チョーマ・ド・ケレシュ伝(シャンドル・クルシ・チョマ伝) 
天国まで歩いた男 チベット学の基礎を築いたハンガリー人 

エドワード・フォックス 宮本神酒男訳  → 解説 
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1 同郷の肖像画家、最後の旅に出る前のチョーマと会う 

 1842年、インド中を旅して回っていたハンガリー人画家は、カルカッタに到着すると、同国人というよしみでひとりの人物と会うことになった。画家は自分が会おうとしている人物について、その名声以外のことは知らなかった。

その人物の名は、アレクサンダル・チョーマ・ド・ケレシュ(訳注:ハンガリー語の発音はシャンドル・クルシ・チョマに近い)。英領インドの都の学術的な機関であるベンガル・アジア協会の司書だった。

おなじ言語を話す者同士として、ためらいながらもふたりは友人になった。しばらくすると、当然のごとく、画家は友人の肖像を描きたくなった。画家は国王や支配者の英雄的な肖像を描くのをつねとしていたのだが、いま、プロフェッショナルな繊細さと技のすべてをあつめて、この司書の肖像を描こうと考えた。

しかしそれが容易でないことがすぐに判明した。チョーマ・ド・ケレシュはいかなる条件においても肖像を描くことを容認しなかったのである。この極度に控えめな男はいまやハンガリーの英雄であり、英領インドの伝説だった。

58歳の彼が、もう二度と戻って来られないかもしれない旅に出ようとしていることは周知の事実だった。彼がどのように見えるかを記録することは、緊急かつ必要であることだと画家は痛感した。というのも、彼の肖像はいっさい存在しなかったからである。それはいま、なされるべきことだった。しかしどうやって?

「本当のことを話しますと」と画家はハンガリーにいる友人にあてた手紙のなかに書いている。「彼ほど奇妙な人間を見たことがありません」

 アレクサンダル・チョーマ・ド・ケレシュはいまも、チベット学の父として尊敬されている。彼はチベット語の最初の辞書と文法書の著者であり、チベット文学の文献学的パイオニアだった。チベット文学を西欧に、はじめて総体的に紹介したのは彼だった。

チョーマは、インド北部のヒマラヤの仏教寺院で(そこは文化的にチベットに属したが、禁じられた王国の一部ではなかった)厳しい生活を送ったあと、1831年、インド政府内の後援者からベンガルのアジア協会の司書というポストをもらった。

画家が彼に会った場所こそこのアジア協会本部の一室だった。そのときチョーマはフロアのマットの上で、本や草稿(それらは彼のライフワークそのものである)が入った箱に囲まれて寝ていた。

 チョマの生涯の悲劇は、超人的な学術研究があまりにも単調であるがゆえ、彼の心理や情緒に破綻がもたらされたことである。カルカッタの騒々しい町のなかに住んでいるのに、口に入れるのはごはんとお茶だけで、ヨーロッパ人が理解できない言語の研究に没頭する姿は、ヒマラヤ山中の寺院の独房のごとき一室に棲む隠者のようだった。部屋から出るのは一日一回だけで、それもビルの廊下を歩くだけだった。

 一日が終わると、彼は召使いに命じて外側から鍵をかけさせた。

 その後、アウグスト・シェフト、すなわち画家は、チョーマの注意がそれているとき、何をしているか悟られないようにして、なんとか肖像を描くことができた。

肖像画は上半身だけだが、チョーマの特徴をよくつかんでいた。髪は短く、鼻は尖っていた。肖像画に描かれなかったのは、彼の背が低いことだった。身長は5フィート(152cm)にも届かなかったのである。

もっとも特徴的なのは彼の目だった。それは見据えるような、激しく集中した目つきだった。彼は英国式にならって、ヒマラヤ山中で生やしていた髭をきれいに剃っていた。

画家の違反ともいえるスケッチがなければ、チョーマの肖像が残ることはなかっただろう。というのもおなじ年、ダージリンの近くのマラリアが多い平原で、意欲的な旅をはじめたばかりだというのに、チョーマは死んでしまうのだ。

その旅でチョマはチベットの都ラサに入るつもりだった。そしてヒマラヤの高原を越え、中国西部の砂漠地帯へと進み、ハンガリーの人々の原始的な先祖を探し当てることができればと考えていた。

 チョーマにとって旅は不可欠なものであったが、それは呪いであり、苦悩であった。つまりそれは内なる悪魔、癒しがたい孤独からの逃避だった。彼の人生は極度にみじめなものであったが、成し遂げたものは極度にすばらしかった。彼は貧困と耐え難い孤独のなかで8年間をヒマラヤの寺院で送ったが、完全にチベット学者になるということはなかった。彼の旅の究極的なゴールははるかに遠く、ついには到達することがかなわなかった。



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