典型的なのに個性的な流浪の吟遊詩人 

宮本神酒男 


 英雄ケサル王物語は、語り手の数ほど物語があるといわれます。ケサル王物語が誕生してから今日まで、数千人、あるいは数万人の語り手がいたでしょうから、何万もの物語が存在したことになります。

 そのなかでも上述のツェリン・ワンディやタクパのような、神から物語を授かり、各地を巡りながら物語を語り、歌う(おそらく古代ギリシアのホメロスのような)吟遊詩人にはロマンが駆り立てられます。

 テンチェン(西蔵自治区丁青県。ラサの東800キロ、チャムドの西200キロ)生まれのサンドゥプはまさにそのような英雄叙事詩を語り、歌う漂泊の吟遊詩人でした。典型的なケサルの語り手だったのですが、物語の骨組みは標準的とは言い難いものでした。(標準的な骨組みは「4大エピソードと18遠征」を見てください)

 サンドゥプのケサルのエピソードには、54巻の名が挙がっています。それは「18大ゾン」「18中ゾン」「ジョル(ケサル)誕生前の18ゾン」から成っています。このゾンというのは城、要塞、ときには国のことを指します。ブータンにいけば現在も日常的に使われています。ケサルはひとつの巻で、ひとつのゾンと戦っているのです。

 18大ゾンの最初の4巻は「北の魔王ルツェン」「ホルの白テント(クルカル)王」「(ジャンの)サタム王」「(モンの)シンティ王」という四大魔王との戦いの物語です。そのあとにタジク、シャンシュン、アタク、ジェリ、カチェなどとの戦いがつづいています。

 ケサルの語り手はいつも物語のはじめから終わりまで、通しで語るわけではありません。客からのリクエストに答えて語ることが多いので、むしろ語られる物語には偏りがあるのです。人気が高いのはやはりこの四大魔王との戦いの4巻、とくにホルとの戦いが人気がありました。

 サンドゥプはまた、「ジョル(ケサル)誕生前の18ゾン」を得意のエピソードとしていました。ケサル王物語だというのにケサル王が出てこないのも奇妙ですが、もしかすると、もともとチベットにはケサル以外にも英雄叙事詩があり、これらはその名残なのかもしれません。

 さて、サンドゥプ自身のことに話を戻しましょう。彼は1922年、テンチェン(丁青県)の半農半牧の村に生まれました。チベットには、純粋な遊牧民よりも、農地を持ちながら放牧をしている人たちのほうがはるかに多いのです。

サンドゥプに強い影響を与えたのは、商売に手を出しながら失敗した母方の祖父の存在です。サンドゥプが幼少の頃、祖父はチャン(大麦の酒)を飲みながら、よくケサル王物語を語って聞かせました。

 サンドゥプは11歳のとき、いつものように山で放牧をしていました。雨が降ってきたので、彼は洞窟に避難しました。ここで岩壁に体を預けてうとうとしていると、突然借金取りがやってきて、つかみかかってきたのです。そこにケサル王があらわれ、少年を助けました。少年は感謝の言葉を伝えようとするのですが、声がでません。なんとか声を出そうともだえているうちに目が覚めました。それにしてもこの借金取りの借金とは、祖父が作ったものにちがいありません。借金苦の生活は11歳の孫にまで暗い影を落としていました。

 このあと家に戻ってから、少年は恍惚とした表情のまま、ぼんやりと過ごすようになりました。夢の中のできごとがそのまま頭の中でつづいていたのです。心配した両親は、少年を近くの寺の活仏のもとに連れていきました。この活仏によって「扉を開く儀礼」がおこなわれたのでしょうか、少年は平静を取り戻し、物語を語ることができるようになりました。このときに少年は「英雄誕生」(キュンリン・メトク・ラワ)を語ったといいます。先に挙げた「18大ゾン」よりも前の重要なケサル誕生の場面です。

 彼は典型的な神授型のケサルの語り手となるのですが、夢の中でもらうのではなく、トランス状態のなかでストーリーをもらいました。毎回説唱する前に目をつむり、神経を集中し、数珠をたぐりながら、物語がやってくるのを待つのが彼のスタイルでした。

 家が貧しかったので、彼は家を出て、ケサル物語を吟唱しながら各地を巡るようになりました。隣県のソク(索県)に滞在する頃には、「天界編」や「競馬称王」もレパートリーに加わってきました。ここのロンポ寺で歌い語ったとき、著名な語り手であるロタクと出会いました。

 彼はナチュをはじめ各地をまわり(よくお寺で歌い語っています)、ついに聖なるカイラース山にたどり着き、この聖山を三周しました。

 かつてはこのように、現在でいえば路上ライブのようにケサル王物語を道行く人々に聞いてもらい、お金を得るということがよくおこなわれていました。そういうことはつい最近まで見ることができたのです。芸能を見せるのですから、乞食というよりは大道芸人に近いといえるでしょう。もちろん外でばかりでやるとはかぎらず、アレクサンドラ・ダヴィッド=ネールが目撃したように、どこかの広い部屋を演芸ホールのように使い、壇上で歌い語ることもありました。祭りや縁日のような人が集まるのはいい機会でした。それが寺院の敷地内であることもありました。またレティン・リンポチェのような実力者が有名なケサルの語り手を囲うこともありました。

 サンドゥプもまたソンツェン・ガムポ王の末裔を称するギャリ・チチェンという名門貴族のお気に入りとなり、その評判を聞いたほかの貴族からも呼ばれるようになりました。当時貴族たちは文化サロンを催していました。ケサルの語り手としても、このようなパトロンを得ることは活動をつづけるためにも重要でした。

 ここに挙げた3人のケサルの語り手に共通するのは、文革の時代が終わり、社会が落ち着いてきた頃から、レパートリーの物語をテープに録音するようになったことです。私自身、上述のように、スタジオのマイクの前でケサルの語り手が吟唱するのを見たことがあります。膨大なテープがたまっているはずですが(録音されたのは5千時間以上にも及びます)、活字に起こされ出版されたのは、百数十冊にすぎません。百数十冊でも十分たくさん活字になったといえるのでしょうが。

 またサンドゥプは1985年にラサ市の政治協商委員に任命されました。政協委員というのは名誉職のような場合もありますが、悪い気はしなかったでしょう。


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