ラダックの短編小説 

アブドゥル・ガニー・シャイフ 『見捨てられた天国』 
                                    宮本神酒男編訳 

短編1  
短編2 真の肖像画 
短編3 名前 
短編4 見捨てられた天国 

ラダック、スタクナ寺 

アブドゥル・ガニー・シャイフ1936− 78歳)

インド北西部ラダック出身の(ウルドゥー語で書く)作家、歴史家、ジャーナリスト。これまで17冊の本を書き、14冊が出版されたという。短編の名手として知られる。

短編のアンソロジーとしては「Zojila Ke Aar Paar」「Dorahaなどがあり、この『見捨てられた天国』は英訳短編集(訳者はラヴィナ・アガルワル)である。

アブドゥルは幼少の頃からラダックの歴史に興味を持っていた。当時、ラダック史を扱った本はA・H・フランケの『西チベット史』とハシュマット・ウッラー・ハーンの歴史の本くらいのものだった。資料を得るため、彼はスリナガルのリサーチセンターで(コピー機がなかったので)30から50冊の本を書写した。また歴史家でもあったモラヴィアン教会のS・S・ガーガンからラダック史を学んだ。

 彼が歴史に興味を持ったのは、アルゴン部族に属することと無関係ではないだろう。アルゴンは、中印紛争がはじまるまで、カシュガル、ヤルカンド(中国新疆)とレー、スリナガルの間の交易を担った人々だった。アブドゥルの祖先はスリナガル在住の仏教徒であったらしい。彼の家族の歴史はラダックの複雑な歴史を反映しているのだ。

 十年近く前、ラダックの都レーのバックパッカーが集まる安ホテル街の奥にある民宿風のホテルを訪ねたことがある。その経営者が、ホテル・オーナーというのは表向きの顔で(いやどれが表か裏かわからないけれど)じつは作家であり、歴史家でもあると聞かされたからだ。その名は書店主から聞いたばかりで、アブドゥル・ガニーといった。

ホテルの中庭に入ると、庭いじりをしている初老の男性が作業中の手を休めることなく、顔を上げて「オーナーは留守だ」と短く答えた。私は直感的に、この男性こそアブドゥル・ガニーではないかと思った。

いまネットで画像を見て、あらためて本人だったのではないかと確信を持っている。おそらく「あなたの小説を読みました」などと言ってくる外国人に対応するのが面倒だと思ったのだろう。私のほうは私のほうでまだ読んでもいないのに作者本人と会うのも気が進まなかったので、しっかり読んで、後日出直してホテルに宿泊しながらいろいろと話を聞こうと思った。ところが不幸なことに、それ以来ラダックに行く機会が訪れず、会えないまま今日に至っている。

 アブドゥル・ガニーは1936年3月6日、レーに生まれた。つまり今度の誕生日で79歳になる。9歳や10歳という多感な少年の頃、第2次大戦の収束やインド独立を経験し、その直後には、パキスタン分離という途方もなく大きな歴史的事件が間近で起きていた。

ラダックは民族の坩堝(るつぼ)ではないにしても、歴史的事件の坩堝(るつぼ)といえるほど、複雑でときには困難な問題をかかえた地域だった。とくに近年はイスラム教徒の多さが問題をこじらせることがあった。仏教遺跡が近くにあるヒンドゥー教の聖地ヴァラナシ(ベナレス)が典型的な例だが、住民の半数がイスラム教徒なのに、まるでヒンドゥー教徒や仏教徒だけが住んでいるかのような印象を持たれていた。

 私がはじめてラダックを知ったのは藤原新也の『西蔵(チベット)放浪』だった。だれがなんと言おうとこの本はわがバイブルであり(ほかに『印度放浪』や『台湾、香港、韓国 逍遥遊記』もバイブル)その表現力のすばらしさは、芥川賞作家の作品が束になってかかってもかなわない、と確信をもって言えるほど好きである。この本によってラダックにあこがれを抱き、実際訪ねると、想像以上に生のラダックは美しかった。

 しかし同時に「ラダックなのにチベット放浪というのはおかしいのではないか、ラダック放浪とすべきではないか」と思ったのも事実である。ではあるが、チベット文化圏であることに違いはなく、穹窿に突き刺すようにそびえる寺院などチベット的風景は言葉を絶するほど感動的で、またかつては中央アジアまで版図を広げた「チベット帝国」の一部であり、中央チベットに入りにくい19世紀頃は、数多くの西欧人の探検家や旅行家がこの「小チベット」をめざしたのである。

 しかし1381年、ミール・サイード・アリ・ハムダニが、レーの南方のシェイにモスクを建てて以来、イスラム教徒も少数ながら住んでいた。イスラム教徒の数が多いのは、あくまで近年の現象ではあるが。

 アブドゥルの『名前』という短編を読んでほしい。はじめて会った男は、主人公が仏教徒と思ったのか、イスラム教徒の悪口を並べ立てる。ラダックでは、宗教が特定できるような服を着ない限り、イスラム教徒か仏教徒かヒンドゥー教徒かを見分けるのはむつかしい。

 私も90年代、こんな経験をしたことがある。よく遊びに行ったゲストハウスの経営者一族はチベット人の顔立ちをしていたが、よく見るとみな茶色の瞳をもっていた。(主人はNHKのドキュメンタリー『死者の書』で「死体役」を演じた!)彼らの目はウイグル人のようだったけど、もちろんチベット仏教徒だった。自分のゲストハウスに戻ると、主人は典型的なチベット人顔をしているので、何日もずっとチベット仏教徒だと思って私は話をしていた。しかしあるとき、彼は話すタイミングをはかっていたのか、申し訳なさそうに「私はムスリムだ」とぽつりと言った。見かけでは何教徒か、なかなかわからないのである。

 西欧人が書いたラダック探検や旅行記、歴史書などは、ほとんどが英文だが、何冊も読んできた。明治期の日本に来たことで知られるイザベラ・バードも(『イザベラ・バードの日本紀行』)、じつはチベットを探検しているのだが、そのチベットとはラダックのことだった。『世界の屋根裏で』でラダック探検を書いたヘンリエッタ・サンズ・メリックもラダックを訪ねた女性だった。チベットに侵攻したことのあるヤングハズバンド卿はカシミールに長期滞在したが、ラダックにも縁が深かった。変わりどころでは、イエス・キリストがインドにやってきてヨーガを学んだという荒唐無稽なことが書かれた古文書が発見(?)されたのもラダックの仏教僧院である。

 こういった本はもちろん面白いのだけど、ラダックに生まれ育った人の観点から書かれたものは、そう多くはなかった。しかもアブドゥル・ガニーはたんにラダックに生まれ育っただけでなく、イスラム教徒であり、チベット仏教徒の視点以外の見方が示され、いっそう興味深いのである。