西暦45年のキリスト
『イエス文書』(2007)のなかで、マイケル・ベイジェントは歴史書中の興味深い記述を取り上げている。ローマの歴史家スエトニウス(70?−140?)が書いた『ローマ皇帝伝』(De
Vita Caesarum)の「ティベリウス・クラウディウス」(在位41−54)の章に出てくるクレストゥスという名の男がイエス・キリストのように思われるのだ。該当するのはつぎの一節(西暦45年)である。
彼(皇帝)はすべてのユダヤ人をローマから追放した。彼らはクレストゥスの扇動によって、つねに騒動を巻き起こしていたからである。
クレストゥス(Chrestus)がキリスト(Christos)のことであるなら、十字架に磔(はりつけ)にされてから15年後、イエスはローマにいたことになる。われわれが知っているイエスは神話的な存在にすぎず、実在したイエスはローマ帝国の都で宣教活動をしていたのだろうか。
ベイジェントは問う。
ローマにはメシアのような個人が活動していたのだろうか。そうだとして、ユダヤ人はなぜ暴動を起こしていたのだろうか。彼らは扇動者に鼓舞されてローマ人を攻撃していたのだろうか。それとも彼らが扇動者を攻撃していたのだろうか。あるいは、もっと奇妙だが、この扇動者は暴動を起こすため、ユダヤ人社会のなかで人と人が対立するように仕向けたのだろうか。スエトニウスは暴動の目的や、彼らが何に対して反対していたのかについて、いかなる情報も与えてくれない。しかしパウロのようにイエスもローマで生を終えたかもしれないのだ。
S・アチャリアは、しかしこのクレストゥスをキリストと結びつけるという考え方に批判的だ。(『キリストの陰謀』1999)
イエスがローマに行ったことがあるという説が唱えられたことはないので、この一節はイエスに関することではないのはあきらかだ。当時、「良い」や「役立つ」を意味したクレストゥスやクレストスという称号を名乗ったローマ人がいたが、彼らは解放された奴隷であることが多かった。その称号はさまざまな神に与えられることもあった。
イエス実在否定論者の先鋒であるS・アチャリアらしく、一刀両断に「クレストゥス=イエス・キリスト説」を切って捨てている。しかしこの説が成り立たないと言ったところで、クレストゥスが何者であったかがわかるというわけでもない。
S・アチャリアは『神の太陽』(2004)のなかで、当時キリスト教徒と呼ばれていた人々は、セラピス神を崇拝していたと述べている。セラピス信仰は紀元前3世紀には成立していたシンクレティズム(習合)的な宗教である。セラピスはエジプトのオシリスの化身であり、オシリスはイエス・キリストのずっと前からクレストゥスと呼ばれていた。
ハドリアヌス帝の書簡(西暦134年)にはつぎのような一節がある。
セラピスの信仰者はキリスト教徒である。彼らはセラピス神に身をささげている。彼らは自らをキリストの司教と呼んでいる。そこにはユダヤ人のシナゴーグもサマリア人も、キリスト教の長老派もない。彼らは占星術師でも占い師でも曖昧な快楽に身をゆだねる聖職者でもない。大司教がエジプトにやってきて、ある者はセラピスを崇拝し、ある者はキリストを崇拝するのである。キリスト教徒もユダヤ教徒も、お金を崇拝する異教徒のように、ひとつの神を信仰している。
このように初期キリスト教はセラピス信仰と区別しがたかったのである。たしかに当初から高尚な神学が発達したとは思えず、むしろ民間信仰と混合しながら信者の数を増加させていったと考えるべきかもしれない。西暦45年の暴動の扇動者も、セラピス信仰者だったのだろうか。
でも、と言いたくなる。扇動者がイエスという可能性は低いだろう。しかし本文で述べるように、「イエスは十字架上で死ななかった」と考える人々が少なからずいるのも事実である。イエスは生き延びてインドのカシミールに行ったかもしれないし、ローマに行って布教活動につとめたかもしれない。そう夢想することは、自由だろう。
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⇒ 「ノトヴィッチとイッサ文書の謎」
ワニの上に乗るセラピス神