(1)アレクサンドラ・ダヴィッド=ネールこそ超人だった 

 最初にケサルの語り部と会い、物語を具体的に翻訳して欧米にその存在を知らしめた功績は、アレクサンドラ・ダヴィッド=ネールに帰せられることになりそうです。

 このアレクサンドラ・ダヴィッド=ネールという偉大なる女性の伝記を読むと、波乱万丈、ジェットコースターに乗っているかのような人生で、もう滅茶苦茶面白いのです。本筋からすこし離れますが、この稀代の女性探検家の101年の人生をかいつまんで紹介して、それから彼女がケサルの語り手に会ったときのことを記した文章を読んでみたいと思います。

 アレクサンドラは、元教師でのちに革命に傾倒してジャーナリストに転向するフランス人の父ルイ・ダヴィッドと亡命先のブリュッセルで知り合った20歳年下のベルギー人の母アレクサンドリンとの間に、1868年、パリで生まれました。父は1851年にナポレオン3世がクーデターを起こしたとき、文豪ヴィクトル・ユーゴー(18021885)らとともにベルギーに亡命しました。アレクサンドラはユーゴーの膝の上であやされたことがあるそうです。

 彼女の映画を作るなら、5歳のときの冒険からはじめることになるでしょう。彼女はパリ郊外のヴァンセンヌの森のなかで、乳母から脱走を試みます。学校に入ってからも、寄宿学校から何度も逃げ出しました。16歳になると、オーストエンド(ベルギーの海岸の町)に家族旅行で来ているとき、彼女はオランダへ逃げ、それからドーバー海峡を渡って英国に行き、金が尽きるまでとどまりました。17歳のとき、彼女はブリュッセルから列車でスイスに入り、ゴタール峠まで歩きました。そしてそこからアルプスを越えてイタリアのマッジョーレ湖に達しています。未来の大探検家の面目躍如といったところです。

 19歳のとき、彼女はブリュッセルの王室音楽学校に入り、声楽の勉強をします。のちに彼女はオペラ歌手デビューをすることになるのですが、きちんと声楽の訓練を受けているのです。

 翌年、彼女はロンドンに滞在し、神智学協会であのブラヴァツキー夫人に紹介されます。この結びつきには驚かれるかたも多いでしょう。ブラヴァツキー夫人はとても魅力的な存在ですが、オカルト色が強く、ややもするとトンデモの世界に行ってしまう傾向がありました。アレクサンドラがのちにブラヴァツキー夫人との交流について語りたがらなかったのは、自分のチベット体験がオカルト扱いされるのを避けたかったからでしょう。しかしブラヴァツキー夫人の『シークレット・ドクトリン』は魅力的だったはずで、神秘的な存在マハトマがアレクサンドラに影響を与えなかったはずがありません。

 彼女は23歳のとき、名付け親の遺産が入り、そのお金でインド、スリランカ方面への旅に出ました。彼女はマドラス郊外アディヤールにある神智学協会を訪ね、ここに滞在し、サンスクリットを学んでいます。女性の権利を主張するなどの社会活動で有名で、オカルトに転じ、のちに神智学協会の会長となるアニー・ベサントとはその前年にロンドンで会っています。

 アレクサンドラは1894年から1900年にかけて(26歳から32歳)いわば新米の歌手であり女優でした。1895年にはオペラ・コミック座の一員(プルミエ・シャンテューズ)として、ハノイやハイフォンで舞台に立ちました。1900年に一座とともにチュニスへ行ったとき、そこで夫となる39歳のフィリップと出会いました。

 この一年前の1899年、彼女は『アナキスト人地論』で知られるアナキズム思想の大家エリゼ・ルクリュの監修のもと、アナキズム(無政府主義)についての論文を書いています。彼女は根っから権威や惰性を嫌っていたことがよくわかります。運命の道が違っていれば、彼女は政治運動や革命活動で名を成したかもしれません。

 1904年、アレクサンドラはフィリップと正式に結婚しています。しかし彼女は喜んでいるというより、悲しんでいるようにしか見えません。普通の結婚生活や子どものいる生活を彼女は望んでいなかったのです。1911年まで、アレクサンドラはパリかロンドンにいることが多く、フィリップは北アフリカにいました。この時期に会ったのはほんの数回でした。仮面の夫婦どころか、書類上の夫婦にすぎず、婚姻関係にあるとはとうてい言い難かったのです。

 しかしそれでも40年にわたってフィリップは経済的な援助をつづけました。必要なものを彼女のためにアジアのどこかに送り、彼女も入手したものなどをフィリップあてに送りました。この夫婦関係には何かが隠されているのでしょうか。現地(アルジェリア)に愛人でもいたのでしょうか。

 1911年から1925年の旅は、1回で14年にも及ぶ長いものになりました。1911年から翌年にかけてはカルカッタに住んでサンスクリットを学び、翌年、ベナレスでもサンスクリットの学習をつづけ、哲学で名誉博士号をもらっています。

 この年、シッキムに行き、アレクサンドリアはこの地方をすごく好きになります。ここでシッキム王国の王子と親しくなり、中国軍の侵攻を避けて逃げてきたダライラマ13世と会っています。また洞窟に住むひとりのチベット人のゴムチェン(修行僧)と知り合いました。このゴムチェンのかっこうはおぞましく、手に呪術用の短剣(ヴァジュラ・キーラヤあるいはドルジェ・プルバ)をもち、108のドクロのネックレスをかけ、人の骨で作った前掛けをつけていました。彼女はゴムチェンのもと、2年間いろいろなことを教わります。そのなかにはテレパシー術やトゥモ(体内に熱を発生させる術)が含まれていました。

 そして1914年、シッキムで少年僧ヨンデンに出会います。死がふたりを分かつまで、なんと40年もふたりは苦楽をともに過ごすことになったのです。夫のフィリップとはほとんど会わない一方で、30歳年下のヨンデンとはどこに行くにも、過酷な状況下でも、つねにいっしょなのです。のちには正式に養子とします。実際のところ、ふたりの関係はどういうものだったのでしょうか。

 アレクサンドラは1916年にシガツェに行き、タシルンポ僧院でパンチェンラマに面会しています。しかし許可なしにチベットに入国したため、シッキムから放逐されてしまいます。これで事実上、南からラサに入ることは不可能になりました。

彼女は大回りをしてラサをめざす決心をしました。ビルマ、フランス領インドシナを経て、アレクサンドラとヨンデンはなんと日本にやってきたのです。当時の日本は、日露戦争の勝利の酔いからまだ覚めてなくて、富国強兵路線をまっしぐらという時期でしたが、日本のそうした風潮にたいし彼女はそれほど悪くは言っていません。

 たとえば彼女は著書のなかでつぎのような話を書いています。

私は日本で知られている逸話を紹介したい。偉大なる国民的ヒーローのマサシゲ(楠木正成)は、彼の部隊をはるかにしのぐ敵軍と英雄的な戦いをして敗れたあと、7回生まれ変わることを願った。生まれ変わるたびに、彼はミカドの敵と戦いたいと考えたのである。この希望を強く述べて、彼は武将たちとともに自らの命を絶った。

 1905年の日露戦争で死んだ兵士や官吏を追悼した葬式が行われたとき、日本の有名な僧である釈宗演師は正成の願いと広瀬大佐の同様の願いについて想起されていた。この願いはチベットの神秘思想と類似していたのである。

「この英雄たちが転生するのは、7回だけではありません。数千回、転生するのです。人類がつづくかぎり、彼らは転生するでしょう。過去、あるいはこの戦争において、日本の栄光のために命を捧げた人々は、その願いゆえ、また転生することになるでしょう。彼らは正成その人と言っても過言ではありません」

 このようなお話をされたあと、釈宗演師は、転生の実例を挙げ、その教義や、東洋では思考の集中として認識されている神秘的な力に言及された

 このようにアレクサンドラの口から楠木正成や広瀬大佐、釈宗演禅師の名が出てくるのには驚かされます。日本の武士道や禅に少なからぬ興味をいだいていたのでしょう。

 日本では河口慧海とも会いました。ラサに行きたいと願っている彼女の身からすれば、尊敬すべき存在であるとともに、うらやましい存在であったでしょう。公言できぬラサの情報を伝授したかもしれません。ダージリンやカリンポンは二人ともよく知っているはずですし、共通の知人もいたことでしょう。ダライラマ13世に面会したと聞いて慧海はびっくりしたはずです。

 アレクサンドラは日本を去ったあと、朝鮮半島をへて北京に移動し、しばらく滞在しました。彼女は雍和宮でないあるラマ寺に行ってはじめてケサル像を見ます。ケサルがいわば武神として崇拝されていることをはじめて知ったのです。ケサル像と呼ばれながら関羽像であることも多いのですが、これはどうでしょうか。

 そのあと1918年から1920年にかけての3年近く、ツォンカパの生地としても知られるクンブム(タール寺)に滞在します。彼女は仏教についてのストレートな著作も多いのですが、チベット仏教の基礎はこのゲルク派の大寺院で学んだのでしょう。

 1921年から翌年にかけての旅はきわめて重要です。彼女は蘭州から成都に出て、ターチェンルー(康定)からジェクンド(玉樹)に入っているのです。彼女ははじめてケサルの語り部と会い、物語を筆録しています。のちに、彼女は物語を翻訳し、フランス語、そして英語で『超人 リンのケサル』を出版することになります。はじめてケサルの語り部(説唱芸人)に会ったときのことはまた少しあとで述べることにしましょう。

 1922年から翌年にかけての旅で、彼女はまずデルゲ地区を回り、リンの王様の子孫の家も訪ねています。リンといっても、おそらく実在したリン・ツァンのことでしょう。もちろんリンとリン・ツァンは同一の可能性があります。

 そして彼女はクンブムに戻り、そこから甘州へと足をのばしました。

 1923年から翌年にかけての旅は、たいへん長く、困難な旅でした。甘州からゴビ砂漠を超えて蘭州、さらには四川省成都、雲南省麗江を経てサルウィン川までまっすぐ進みます。サルウィン川(怒江)を遡上すると(このあたりは昔マウンテンバイクに乗って旅したことがあります)そのまま現在のチベット自治区の東南隅に出ます。そこからラサへと向かったのです。

 こうしてチベット文化圏を旅する時、アレクサンドリアとヨンデンはしばしば乞食に扮しました。もしかすると巡礼僧という意味なのかもしれませんが、いずれにしても彼女の生き方は、女性としてオシャレをしたり身なりをきちんとしたりする、といった凡庸な世界とはまったくかけ離れていました。年齢も50代半ばであり、通常なら隠居して安穏とした生活を考えてもおかしくありません。ただし膝の関節炎には苦しんでいたようです。

 ラサ滞在は2か月ほどでした。アレクサンドラはギャンツェをへて、ヒマラヤを超えてインドのカルカッタに到達しました。この最後のラサまでの苦難の旅については『パリジェンヌのラサ旅行』に描かれています。この本は1927年に出版され、大反響を呼びました。

 アレクサンドラは帰国したあと、フランス南部のディーニュにサムテン・ゾンを建て、そこで過ごしながら、執筆に励みました。しかしひと段落すると、ふたたびヨンデンとともに、チベットに入るべく中国へと向かいます。1937年のことで、彼女は70歳になろうとしていました。

彼女が重慶のホテルのバルコニーから外を眺めていると、日本の戦闘機がやってきて、空港を爆撃しているのが見えました。いわゆる重慶爆撃です。中国政府はすべての外国人をスパイではないかと疑ってかかったので、身動きがしづらくなりました。このあとターチェンルー(康定)に移動するのですが、落ち着いて研究をするような状況ではありませんでした。

 1940年代前半(おそらく42年)英国軍の将校だった著名な道教および中国仏教の専門家ジョン・ブロフェルドが成都のホテルでアレクサンドラと遭遇しています。彼女は強盗の被害に遭って仕方なく安楽なホテルに滞在していると説明したそうです。(ブロフェルドは黄檗宗の『伝心法要』の英訳でも知られている。ちなみに河口慧海は黄檗宗の僧侶だった)

 ターチェンルーにいたとき、彼女は夫フィリップが死去したという知らせを受け取ります。この時点でも彼女はフィリップあてにこまめに手紙を書いていたので、ほとんど夫婦生活を送っていないとはいえ、ショックだったでしょう。

 もっとショックだったのは、フランスに戻ってから十余年の1955年、40年もともに過ごしたヨンデンに先立たれたことです。アレクサンドラは87歳になっていました。

 彼女は100歳になったとき、パスポートを更新しました。担当官は最年長記録だと感嘆したそうですが、もしかするともう一度チベットへ行こうと考えていたのかもしれません。しかし翌年の1969年、彼女は101歳でこの世を去りました。

 彼女が逝去すると、アレクサンドラの本があまりにも面白すぎて、これが本当の話であるはずはない、と多くの人が唱え始めました。ペテン師というのはけっこういるものです。たとえば(舞台はオーストラリアですが)ルイ・ド・ルージュモンという英国人ニセ冒険家がいました。1898年に雑誌に掲載され世界的な話題になった冒険譚が、嘘っぱちであったことが判明したことがあるのです。

チベットを舞台にした「真実の物語」とする神秘的な冒険物語は、当時たくさん書かれていました。その代表的な作品は、チベットの亡命ラマを詐称したロブサン・ランパ(英国人で本名シリル・ヘンリー・ホスキン)の『第三の眼』(1956)でしょう。ちなみにこのペテンを見破ったのは、ブラッド・ピット主演で映画化された『セブン・イヤーズ・イン・チベット』の著者ハインリッヒ・ハラーでした。彼はこの作品があやしげだと思い、私立探偵を雇って正体を突き止めたのです。彼の本(20冊も出ている。邦訳はほかに『古代の洞窟』)はフィクションとして読まれるべきでしょう。

 そんな風潮の中で、ジャンヌ・デニという人が『チベットのアレクサンドラ・ダヴィッド=ネール』(1972)という著書の中で「アレクサンドラはチベットへ行ったことがない」と主張し、話題になったのです。

 そういう噂はまもなく収束しますが、アレクサンドラが書いた体験談は、本当のこととは思えないほど面白かったのです。

 


⇒ つぎ 









若い頃の(歌手の?)アレクサンドラ・ダヴィッド=ネール 




夫のフィリップ。結婚したが、同居したことはなかった 




40年間いっしょに過ごしたヨンデンと 




「超人 英雄ケサル王物語」