悲運の天才学者、ケサルの語り手に出くわす
半世紀以上前、ひとりの天才学者がいました。彼はチベット中のありとあらゆる精霊や神々、魔物についての情報を集めました。おそらく千以上の名前や情報を集めることができました。彼以前にも、彼以降も、それだけのことをなしとげたチベット学者はいないでしょう。その著書<Oracles and Demons of Tibet>(チベットの神託僧と魔物)はチベット学における金字塔として燦然と輝いています。
彼の名はレネ・デ・ネベスキ=ヴォイコヴィツ。チェコ東部の生まれのチベット学者です。惜しむらくは、若干36才で亡くなってしまったことです。1923年に生まれ、スタンの『ケサル詩人を探して』が上梓された1959年に亡くなったのです。夭折の詩人はありえても、夭折の学者はふつうありえません。
彼はエッセイの中で、ケサルの語り手と会ったことについて記しています。「最後のケサル詩人」という小題をつけているので、ケサルの伝統はそう長くはつづかないだろうとみていたことがわかります。
カリンポン(インド北部)に滞在していた11月のある冷えた日、私は馬に乗って出かけた。そこはチベットへとつながる道である。重い荷を背負った騾馬の長い隊列が、チリンチリンと鈴を鳴らしながらすれ違って行った。背中に荷物を載せ、ぜいぜいと息を切らしながらやってくるチベット人の一団とも出会った。商人もいれば、巡礼者も、乞食もいた。私にとってそれらはすっかり見慣れた風景になっていた。
しかしそのあと出会った人物はほかの人々とはまったく異なっていた。その老人は擦り切れた羊毛の上着を羽織り、とてつもなく奇妙なかぶりものを頭にのせていたのだ。それは司教の冠のような皮の帽子で、前面には太陽と月のシンボルが、そして鞍や弓矢、盾、槍を表わす装飾が縫い付けられていた。このかぶりものはプロフェッショナルであることを示す目印だった。男はチベットの巡回する芸人だった。村から村へ、遊牧民の野営地から別の野営地へ、伝説的なケサル王の英雄的な活躍の物語を歌いながら巡っていくのである。
カリンポンという小さな町は、近くのダージリン以上にチベット本土からやってきた(ときには亡命してきた)人々が集まりやすいところです。カリンポンに長く滞在していたネベスキ=ヴォイコヴィツがケサルの語り手(ドゥンパ)と会ってもなんら不思議ではありません。
注目すべきは、会った男が典型的なケサルの語り手であることです。彼がかぶっている「奇妙なかぶりもの」はまさにケサルの語り手であることを示しています。それをかぶっていないとき、彼は普通の人ですが、かぶった途端、聖なる「説唱芸人」になるのです。文化大革命当時、当局はこの帽子をすべて焼き払おうとしました。なかなか焼けず、川に投げ捨てられることもありました。帽子をかぶったケサルの語り手は聖なる存在であり、転生ラマなみに力をもつことを彼らはよく知っていたのです。
ネベスキ=ヴォイコヴィツはしばらくして別のケサルの語り手と遭遇しました。
数週間後、私はほかのケサル詩人と出会った。こちらは中年の男で、チャンパ・サンダと名乗った。「神秘の主人である未来仏」といった意味である。チャンパ・サンダはかつて摂政レティン・リンポチェのおかかえ芸人だったという。
若い摂政は音楽が好きで、毎晩チャンパ・サンダは摂政のために、ケサル王物語から数節を歌ってあげなければならなかった。ちなみに彼はいまも、チベットで随一のケサル詩人である。摂政が非業の死を遂げたとき、生命の危険を感じた彼はカリンポンに逃げ出したのである。
この私の新しい知り合いはおしゃべり好きで、亡くなった師匠のこととなると、疲れを知らずしゃべりまくった。私と話をしていると、古い記憶が呼び覚まされるようで、話を途中で切って突然摂政が好きだったケサルの一節を歌い出すこともあった。
このチャンパ・サンダというケサルの語り手は、じつはスタンが著わしたケサル研究の決定版であり、金字塔の『ケサル詩人を探して』の最大のインフォーマントなのです。ネベスキ=ヴォイコヴィツがもう少し生きていれば、スタンと並ぶ研究成果をものにできたのではないかとくやまれます。
このチャンパ・サンダはかつてレティン・リンポチェのおかかえ芸人であったと述べられています。レティン・リンポチェは転生ラマですが、1930年代、チベット政府の摂政として大きな権力を持っていました。ダライラマ14世の転生の選定にも責任者として当たったといわれます。
興味深いのは、聖職者ながらも、政治という俗世間で権威をもつと、王様のようにケサルの語り手をかこいこむことができたということです。摂政でさえこんな調子ですから、各地方の権力者はみなパトロンとして語り手を持っていたかもしれません。
* レティン・リンポチェ 第5世レティン・リンポチェ、トゥブテン・ジャンペル・イェシェ・ギャルツェン(1911−1947)のこと。摂政として、現在のダライラマ14世選定の責任者を務めたことで知られる。親中派であり、その俗な性格も非難を浴び、反中派の突き上げもあって1941年に職を辞し、清廉な僧であるタクタ・リンポチェにその座を譲った。1947年、ラサの獄中で死亡するが、毒殺されたと多くの人は考えている。
余談になるが、1994年にはじめてレティン・ゴンパを訪ねたとき、修復工事が遅れていて、見たなかでももっとも徹底的に破壊された廃墟同然の状態だった。瓦礫のなかに壁画でも残っていないかと探し回った。その間ずっと灰白色の猫がついて回った。この寺には100匹以上の犬がいたが(食事は参拝者の糞尿だった)猫も2匹いた。
このように徹底的に破壊されたのは、ダライラマ14世の選定に当たるなど、チベット政府のなかで中心的な役割を果たしていたからである。親中派ではあったが、その「中」は中華民国のことだった。他の寺院よりひどく破壊されたのにはそうした事情があったのだ。