チョマ・ド・ケレシュ伝 解説  宮本神酒男 

 


チベット学の祖と呼ばれるハンガリー人、チョマ・ド・ケレシュ。 

17言語を修得したという小さな(身長150cm)知の巨人は 

ハンガリー人の原郷は中央アジアにあると考え、手がかり探しの冒険の旅に出た。 

隊商とともに中東の砂漠を歩き、山々を越え、一度はブハラに達する。

そのあとアフガニスタンからインドに入ると、ヤルカンドめざして北上した。 

しかし手前のヒマラヤで待っていたのは、チベットとの運命的な出会いだった。 

→ チョマの旅のルート(MAP)  

→          10 11 


 チョマ・ド・ケレシュ(1784−1842 シャンドル・クルシ・チョマ)という名は世間でどのくらい知られているだろうか。

 まず、過去の自分に聞いてみよ。そう、この特殊な人物名を知っているのは、チベットに興味を持つ人のなかでもごく一部だろうから、そんな問いかけをするよりも、まず自分がいつ知ったか記憶をほどいてみるべきだと思うのだ。

 いまから20年前、ラサを訪れたとき、生活改善要求のデモが起こり、それに参加した疑いを持たれて私は公安に拘束され、国外退去処分を受けた。奇妙なことだが、これをきっかけにチベットのこと、とくに歴史に興味を持ち、自学ではあるが、学び始めた。その頃購入した本の一冊が、日本人にとってチベット学の古典ともいうべき山口瑞鳳著『チベット』であり、そのときにはじめて、チョマ・ド・ケレシュの名に触れた可能性が大きい。(この本ではケレシ・チョーマ・シャンドル、英語風にアレキサンダー・チョーマ・ド・ケレスと表記されている) 

 あらためて『チベット』の該当箇所を見ると、読んだはずなのに、ほとんど何も覚えていないことに気づく。チョマという名前がそもそも覚えにくくて(アルファベットでつづるといっそうわかりづらく、表記法も複数存在する)何か抵抗感があったのかもしれない。それに辞書や文法書の編纂者なんて、おそらく法律の本のような堅物に違いないと当時は思ったのかもしれない。

 しかも二百年前の東ヨーロッパ人である。価値観も異なるだろうし、何ら面白いエピソードもないだろう、と当時の私は決めつけた。しかし逆に考えるべきだったといまは思う。日本はまだ武士の時代で、江戸幕府勤務のサラリーマンはみなチョンマゲを結っていた。チョマがチベット語辞典を仕上げた頃、日本では老中水野忠邦(17941851)が主導して、天保の改革(18301843)が遂行されていた。

 日本が鎖国政策のおかげで、外国のことを考えなくてよかった頃、ハプスブルク家のオーストリア帝国領トランシルバニア(現ルーマニア)のセーケイ人(ハンガリー人の一支)の農家の子として生まれたチョマは、将来神父となるべく学寮(カレッジ)に入るが、在籍中にいつか中央アジアへ行って、ハンガリー人の祖先をつきとめたいと夢想するようになる。その鍵を握ると彼が考えたのは、ウイグル人だった。

 私自身、トランシルバニアのブラン城(いわゆるドラキュラ城)を訪ねたことがあるが、この地方にチョマが生まれたということを意識したことはなかった。ハンガリー人の起源は謎めいているが(フン族のアッティラは祖先なのか?)、セーケイ人の起源は輪をかけて謎めいているのだ。私はたまたまエドモンド・ボルドー・セーケイ(19051979)というその名の通り、セーケイ人文献学者の偽書(?)の英訳『エッセネ派の平和のゴスペル』(未訳)を愛読していたので、セーケイ人には興味を持っていた。しかもあとがきを読むと、このエドモンド・ボルドー・セーケイはなんとチョマ・ド・ケレシュの子孫(おなじ一族ということなのだろうか)なのである。

 チョマの生涯の目標は、中央アジアに行ってハンガリー人の祖先を探すことだった。それゆえ当初はロシアから中央アジアへ入るプランを立てた。ヒマラヤやチベットを越えて入るよりも、レーリヒのように(もちろんレーリヒはロシア人画家なので当然だが)ロシアから入るほうが簡単なのだ。もしこのルートを取っていたら、チョマとチベットの出会いはなかったかもしれない。

 しかし当時の政治情勢が許さず、結局は船に乗って川を下り、コンスタンティノープル(イスタンブール)から入ることにした。ところがここで疫病が流行っていたため、地中海を渡ってエジプトをめざす。しかしエジプトでも疫病が流行っていたため、キプロス島を経由してシリアに上陸する。そこから隊商とともに砂漠を歩き、現在のイラクのモスルにたどりつき、そこから山を越えてペルシア、いったんは中央アジアのブハラへ行き、南方に戻ってくると、インドへと進んだ。インドに来るまでに、すでにチョマは冒険家チョマとなっていたのである。

 チョマは、ラダックでヤルカンドへ行く隊商に参加しようとしたが、不首尾に終わる。数十年後にこの峠を越えたヤングハズバンドによれば、この峠は難所中の難所であり、もし隊商を見つけたとしても、無事にヤルカンドへ行けていたかどうかはわからない。

 話を2000年代の私自身のことに移したい。以前、観光パンフに載っていた写真を見て以来、ザンスカル地方の断崖絶壁の洞窟寺院、プクタル寺にあこがれを持っていたが、この時期にようやく行くことができた。この寺院で私はチョマ・ド・ケレシュの名が刻まれたプレートを発見し、ここにチョマが来たことを知って驚いた。実際ここに1年間滞在したのである。しかしチベット学史上もっとも重要なのは、それ以前に滞在したザンラである。私はプクタル寺からさほど遠くないザンラに行き、ザンラ王夫妻と会ったことがある。チョマがこのザンラの寺院の小部屋にプンツォグとともに閉じこもってチベット語を勉強した16か月は、チベット学の輝かしい曙となったのである。

 ザンラとともにチョマがチベット語を学んだ重要な場所は、キナウル地方のカヌムである。2000年代に私は頻繁にキナウル地方を訪ねているが、ヒマチャルプラデシュ大学のV・S・ネギ氏の郷里の隣村であり、この地域は私にとってもなじみ深い。チョマがはじめてカヌムに来たとき、村人の半分がヒンドゥー教徒で、半分がチベット人であることに驚く。この傾向はいまでもあり、上キナウルはチベット仏教徒、下キナウルはヒンドゥー教徒、中キナウルはその中間、あるいは混交と考えるとわかりやすい(近年ボン教徒も増えている)。

 ついでに付け加えておくと、ザンラの学習期を終え、翌年学習を再開するために、パートナーのラマ・プンツォグを待った場所がクル谷のスルタンプールだった。プンツォグの別邸か親戚の家があったようである。スルタンプールはクルのバス・ステーションの北側一帯の村(現在は町)である。私はクル近郊の民家に滞在することが多かったので、チョマが滞在したことがあるというだけで、身近に感じることができた。私はスルタンプールで90歳のインド人歴史家と会ったことがある。

 私はこうして知らず知らずのうちにチョマとゆかりのある場所を訪ねるようになっていたのだが、フォックスのチョマ伝を読むまで、大きな勘違いをしていた。チョマはガタイの大きい、いかにも冒険者風のヨーロッパ人と思い込んでいたが、じつは身長150センチの小男だった。ナイナイの岡村より低く、猫ひろしより高く、トウ小平とおなじくらいなのである。それまで描いていた白人冒険野郎のイメージは何だったのか。

しかし冒険者の像が瓦解すると、逆に、この小さな体で過酷な旅を敢行したのは、信じられないわざのように思えてくる。隊商(キャラバン)とともにシリアやイラクの砂漠を歩き(ラクダには乗らないで歩いた)、いくつもの雪をいだいた山脈を越えたこと自体が奇跡のようなものではないか。

 もちろん奇跡といえば、チョマの言語能力自体が奇跡といえる。最後に学んだサンスクリット語やベンガル語まで含めれば、17の言語を修得しているのである。中東を旅するときも、ひそかに修得したアラブ語が役に立ったはずだし、ペルシアやインドではペルシア語が役に立った。ロシアに行っていたなら、スラブ語が役に立っていただろう。東インド会社の考古学者がチョマに一目置いたのも、彼が書いたラテン語の手紙の質が高かったからである。

 ひとつの言語を修得するのに、まず2か月ほどはその言語に浸り、感覚的にその言語と親しくなる。チベット語もこのようにして身につけ、最後には辞書や文法書を編纂するにいたるのである。日本にも故・石井米雄という多言語を修得した天才がいたが、一定期間はひとつの言語に集中すべきだという趣旨のことを述べている。

 チョマが相当に変人であったことはまちがいない。フォックスは彼が自己愛パーソナリティー障害だったのではないかと推測している。もしそうした障害があったとしても、そこからチベット学の基礎が生まれたのなら、障害を克服し、それをポジティブに変換したという意味で、画期的であり、意味深いことだと思う。

 かえすがえすも残念なのは、カルカッタを出て、ダージリンにいたる寸前にマラリアにかかって帰らぬ人となってしまったことだ。砂漠やヒマラヤの高地を歩くことができるのに、小さな蚊が媒介する病気のために命を落とすとは、なんという皮肉だろうか。もし元気なら、シッキムからチベットに入り、ラサでダライラマか政府高官と会っていただろう。念願の中央アジア(ヤルカンド)に行く前に、チベットに数年間滞在することになっていたかもしれない。もしかするとゲシェ(博士)の位を取り、この神父をめざしていたセーケイ人は、リンポチェと呼ばれるほどの高僧になっていたかもしれない。

⇒ 本文