夢は古代を駆けめぐる

 念願のキュンルン銀城に足を踏み入れたときのこと。急勾配の斜面を這うように登っていると、強風に巻き上げられた砂塵の下からチベットの空のように鮮やかな青色の破片が現れた。
 拾い上げると、それは壁画の一部分のようにも見えた。考古学的価値はないにせよ、自分にとっては宝石のように美しかった。
 足元はグゲ時代に造られた仏教寺院の廃墟だった。1935年イタリアの高名な学者ジュゼッペ・トゥッチが訪ねたとき、すでに廃墟と化していたという。

 しばらくしてポケットに入れていた破片を取り出すと、その色は褪せ、たんなる石ころになっていた。狐につままれたようだった。強い風が積もっていた砂を吹き払い、破片はもとの鮮やかな青色のまま眠りから醒めたが、すぐに死んでしまったのだ。鮮やかな青は永遠に失われてしまった。

 昔、フェデリコ・フェリーニの『ローマ』というドキュメンタリー風の、しかし詩的な映画を観たことがある。ローマの地下から古代の壁画がつぎつぎと発見される。しかし外の空気に触れると、壁画は途端に色褪せた。それと同じようなことが起こったのだった。

 

 古代シャンシュン国の都キュンルン・ングルカル(ガルダの谷の銀の城)はずっとあこがれの場所だった。目の黒いうちに一度は訪ねたいと願っていた。

『チベット王統史明鏡』(rGyal rabs gsal ba'i me long)などチベットの史書によると、プデ・グンギェル王、宰相ルラキェ(Ru la skye)の時代、シャンシュンからボン教(ユンドゥン・ボン)が入ってきたという。

シャンシュン国がいつごろはじまり、その領土がどれだけであったか、あまりはっきりしない。3千年前には国があったのではないかと思われるが、ボン教徒のなかには1万8千年前に建国されたという説を唱える人もいる。ここまで来ると神話の世界である。はじまりは明確ではないが、終わりは、おそらく8世紀だろう。7世紀、吐蕃のソンツェン・ガムポ王に滅亡の淵まで追い込まれ、8世紀、ティソン・デツェン王に引導を渡されたのではないかと考えられる。

シャンシュン国の領土に関してもさまざまな説がある。その中心地がカン・リンポチェ(カイラス山)であることはまちがいない。グゲ王国(10世紀~17世紀)がシャンシュンの故地を引き継いでいるとするなら、シャンシュンは現在の西チベットの阿里(ンガリ)ということになる。

ボン教徒のあいだにはつぎのような伝承があった。「西は(パキスタンの)ギルギット、北は(新疆の)ホータン、南は(ネパールの)ムスタン、東はナチュ」と。もしそうだとすれば、現在のチベット自治区をやや西にずらした位置に広大な領土を誇っていたことになる。もちろんそれは誇張かもしれず、一時的なものだったかもしれない。しかし勝者の吐蕃がシャンシュン国を矮小化してきたため、それが小国に見えるのかもしれない。

中国の歴代史書には、シャンシュン国は羊同(ヤントン)として登場する。羊同は巨大な国だったが、なぜか大小二国に分裂する。近年チベット自治区キーロン県で発見された唐代の石碑によって、シガツェやギャンツェを含むツァン地方が小羊同に属したことがわかっている。ラサのすぐ西はシャンシュンだったのだ。ところが吐蕃に洗脳された我々は、ツァンは古代からチベットだったというふうに思い込まされている。

シャンシュン国の主要宗教はボン教だった。

 しかし、ボン教がシャンシュン起源なのか、外来のタジク(ペルシア)起源なのか、じつはいまだに論争が続いている。私は個人的にはシャンシュン国の高度に発達した民間宗教がボン教だと考えている。とはいえ民間宗教はボン教ではない、という論が多勢なのが現状である。


オルモルンリン

 シャンバラのボン教ヴァージョンともいうべきオルモ・ルンリンの位置も、カイラス山説とタジク(ペルシア)説が有力だ。ここでは深くは触れないが、私はバルチ語やラダック語でオルモ・ルンリンは「草の生い茂る長い谷間」を意味することから、特定の場所を指さない理想郷のことではないかと考えている。

 キュンルン銀城がどこかについても、二説ある。もっとも有力なのが、キュンルンという地名が残るこの写真の場所である。ボン教にとって聖なる川であるサトレジ川の上流にあることが、有力証拠といえる。この奇妙な丘には200から300の洞窟があり、はるか以前から人が住み、城砦として使われていた節がある。

 キュンルンのライバルは北へ30キロほど行ったところにあるカルドンである。とてつもなく大きな軍艦のような巨岩には無数の岩窟があり、土のブロックで造られた城砦は半端でなく古い。ボン教寺院グルギャム・ゴンパがこの真横にあることから、ボン教の正統派はカルドンをキュンルン銀城とみなしているのかもしれない。

 私は、都はふたつあったのではないかと考えている。おそらく夏の都がカルドンで、冬の都がキュンルン。なぜなら、カルドンは古代、とても重要な場所だったティルタプリに近く、その先はカイラス山であり、マナサロワール湖である。ネパールと接するプラン、聖地カイラス、ルトク(西チベットの西端でラダックと接する)を結ぶ街道にあり、交易のさかんな夏には便のいいところなのだ。

 冬、キュンルンはもってこいの場所だ。なぜならキュンルンの麓には温泉が湧き出ているからだ(ティルタプリやマナサロワール湖岸のチウ・ゴンパにも温泉が湧き出ている)。あまり活動的でない冬季には、人にとっても家畜にとっても冬篭りできる洞窟があり、温泉の湧き出るキュンルンは最適な場所だ。

 

⇒ キュンルン銀城(中)

仏教徒の洞窟。数十個のツァツァが見える。中央下はストーブ。

右上の岩窟の中に入る。壁画もかすかに残っている。

洞窟の上に煙の排出口が開いている。一酸化炭素中毒を防ぐ。右はボン教の石窟寺院。近年まで使われた形跡がある。

チョルテンが崩れて中が露出。芯の棒が新しく見える。右は平均的な岩窟。上下の穴は中で通じている。

グゲ時代(9世紀~17世紀)に建てられたと思われるチョルテン群。当然仏教ストゥーパであり、ボン教ではない。

西チベット、カン・リンポチェ(カイラス山)の西方100キロのランチェン・ツァンポ(サトレジ川)沿岸に、古代シャンシュン国の都キュンルン銀城らしき城砦の址がある。シャンシュン国(紀元前1000?~8世紀)は吐蕃以前に西チベットを中心に栄えた大国。ボン教発祥の地であり、ボン教徒にとって聖なる国だ。(クリックして拡大)

キュンルン銀城(上) Khyung lung dngul mkhar   宮本神酒男 → Map