ブルシャについて
宮本神酒男
ギルギット郊外のカルガーの大仏。ギルギット写本が発掘された丘から大仏が彫られた岩山を
見下ろす。足元には王宮があったナプル村。岩山の左右の道はチラース、ダレルへと通じる険
しいが重要な道。ここもブルシャの都の候補地。 地図:パキスタン北部
第1部 ボロールとブルシャ(ギルギット)
古代チベットの歴史を研究する者にとって、ブルシャは捉えることのできないシャボン玉のようなものだ。それは美しく、魅惑的だが、触ろうとした途端に、ふっとはじけて消えてしまう。
ブルシャはギルギット地区を指す地名である。ボン教徒は、吐蕃(ヤルルン朝)以前のチベットの古代大国、シャンシュンの版図を説明するとき、北端のホータン(現新疆ウイグル自治区)、東端のナチュ、南端のムスタン(ネパール)につづいて、西端はブルシャ(Bru zha)、すなわち現在のパキスタン北部ギルギットであったとするのがならわしとなっている。ブルシャはギルギット地区を指す古語で、なぜかチベット人だけがその旧名を記憶しているのだ。(ギルギットの西隣プニアルの王族はブルシェ氏と名乗った。ヤシンのフシュワクテ氏から分派したのは18世紀のこと)
ギルギットはギルギット写本の発掘が示すように、また慧超も記すように、仏教の中心地のひとつであったことは間違いない。作家のチャールズ・アレンが主張するように、フナ(白フン、またはエフテル)に圧迫されたガンダーラの仏教徒の避難先であったかもしれない。しかしそれにしてもチベット人、とくにボン教徒にとって特別な存在であるのはなぜなのだろうか。
チベットの有力古代部族のひとつブル氏(ドゥ氏)がブルシャ出身ということと、何か関係あるのだろうか。これについてはあとで詳しく検証したい。現在現地ではブルシャという呼び方は消滅してしまっている。唯一、フンザの主要な言語であるブルシャスキ語(Burushaski)という呼称のなかにその名残をとどめているにすぎない。
ブルシャスキ語を話す人々は、フンザ谷の2万人のほか、ナガル、ギルギット谷、ヤシンなどに分布している。とくにヤシン方言はより古い形態を残しているという。ギルギット谷の北西約100キロのヤシンは、現在のアフガニスタン東部のワハン地区からヒンドゥークシ山脈を越えて南下し、パキスタン側に入った地点に位置している。古代においては交易・交通の要衝であり、戦略的にきわめて重要だった。唐軍と吐蕃軍の戦いの主戦場でもあった。紀元前千年紀の列石サークル遺跡も残っている。ただしある時期から為政者はホーワル語を話す人々にかわっていた。
いっぽう現在のギルギット谷に住む人の大半はシナ語を話すシン人である。シナ語はインド・ヨーロッパ語族のダルド語(シナ語のほかホーワル語、カラシャ語などが含まれる)に属し、サンスクリット語やヒンディー語にやや類似するが、ブルシャスキ語とは文法も語彙もまったく異なっている。
文法はひとまず置き、ビッドゥルフの採集した語彙(とくに身体語)をもとに各語を比較し、指標を示したい。(採集した時期は古いが、昨年、それらを母語とする人々に発音してもらったところ、驚くほど正確なデータであることがわかった)
<Table1 身体語>
|
ブルシャスキ語 |
シナ語 |
ヒンディー語 |
目 |
ilchin |
achi |
ankh |
鼻 |
itumal |
kon |
kaan |
口 |
ikhat |
aiyn |
munh |
歯 |
ime |
don |
dat |
舌 |
yoomus |
jip |
jib |
耳 |
iltumal |
kon |
kaan |
頭 |
iyetiss |
shish |
sir |
髪 |
igoyiung |
jakur |
bal |
手 |
iring |
hut |
haath |
脚 |
bussin |
pataloo |
tang |
足 |
yootis |
pa |
pair |
|
ブルシャスキ語 |
シナ語 |
ヒンディー語 |
1 |
hun |
ek |
ek |
2 |
altats |
doo |
do |
3 |
usko |
che |
tin |
4 |
walto |
char |
char |
5 |
sundo |
poin |
panch |
6 |
mishindo |
sha |
chai |
7 |
tullo |
sut |
saat |
8 |
altambo |
atsh |
aath |
9 |
huncho |
now |
nau |
10 |
toromo |
daiy |
das |
「先住ギルギット人=ブルシャスキ語を話す人々=ブルシャ人」
とはいえシン人が古代からギルギットに住んでいた可能性も排除できない。
「先住ギルギット人=シナ語を話すシン人(ダルド人)=ブルシャ人」
であっても、なんら不思議ではない。ヘロドトスの記述から、2500年前、ダルド人の地域がアケメネス朝ペルシアの支配下に入ったことがわかっている。「古代ダルド人=現在のダルド語を話す人々」とはかならずしも言えないが、その可能性も少なからずあるだろう。
鍵を握るのは、シン語を話すシン人の分布である。彼らはギルギット谷のほか、パラス谷(Palas)からギルギット川と交わる地点にかけてのインダス川流域、イシュコマン谷(Ishkoman)、フンザ、そして飛び地だが、現インド領ラダックのダ・ハヌ(Dah Hanu)やドラス(Dras)などに分布している。この分布は古代ボロール国(アラブ語のBolor)の版図と重なり合う。
現在のバルチスタンとギルギットに広がっていたボロール国(中国史書上では勃律)は、7世紀末(一説に693年)、吐蕃に圧迫され、大小に分裂した。これは大勃律(バルチスタン)の王が小勃律(ギルギット)に逃亡し、居城を移したということらしい。ドラスやダ・ハヌのシン人(ブロクパ人)はギルギットから派遣されたおそらく屯田兵の子孫と考えられるが、もしかすると分裂前のボロール国の遺民なのかもしれない。
私がダ・ハヌで会った知識人は「よくわれわれが来たのは八百年前だとか言われるが、それよりもずっと前だ。二千年前だと思う」と語っていた。ボロール国の遺民だとすれば、それもありえない話ではない。
バルチスタンにどんな人々が住んでいたか、定説といえる論はないが、上述の考え方でいけば、ボロール国の主要民族はシン人(ダルド人)であったということになる。フックスによれば、吐蕃がバルチスタン(大勃律)を征服したのは678年だという。そして既述のように、693年頃にボロールは大小に分裂した。ただしジェットマルは、この時期にボロール王が使節を唐の朝廷に送っていることから、吐蕃はまだこの時点ではバルチスタンを征服していないと見ている。
中国の史書に記載された大ボロール国(バルチスタン)と小ボロール国(ギルギット)の国王の名を挙げ、年表を作成しよう。
年表
<大ボロール国(大勃律 バルチスタン)と小ボロール国(小勃律国 ギルギット)>
650年代 吐蕃王マンソン・マンツェン(在位650−679)小勃律の女を娶る
678年 この年以前に吐蕃、大勃律(バルチスタン)を征服
693年 勃律(ボロール)大小に分裂(?)
714年 吐蕃、小勃律に道を「借り」、中央アジアに進出。
717年 唐、蘇弗舎利支離泥(Su-fu-she-li-chih-li-ni)を大勃律王に封ず。
720年 大勃律王・蘇麟陀逸之(Su-lin-t’o-i-che)
722年 吐蕃、小勃律を攻めるも小勃律+唐軍に大敗。
小勃律王没謹忙(Mo-kin-mang)、北庭節度使に救助を求める。
723−729年 新羅の求法僧慧超が近くを通り、情勢を記述。
731年 小勃律王・難泥(Nan-ni)。一書には没謹忙。
734年 吐蕃、大勃律を破る。
737年 吐蕃、小勃律を破る。軍を率いたのはケェサン(sKyes bzang)
740年 小勃律王、吐蕃王の女(Khri-ma-lod)を娶る。
二十余国が吐蕃の支配下となる。
741年 小勃律王・麻来兮(Ma-lai-hsi)
742年 小勃律王・蘇失利之(Su-che-li-tche)
747年 唐・高仙芝、小勃律を破る。
753年 唐・封常清、大勃律を破る。
以上は中国の史書とチベット語の資料をもとに作成した年表である。これだけでは吐蕃に取られた大小勃律を747、753年に奪い返したまま終わっているかのようだが、少なくとも大勃律(バルチスタン)は長らくチベット人の支配下にあったはずである。それはバルチ語がチベット語の方言であること、各王がマクポン(チベット語で将軍の意)という称号を持つこと、ケサル王物語が流布していることなどからもあきらかである。
石碑や現地の伝承などをもとにすると、異なる王の名前が出てくる。
まず、ハシュマトゥッラー(Hashmatullah)説。ギルギットの王はアガルタム(Agartham)だった。ある年、バルチスタンのラムコイ(Lamkoi)から来たアブドガモ(Abudgamo)によって殺される。新王アブドガモが死ぬと、子のスリ・バガルタム(Sri Bagartham)が後を継いだ。その数世代のち、スリ・バダト(Sri
Badat)が王座に登った。この王朝はシャー・ライス(Shah Rais)と呼ばれる。居城はギルギットの南の丘の上に造られた。彼らは仏教徒だった。
もしこれが正しいとするなら、中国の史書は「勃律は大小に分裂した」としているが、実際はバルチスタンのアブドガモがギルギットに侵攻したということである。彼らの居城がギルギットの南部にあったということは、おそらくカルガーの大仏の近くであり、まさにギルギット写本が発見された場所にほかならない。さて、ということは元の王アガルタムがブルシャ人で、攻めてきたアブドガモ父子がシン人なのだろうか。この説明がもっともらしいように思える。また彼らが仏教徒であることも重要だ。新羅僧慧超は彼らが仏教徒であると述べているのだ。
つぎにロリマー(Lorimer)説。彼によるとギルギットの最初の王はキセル(Kiser)あるいはギセル(Giser)。その子がバガルタム。その子がアグル・タム(Agur Tham)。その子がスリ・バダトだという。こんなエピソードがある。アグル・タムは、ギルギット川中州の巨岩の上に鉄の城を築き、愛娘をそのなかに閉じ込めた。それゆえいまでも人々はその巨岩を「アグル・タムの岩」と呼ぶという。
シャー・ライス・ハーン(Shah Rais Khan)によると、キセルはラダック王の息子だという。キセルはギルギットを攻略すると、その子バガルタムを王に据えた。バガルタムの子がアガルタム、その子がシリ・バダドである。
石刻や石碑などから、ギルギットのパトーラ・シャヒ(Patola Shahi)、すなわちギルギット王のいくつかの名前が知られる。最初の名がヴァジュラディティヤナンディ(Vajradityanandi)。詳細は省くが、ヴァジュラディティとバガルタムは同一であろうと考えられている。また王はすべてヴィクラマディティヤ(Vikramaditya)という称号を持っている。これもアガルタムと同一だろう。
フンザの石刻から、チャンドラ・スリ・デーヴァ・ヴィクラマディティヤ(Chandra Sri Deva Vikramaditya)という名前が得られるが、これはスリ・バダドのことであろうと考えられる。この名が彫られたのは、749年だという。
シャー・ライス・ハーン説にのみラダックが出てくる。ラダックがバルチスタンの一部であったとすると、キセルはチベット人かあるいはチベットの影響を受けたダルド系バルチ人だった可能性がある。キセルはケサル王のケサルと同一かもしれない。年表を見ると、737年頃から唐軍の攻撃を受ける747年頃のあいだは、確実にチベットあるいはチベット支配下のバルチスタンがギルギットをコントロールしていた。この時期にカルガーの大仏も生まれたのではないだろうか。
現在もバルチスタンのバルチ語がチベット語の方言であるのと比べ、ギルギットではシナ語などが話され、チベットの影響は磨崖仏以外、まったく見られない。それではなぜボン教徒はブルシャを重要視するのだろうか。おそらくバルチスタンから侵略者が来る前、ギルギットにいたブルシャスキ語を話すブルシャ人が仏教以外の宗教を信仰し、それがボン教に影響を与えたのである。
ではブルシャ人の宗教とは何か?
1)ヒンドゥー教 2)ゾロアスター教 3)シャーマニズム的な民間宗教
このどれかだろうと思う。ゾロアスター教がボン教に与えた影響がどれほどのものであったかを考えれば、ゾロアスター教が正解でもいいような気がする。ボン教徒によれば、ボン教開祖シェンラブ・ミボはタジク(ペルシア)のオルモルンリンに生まれたのだ。別項で述べたように、ボン教文化にはペルシア的要素がふんだんにある。そもそもこの地域はしばしばペルシア帝国の版図に組み入れられており、ゾロアスター教が存在して当然だった。
しかしボン教にはヒンドゥー教の要素、とくにシヴァ崇拝の影響も少なからず見られる。ギルギットのバラモンからとくに祭儀の方法などがシャンシュンに伝えられたのかもしれない。
またギルギットのシャーマニズムも見過ごすことはできない。イスラム化した現在にいたるまで、ギルギット地区のナガルにはシャーマニズムの伝統が根強く残っている。
ブルシャ人の宗教がこのどれであろうと、ボン教に強い影響を与えたのはまちがいない。だからこそチベット人、とりわけボン教徒はギルギットをブルシャと呼び続けるのだ。8世紀は大小のボロール国で仏教が隆盛した。しかしそれはあくまで支配者層の話であり、庶民はこの三つの宗教のどれか、あるいは三つとも信仰していたのではなかろうか。
さて、三つの宗教と書いてきたが、やはりブルシャ人の宗教候補に
4)ボン教
を加えるべきだろう。民間宗教というより、ボン教の原形のようなものがあった可能性は捨てきれない。いかなる場所でもそうだが、ひとつの宗教が独占的であるとはかぎらないのだ。
フンジュラブ峠からフンザ、ギルギット、チラースへとつづく道は文明の十字路である。さまざまな岩絵が残されていて、岩に刻まれた文字も、カローシュティー文字やブラフミー文字のほかソグド文字や漢字、ヘブライ文字までもが確認されている。この地域は民族の坩堝であり、宗教の坩堝といっても過言ではない。
冒頭で述べたようにボン教の伝承によれば、シャンシュン国の西端はギルギットであり、北端はホータンと考えられていた。じつはバルチスタンとホータンは意外と至近距離にあった。バルチスタンとヤルカンド(ホータンの西方)はムズタグ峠、ラダック(バルチスタンの東)とホータンはカラコルム峠によってダイレクトにつながっていた。ボン教が伝播するのはそれほど困難ではない。
バルチスタンにはいまもボンデバと呼ばれる人々がいる。彼らは現在こそイスラム教徒だが、かつてはボン教徒であったともいう。おなじボロールであり、シャンシュンにも属したというギルギットにもボンデバはいたと考えられる。仏教到来以前にボン教はすでにこの地に普及していただろう。そのボン教は土着化したゾロアスター教だったかもしれないが……。
上述のように古代部族のブル氏(ドゥ氏)はこのブルシャ(ギルギット)から来たという伝承をもつ。また歴史上何人かのボン教僧はブルシャを訪ねてもいる。こうしたシャンシュンやチベットとブルシャの関係については、第2部で論じていきたい。
<付記>
シン人の源流について考えるとき、避けて通れない問題点がある。彼らが北から来たのか、南から来たのか、という点だ。上述のように彼らのシナ語はヒンディー語と似ている。ダ・ハヌで語彙の聞き取りをしているとき、青年は「ヒンディーと似ているでしょう? 古代サンスクリットですよ」と語った。
もし中央アジアからインドへアーリア民族が侵入ないしは移動したのなら(それは長い間定説とされてきた)彼らはその途中でこの地にとどまった人々と解釈されるだろう。しかし別項で紹介したように、アーリア人侵入説は成立しがたく、ヴェーダの人々はこれまで考えてきた以上に古くからインドにいた可能性が高い。そうするとシン人はかなり古い時代にインド平原からやってきたと考えたほうが合理的である。
とはいえ、実際シン人を見ると、コーカソイドの顔立ちが多いのに驚かされる。おなじ言語グループに分類されるホーワル語(Khowar)、カラシャ語(Kalasha)、マイヤン語(Maiyan)を話す人々も同様なのである。
イラン語の一種のワヒ語(Wakhi)を話す人々もコーカソイドの顔立ちをしていて、ときどき西洋人かと思わせる顔の人もいる。彼らはアフガニスタンのワハンからわりあい近年、といっても百年以上前にやってきた。
イラン系言語とインド系言語はおなじインド・ヨーロッパ語族とはいえ、はっきりと分けることができる。このあたりのことを考えると、解けないパズルに挑んでいるような気分になる。
さらに混乱をきたすのがフンザに住むドマーキ語を話す超少数民族ドマ人(ベリチョ人)の存在だ。彼らはドムと呼ばれるインドの低カーストとおそらく同一で、ヨーロッパのジプシーの源流である可能性が高い。もしそうだとすれば、彼らが移動を開始したのは千年くらい前のことだろう。
このように考えると、ブルシャスキ語はさらに長い歴史のなかでどういう位置にあったのか、ますますわからなくなってしまう。ブルシャスキ語を話す人々は、先住民といえるほど長くギルギット地区にいるのだろうか。そうだとすると、やはり歴史の長いシャンシュン国の人々がこの地方をブルシャと呼び始めたのも遠い古代のことになるだろう。
⇒ 第2部 ブルシャ秘史
第3部 ブル氏とブルシャ(上)
ブル氏とブルシャ(下)