謎めいたボン教聖人テンパ・ナムカ
宮本神酒男
パワーを発するボン教の聖人テンパ・ナムカの黄金像とそれが安置されたラカン。像は右手に勝利幟(ギャルツェン)
左手に鉢(ティンポル)を持つが、詳細は不明
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わたしはラサから西へ1000キロの(カイラス山よりさらに西方へ100キロの)岩山の上にひっそりと建つラカン(祠堂)に安置された、ミイラ化したグレイ・タイプの宇宙人みたいな神像がいたく気に入っている。やせ衰えた体とは対照的な大きな目、鋭い眼光、人の心を射貫く第三の眼。仏教にはない強烈な個性とエネルギーを放っている。伝承によればこれは古代のボン教聖人テンパ・ナムカ(Dranpa Namkha)の「自ら成った」像である。自ら成ったと説明される場合、それはいつの時代に、だれによって作られたか皆目見当もつかないということを示している。
ボン教徒であればその名を知らぬものはないと言えるほど、テンパ・ナムカは有名である。ただし、テンパ・ナムカは少なくとも二人いた。シャンシュン国のテンパ・ナムカと8世紀のチベットにいたボン教マスターのテンパ・ナムカである。伝説に彩られた時代において後者のテンパ・ナムカは妙に「実在感」がある。
仏教がチベットに入ってきたのは遅くとも7世紀前半のソンツェン・ガムポ王(?―649)の時代だが、本格的に仏教が興隆したのは8世紀後半のティソン・デツェン王(742―797)のときだった。伝承によれば、785年頃、ダムカルの近くで仏教とボン教の論争が行われたという。仏教側はのちに第二のブッダと称されるパドマサンバヴァ(蓮華生)と学僧シャーンタラクシタ(別の伝承ではこの二人ではなく、たんにボーディサットヴァ)、ボン教側はテンパ・ナムカがリーダーを務めた。テンパ・ナムカは呪術を用いて死者を蘇らせたが、グル・リンポチェ(パドマサンバヴァ)はそのトリックを見破って勝利をものにした。哲学的論争では仏教が圧勝した。仏教の完全勝利である。しかし吐蕃のティソン・デツェン王が仏教を本格的に導入したいと考えていたので、はじめから勝負は見えていたというのが実態だろう。この「確立された宗教vs土着のシャーマニズム的宗教」という対立構造は、現在のネパール・ヒマラヤにおいても見られる。
驚くべきことに、論争に敗れたテンパ・ナムカは頭上に巻いていた長髪を切り、出家して仏教の僧侶となった。救世主として全ユダヤ人から歓迎されながらもイスラム教に転向した偽メシア、シャブタイ・ツヴィ(1626―1676 トルコのスミルナ出身)を思い起こさせるほどの変節ぶりである。わたしが「実在性」があるというのは、こういった面だ。しかしツヴィがイスラム教徒になったのは表面的なことにすぎなかったという考え方があるように、テンパ・ナムカが仏教徒になったのは、ボン教徒を守るためだったと多くのボン教徒は考えた。
実際レッド・パージならぬボン教パージが始まるなか、ボン教は仏教っぽい衣を着ることによって難を逃れようとする。このテンパ・ナムカやリシュ・タグリンはボン教の聖なる教えを仏教の「セム・ルン・チョク」に変え、寺院やストゥーパ、石窟の中などに隠し、後世に伝えようとした。これがテルマ(埋蔵経典)である。いうまでもなく、テルマといえばチベット仏教ニンマ派の得意とするところである。ニンマ派のテルマは、パドマサンバヴァが後世のために書き残したものがほとんどで、やはりストゥーパや寺院、石窟の中に隠した。夢や意識の中に隠すというファンタスティックな裏技もあった。ボン教の衰退期において、テンパ・ナムカは同時代の人々には理解されないと考え、隠匿して後世に託したのである。チベットにおいて、聖なる経典や神像を隠し、のちのテルトン(埋蔵経典発掘師)に発見をゆだねるのはチベット仏教ニンマ派とボン教だけである。不思議なことだが、ニンマ派は、他の宗派(ゲルク派、カギュー派、サキャ派)以上にボン教と似ている。とくにゾクチェンの教えはニンマ派、ボン教双方において教義の中核を成している。これはどういうことなのか。ボン教が生き残っていくために仏教を取り入れた典型的な例なのか。
ここでひとつ奇妙な伝承を付け加えておきたい。すなわち、テンパ・ナムカには双子の息子がいて、そのうちのひとりがパドマサンバヴァであるとするものだ。テンパ・ナムカのコンソート(明妃)はカンド・ウーデン・バルマであり、二人から双子の兄弟ツェワン・リグズィンとユンドゥン・トンドルが生まれる。このユンドゥン・トンドルがパドマサンバヴァであると、ボン教、ニンマ派双方から認定されているのだ。それにしてもテンパ・ナムカとパドマサンバヴァが実の親子という説は、象徴としてとらえるべきなのだろうけど、さすがに突拍子なさすぎる。別の伝承(ニンマ派ソース)によれば、テンパ・ナムカはパドマサンバヴァの弟子である。これならばまだ受け入れ可能だ。
792年から794年にかけて行われたのがインド仏教vs中国仏教の論争、いわゆるサムイェー寺の宗論である。インド側(漸悟派)の代表はシャーンタラクシタの弟子カマラシーラ(蓮華戒。このカマラは米国副大統領カマラ・ハリスの名と同じで蓮華の意)であり、中国側(頓悟派)の代表はマハーヤーナ(魔訶衍)だった。この論争ではインド仏教側が勝利を収める。本場のインド仏教が中国内で変容した仏教に勝つのは当然のことだった……はずだが、何かが違っていた。当時の仏教を引き継ぐチベット仏教ニンマ派(旧訳派)の教義はあきらかに中国仏教(禅宗)に近いのだ。負けた方がじつは勝っていたとはどういうことなのか……。
そして仏教によって駆逐されたはずのボン教がチベットの版図の周辺で勢力を得るという逆転現象が起きている。その好例が現在の雲南省北部に分布するナシ族だ。トンバ文字として知られる絵文字の経典を用いるトンバ教は、あきらかにボン教、少なくともそのバリエーションである。トンバ教祖師トンバシロはボン教祖師トンパ・シェンラプと同一である。トンバ(トンバ教祭司)は普段、ブブ、あるいはブンブと呼ばれるが、それはボンポ(ボン教徒)のことなのである。
またモソ(ナシ族支系)のダバ教の祭司もボン教と非常に近い。儀礼の際に用いる鈴が仏教の釣り鐘型ではなく、ボン教のシャンという鈴と同一である。
モソの祭司ダバはボン教の鈴シャンを用いる(四川・雲南省境付近)。白馬チベット族のボンポ(四川・甘粛省境付近)
右はパキスタン北部バルチスタンのサムレク詩人。サムレクとは、古代のボン教聖人ミル・サムレクのことか
当時、チベットはチベット帝国になりかけていた。チベット軍は長安を征服し、敦煌や現在の新疆ウイグル自治区の大部分だけでなく、パキスタン北部(バルティスタン)、アフガニスタンの一部(バダクシャン)なども版図に加え、強大な帝国が築かれる寸前だった。しかしこの世界帝国の夢も、840年代のヤルルン朝(吐蕃)の崩壊とともに潰えてしまう。とはいえ封じ込められたはずのボン教が、チベットの版図拡大とともに、とくに最東部に活路を見出していたのである。
パキスタン・バルチスタンの磨崖仏。8世紀頃、ここ大勃律(ボロール)国にチベット軍がやってきた。裏側にはチベット文が刻まれている。解読しようとしたが、頭痛を起こしただけだった……。住民はイスラム教徒だがチベット語の方言を話す
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