毎年1月下旬頃に行われるタミル人のタイプーサムはずっとこの目で見てみたい祭りだった。出血量では台湾やシンガポールのタンキーに負けるかもしれないが、体中に刺しまくった針や鉤(フック)の数では他の追随を許さない。とはいえ写真で見るような超人的な苦行は、実物を見ないかぎり信じることができない。
インドのタミル・ナドゥやシンガポール、マレーシアの各地で行われるが、とくにクアラルンプール郊外のバトゥ洞窟のタイプーサムは、巡礼者、観光客を含めると80万人もが参加するとされ、規模的には最大である。基本的にはタミル人の巡礼祭である。英統治時代の1740年から1840年にかけて、400万人ものタミル人がマレーシアにやってきた。圧倒的なパワーを持つバトゥ洞窟に守護神ムルガンを祀り、タミル人の信仰の拠り所となったのは、19世紀末のことだった。1892年にここでの最初のタイプーサムが行われた。
当時のリーダー、タムブーサミ・ピライ(Tamboosamy Pillai)が洞窟内にムルガン寺院を建てたとき、反対勢力があったかどうか、私は知らない。常識的に考えてこの桁外れのパワースポットに地元の神様が祀られていないわけがない。しかしその声を圧殺するほど、爆発的に増加したタミル人は聖なる場所に飢えていたにちがいない。
ムルガンを祀るようになる以前からバトゥ洞窟には伝説があった。それによるとバトゥ洞窟は呪われた船ということだった。
昔むかし、ある貧しい農村に育った男が家出をし、紆余曲折をへて、大きな船の船長になるまで出世した。そして一国の王女を娶ることになった。男は久しぶりに故郷に帰ったのだが、貧しい母を見て、それが母であることを否定した。息子の親不孝ぶりに怒った母は、息子と船に呪いをかけた。航行中、激しい嵐に襲われ、船長は鷲になり、船は石になったのである。
高尚な要素のない民間伝説にすぎない話のように思えるが、この伝説は地元の荒々しい女神のことを語っていると考えるべきだろう。母親がたんなる貧しい農婦のはずがない。その証拠に息子を鷲に、船を石に変えるほどの強力な呪力を持っているではないか。母親はおそらくこの丘か、この洞窟を所有する神だろう。この神をきちんと祀らなかったがゆえに、息子、すなわち民衆は罰をくらったのである。
タイプーサム自体は数日間行われるが、とくに一日、苦行者がバトゥ洞窟に巡礼する。今年は1月20日だった。あまりにも人が多いので、私は門から少し離れたところで定点観測した。つぎからつぎへと超人的な苦行者がやってくるので、目がなれてきて、背中に数個の鉤(フック)が刺さっているくらいでは驚かなくなった。
苦行者はタイプーサムの前に、一週間から48日間禁欲を保つ。苦行者は指導者のもとに集まり、聖なる歌をうたう。当日は第三の眼あたりをマッサージし、トランス状態に入る。こうしてカヴァティ(身体を囲むような「痛み」の装置)を背負うことができるようになる。
バトゥ洞窟下に大きな市が立つ。すべてインド風。スイートもインドとまったくおなじ激甘。床屋もたくさんできる。髪を剃ってから洞窟にお参りしようという人も多いのだろう。
バトゥ洞窟内のお土産やで売っていたチープなムルガン像。じつはペン立て。逆さにして戻すと紙くずが舞い、幻想的雰囲気が現れる。
→ 聖なる痛み2 舌刺し
→ 聖なる痛み3 人はなぜ頬に針を刺すのか
→ 聖なる痛み4 この世の見納めにタイプーサムを
鉤(フック)を背中に刺して人を引っ張っている。代表的な苦行だ。
刺さっている様子を近くで見る。人間の皮膚は想像以上に強いが、破れてしまうこともある。
世が世ならマハラジャであってもおかしくない雰囲気を持った苦行者。もっとも、マレーシアにやってきたタミル人の大半は低カーストの労働者だったのだが。
12個の鉤(フック)でロープを引っ張る苦行者。右はガンジャを吸う苦行者。
30個のレモンを背中に吊るす苦行者。皮膚だけで重みに耐えるのは大変だ。
地面に足をつけないで葉っぱだけを踏んでゆっくりとバトゥ洞窟へ向う苦行者。葉の種類は不明。トゥルシーか何かだと思うが……。