえばある資料によると、9世紀後半、クヌ(キナウル)の王はティセ(カイラス山)とプランをも支配していたという。またそれよりは後の時代になるが、キナウルのブシャール王は、ツァパランから妻を娶っている。このことからキナウルと西チベットの間には頻繁に交流があったことをうかがわせる。
キナウルの東はどうなっていたのだろうか。私自身、西チベットのグゲ王宮址からマンナンへ南下し、ヒマラヤ山脈に沿って東へ向かったとき、南の空を見ると、いつもそこには美しいカメット山(7756m)があった。その神々しさはカン・リンポチェ(カイラス山)に勝るとも劣らないほどなのに、知名度では圧倒的に負けるのはなぜだろうかと思った。カメット山の向こう側には聖地バドリナートがあった。シャンシュン国の領域はどこまで及んでいたのだろうか。
クニンガ(クリンガ)国がおそらくシャンシュン国と接していた。クニンガ国(紀元前2世紀〜後3世紀)は『マハーバーラタ』や『プラーナ』にも出てくる強大な国だった。クニンガを印象付けているのは、大量に出土するクニンガ・コインだ。それらはヒマチャルプラデシュ州のカングラ地区、クル地区、マンディ地区、シムラ地区、シルマウル地区からウッタランチャル州までの、関東がすっぽり入ってしまいそうな広範囲に及んでいるが、聖地バドリナートからも出土しているのである。クニンガ国がシャンシュン国の一部とは思えないが、領土が接し、交易や巡礼などにおいて深い関係があったのではないだろうか。
ヒマラヤに沿って東へ移動すると、ネパール国境にぶつかる。国境の西側がクマオンという地域だ。このクマオンからネパール西端にかけて分布するのが、かつてボーティアと呼ばれたビャンス族(自称ラン)である。シャンシュン国の要の町のひとつであったプランには、彼らの居住区があり、市場があった。インド人のカイラス巡礼者も、通常はビャンス族の地域を通過し、プランを経て、マナサロワール湖やカン・リンポチェ(ティセ、カイラス山)へと向かったのである。死者儀礼ではセーヤクチャという祭司がセーヤーモという口承の儀礼的物語を詠んだ。セーヤーモによって死者の魂はキュンルン・グイパトに送られた。このキュンルン・グイパトはいわばあの世であるが、祭司によってキュンルン銀城から魂が上昇し、はじめて達することができたのではなかろうか。キュンルン崇拝があるこの地域は、やはりシャンシュン国の一部であったかもしれない。
ネパール側のカイラス山トレッキングの出発点でもあるフムラ。ここもまたシャンシュン国と並々ならぬ関係がある。フムラのニンバ族は二大氏族から構成されるが、そのうちのひとつはキュンパと言った。キュン(ガルダ)を奉ずる人々、といえばシャンシュン人にほかならない。しかも彼らの伝承では、祖先はキュンルンの最後の家族であったという。ニンバ族は滅亡したシャンシュン国の遺民だったのだ。祭りのときの彼らの踊りはガルダの舞であり、携えるスティックは蛇(ナーガ)を表した。これほどボン教的要素が散見されるのに、長い間ボン教は滅んだままだった。フムラにボン教徒の数が増えているのは、ごく最近の現象にすぎない。
ネパールでもっとも重要な地域はムスタンだ。古代、この地域にはセ・リグという国があった。セといえばチベットの古代六氏族のひとつであり、おそらくシャンシュン国の一翼を担っていた。ムスタンにはまたシャンシュン型の洞窟群が多数ある。そのうちのひとつ、マルシャンキュ洞窟群は、1992年に始まったネパール・ドイツ考古学共同調査隊によって、紀元前800年ごろの活動が確認されている。これがシャンシュン国紀元前1000年建立説の根拠になっているわけだが、もちろん指標のひとつにすぎない。あるいは指標と呼ぶにも薄弱すぎるのである。
タマン族についても触れておきたい。タマン族の村が集中するトゥリスリ川流域を遡ると、国境の向こう側はチベットのキーロンである。前述のように、キーロンで最近石碑が発見され、そこが小羊同(すなわちシャンシュン)の出口に当たることがわかった。この石碑が刻まれた1200年前、タマン族は、キーロンかもっと北方にいたかもしれない。タマン族のシャーマン的祭司はボンボ(Bombo)と呼ばれる。その名称がボン教のボンポから来ているという考えは単純すぎるのか、アカデミズムでは支持されないが、案外単純にシャンシュン人であったボン教徒のタマン族がヒマラヤを越えてネパール側へ移住してきたのかもしれない。