天国まで歩いた男  解説  宮本神酒男 

チョーマ・ド・ケレシュ伝 チベット学の基礎を築いたハンガリー人の数奇な運命 
エドワード・フォックス著 宮本神酒男訳 


チベット学の祖と呼ばれるハンガリー人、チョーマ・ド・ケレシュ。 

17言語を修得した並はずれた 

小さな(身長150cm)知の巨人は 

ハンガリー人の原郷は中央アジアにあると考え、手がかり探しの冒険の旅に出た。 

隊商とともに中東の砂漠を歩き、山々を越え、ブハラ(現ウズベキスタン)に達したあと 

アフガニスタンをへてインドに入り、ヤルカンド(現中国新疆)めざして北上した。 

しかし手前のヒマラヤで待っていたのは、チベットとの運命的な出会いだった。 


→ チョマの旅のルート(MAP)  


 知られざる天才といえば、たとえばエジソンのライバル、ニコラ・テスラやダーウィンのライバル、アルフレッド・ウォレスが思い浮かぶしかしハリウッド映画やテレビ番組に取り上げられ、著名な企業にその名が使われるテスラや、『マレー諸島』が現在も読まれ、進化論を「盗まれた」男として知られるウォレスは、じっさい「知られざる」とは言い難い。
 それに対し、チョーマ・ド・ケレシュ(1784−1842 シャンドル・クルシ・チョマ)は17言語を習得したという語学においてはだれもが認める天才であり、チベット学を築き上げた先駆者でありながら、母国ハンガリーとチベット学研究者をのぞけばほとんど無名である。大学者が世間一般に知られていないことはよくあることだが、彼の生涯は「事実は小説よりも奇なり」を地で行く波乱万丈の、かつ冒険者のそれだった。
*比較対象とすべきはキリスト教宣教師たちかもしれない。日本語の最初の辞書もロドリゲスらポルトガル人宣教師によって編纂された。私になじみある中国西南においても、リス族やミャオ族、ラフ族など少数民族の言語が宣教師らによって研究されている。日本語でさえ容易ではないのに、言語資料がほとんどないマイナーな言語を習得するのは並大抵の努力では足りなかっただろう。マテオ・リッチの「記憶の宮殿」のような記憶術をチョーマが持っていたかどうかはさだかでない。

 チョーマはおよそ二百年前の東ヨーロッパ人である。彼がインドでチベット語辞典を仕上げた頃、日本は江戸時代後期にあたり、大塩平八郎の乱(1837)が起こって世の不安がつのり、幕府の財政が悪化するなか、老中水野忠邦(17941851)が主導する天保の改革(18301843)が遂行されていた。

 日本が鎖国政策を維持し、外国の脅威をそれほど真剣に考えていなかった頃、ハプスブルク家のオーストリア帝国領トランシルバニア(現ルーマニア)のセーケイ人(ハンガリー人の一支)の農家の子として生まれたチョーマは、将来聖職者となるべく学寮(カレッジ)に入った。この頃、ハンガリーは独立した国家ではなかったが、民族の自意識のようなものが芽生え始めた時期でもあった。彼は在籍中に、いつか中央アジアへ行ってハンガリー人の祖先をつきとめたいと夢想するようになる。その鍵を握ると彼が考えたのは、ウイグル人だった。当時彼の頭の中にあったのはこのテュルク系の人々であり、チベット人ではなかった。

 ハンガリー人の起源は謎めいていた。周辺の他民族と言語も文化も大きく異なっていた。かの有名な五世紀のフン族の大王アッティラが祖先かどうか、決定的なことはわかっていなかった。セーケイ人の起源は輪をかけて謎めいていた。*私がセーケイ人に興味を持ったきっかけは、エドモンド・ボルドー・セーケイ(19051979)というその名の通り、セーケイ人文献学者が訳した偽書と思われる『エッセネ派の平和の福音書』を読んだことである。あとがきによると、このエドモンド・ボルドー・セーケイはチョーマ・ド・ケレシュの子孫だという。

 チョーマの時代からおよそ二百年が経過したが、ハンガリー人のルーツの謎が解明されたわけではない。むしろ成り立ちが複雑で、「〇〇から来た」といった単純な解答が存在しないことがわかってきたのである。しかし、もし体内の遺伝子が中央アジアに望郷の念を覚えるとするなら、それは5世紀のフン族、6世紀のアヴァ―ル人など、多数のテュルク人がこの地域に流れ込んできたからだろう。現在も、トルコから中央アジア(トルクメニスタンやウズベキスタン、キルギスタン、カザフスタン)にかけて、テュルク系民族の国々が帯状に連なっているのだ。

 以前、トルコから来日していたイスタンブール在住の芸術家夫婦に聞いたところ、ウイグル人(トルコには亡命ウイグル人が5万人くらい住んでいる)との会話はなんとか成立するという。テュルク語族同士であれば、ぎりぎり相互理解が可能ということである。トルコ語と違い、ハンガリー人が話すマジャール語はテュルク語族ではないゆえ、祖先はウイグル人などのテュルク語系民族ではないということになってしまう。ただし文法的には膠着語であり、そのあたりはテュルク語族の名残と言えなくもない。

 ハンガリー人の祖先探しを実行するにあたり、チョーマは当初、ロシアから中央アジアへ入るプランを立てた。ヒマラヤやチベットを越えて入るよりも、神秘画家ニコライ・リョーリフ(レーリヒ)のようにロシアから入るほうが簡単だった。もちろんリョーリフはロシア人なので、ロシア・ルートを取るのは当然だった。もしこのルートを取っていたら、チョマとチベットの出会いはなかっただろう。

 しかし当時の政治情勢が許さず、結局は船に乗って川を下り、コンスタンティノープル(イスタンブール)から入ることにした。ところがここで疫病が流行っていたため、地中海を渡ってエジプトをめざした。しかしエジプトでも疫病が流行っていたため、キプロス島を経由してシリアに上陸した。そこから隊商とともに砂漠を歩き、現在のイラクのモスルにたどりつき、そこから山を越えてペルシア、いったんは中央アジアのブハラへ行き、そのあと南方に戻ってくると、アフガニスタンをへてインドへと進んだ。インドに来るまでに、すでにチョーマは冒険家チョーマとなっていたのである。

 チョーマは、ラダックでヤルカンドへ行く隊商に参加しようとしたが、不首尾に終わる。数十年後にこの峠を越えたヤングハズバンドによれば、この峠は難所中の難所であり、もし隊商を見つけたとしても、無事にヤルカンドへ行けていたかどうかはわからない。

 話を2000年代の私自身のことに移したい。以前、観光パンフレットに載っていた写真を見て以来、インド北部ザンスカル地方の断崖絶壁の洞窟寺院、プクタル寺(チベット仏教)にあこがれを持っていたが、この時期にようやく行くことができた。この寺院で私はチョーマ・ド・ケレシュの名が刻まれたプレートが保管されていることを知り、ここにチョーマが来たことを知って驚いた。実際ここに1年間滞在したのである。しかしチベット学史上もっとも重要な場所は、それ以前に滞在したザンラ(ザンスカル地方)である。私はプクタル寺からさほど遠くないザンラに行き、ザンラ王夫妻と会った。チョマがこのザンラの寺院の小部屋にプンツォグとともに閉じこもってチベット語を勉強した16か月は、チベット学の輝かしい曙となったのである。

 ザンラとともにチョーマがチベット語を学んだ重要な場所は、インド北部キナウル地方のカヌムである。2000年代に私は頻繁にキナウル地方を訪ねているが、ヒマチャルプラデーシュ大学のV・S・ネギ氏の郷里の隣村であり、この地域は私にとってもなじみ深い。チョマがはじめてカヌムに来たとき、村人の半分がヒンドゥー教徒で、半分がチベット仏教徒であることに驚いた。この傾向はいまでもあり、上キナウルはチベット仏教徒、下キナウルはヒンドゥー教徒、中キナウルはその中間、あるいは混交と考えるとわかりやすい(近年ボン教徒も増えている)。

 ついでに付け加えておくと、ザンラの学習期を終え、翌年学習を再開するために、パートナーのラマ・プンツォグを待った場所がクル谷のスルタンプールだった。プンツォグの別邸か親戚の家があったようである。スルタンプールはクルのバス・ステーションの北側一帯の村(現在は町)である。私はクル近郊の民家に滞在することが多かったので、チョーマが滞在したことがあるというだけで、身近に感じることができた。私はスルタンプールで古代サラスワティ文明を唱えた90歳のインド人歴史家と会ったことがあるが、当時私はまだチョーマ・ド・ケレシュについてそれほど詳しくなかった。

 私はこうして知らず知らずのうちにチョーマとゆかりのある場所を訪ね歩いていた。しかしフォックスのチョーマ伝を読むまで、大きな勘違いをしていた。チョーマはガタイの大きい、いかにも冒険者風の登山家メスナーのようなヨーロッパ人と思い込んでいたが、じつは身長150センチの小男だった。ナイナイの岡村より低く、猫ひろしより高く、ケ小平とおなじくらいなのである。それまで描いていた白人冒険野郎のイメージは崩れ落ちた。

冒険者像が瓦解すると、逆に、この小さな体で過酷な旅を敢行したのは、信じられないわざのように思えてくるのだった。隊商(キャラバン)とともに、シリアやイラクの砂漠を歩き(ラクダには乗らないで歩いた、いくつもの雪をいだいた山脈を越えたこと自体が奇跡のようなものではないか。

 奇跡といえば、チョーマの言語能力自体が奇跡といえた。最後に学んだサンスクリット語やベンガル語まで含めれば、17の言語を修得しているのである。中東を旅するときも、ひそかに修得したアラブ語が役に立ったはずだし、ペルシアやインドではペルシア語が役に立った。ロシアに行っていたなら、スラブ語が役に立っていただろう。東インド会社の考古学者がチョーマに一目置いたのも、彼が書いたラテン語の手紙の質が高かったからである。

 ひとつの言語を修得するのに、まず2か月ほどはその言語に浸り、感覚的にその言語と親しくなる。チベット語もこのようにして身につけ、最後には辞書や文法書を編纂するにいたるのである。日本にも故・石井米雄という多言語を修得した天才がいたが、一定期間はひとつの言語に集中すべきだという趣旨のことを述べている。

 チョーマが相当に変人であったことはまちがいない。フォックスは彼が自己愛パーソナリティー障害だったのではないかと推測している。もしそうした障害があったとしても、そこからチベット学の基礎が生まれたのなら、障害を克服し、それをポジティブに変換したという意味で、画期的であり、意味深いことだと思う。

 かえすがえすも残念なのは、カルカッタを出て、ダージリンにいたる寸前にマラリアにかかって帰らぬ人となってしまったことだ。砂漠やヒマラヤの高地を歩くことができるのに、一匹の小さな蚊が媒介する病気のために命を落とすとは、なんという皮肉だろうか。もし元気なら、シッキムからチベットに入り、ラサでダライラマか政府高官と会っていただろう。念願の中央アジア(ヤルカンド)に行く前に、チベットに数年間滞在することになっていたかもしれない。もしかするとゲシェ(博士)の位を取り、このキリスト教の聖職者をめざしていたセーケイ人は、リンポチェと呼ばれるほどのチベット仏教の高僧になっていたかもしれない。

 考えてみれば、ハンガリー人のルーツを探るという本来の目的はまったく達していない。もしヤルカンドに行くことができていたら、彼はどんな「発見」をしていただろうか。人類史を変える発見をしていたかもしれないと私は夢想してしまう。しかしそれ以上にありえるのは、またあらたな冒険物語が生まれていただろうということである。


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同郷の画家が盗み見しながら描いた小柄の知の巨人、チョーマ・ド・ケレシュ(1784−1842)の肖像。冒険家なみの波乱万丈の人生を送ったが、表情からは簡単には屈しない気むつかしい性格がうかがえる。ハンガリー人のルーツを探す旅に出たはずだが、運命の荒波にもまれ、気づいたらチベット学の祖となっていた 

 
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チョーマが滞在したザンラの寺院(インド北部) 
Photo:Mikio Miyamoto


プクタル寺院の洞窟下の部屋にも滞在(インド北部) 
Photo:Mikio Miyamoto