心風景 landscapes within 34    宮本神酒男    世界最古の共和制共同体で不可触賤民になる 

    元老の二人 

 ゲパン神の象徴的御神体を持ってラフル(インド・ヒマチャルプラデーシュ州ラホール)のシシュ村を出発し、パルヴァティ谷のジャムル神が鎮座するマラナ村であらたな御神木を得て戻ってくる25日間におよぶ過酷な「神の巡礼」のなかでもメインイベントと言えるのは、マラナ村での神事である。 → MAP 

 移動する間は、たんなる山歩きではない。村めぐりであるとともにそれは寺院および聖地めぐりであり、各地のプジャリや神々(その現れであるシャーマン)、村人たちと交流する。それぞれの場所で儀礼をおこない、宴席が設けられてごちそうやお茶、酒、菓子などがふるまわれる。このように意外と忙しいのだが、村から村へは歩いて行かなければならないので、上ったり下ったり、海抜2千mから3千mの山の中を一日十数時間は歩くことになってしまう。

 この日も、長い一日だった。最後の人里プルン村(ニコライ・リョーリフの家はこのずっと下)を出ると、大きな森の中をひたすら歩き続けることになる。森を抜けると、斜面に草原が広がり、野イチゴがたくさん成っていた。私は喜んで無制限に食べてしまったが、案の定腹を壊してしまった。茂みでときおり用を足しながら山を歩くのは言うまでもなく苦痛だった。

     
マラナ村のカトゥクニ様式のジャムル寺院(左)。木を伐り出し、カンナで削り、五色の布で飾り、神木を作る(右) 

 そして待っていたのは、想定をはるかに上回る差別だった。私はこの村では不可触賤民だったのである。

 私は観光地マナーリからずっといっしょに歩いてきた60代後半の郷土研究家トプデン氏とともに、村でいちばんおしゃれなコーヒー&チャイの店に入り、ミルクコーヒーを注文した。おしゃれといっても、ウインドウの内側には数百匹のハエがたむろしているので、インド人から見ても衛生観念が欠如したコーヒー店だった。はじめ私を見ても店主はニコニコしていた。出発点の村のあたりは、住民はチベット系であり、そのなかに混じっていたので外国人と気づかれなかった。しかし外国人だと知ると、態度が一変した。
「そのコップを持って外に出ろ!」
 私は言われたとおり、安っぽいコップを持って店の外の道に出た。村のメインの道といっても、道幅は1mしかない。その向こうはゴミ捨て場だった。店主はなおも青筋を立ててわめく。
「コップをそこに置け! おまえはとっとと消えろ!」
 私が触ったコップはけがれてしまったから、もう使用できない。だからゴミとして捨てられたのである。まあ、あとでひそかに回収して、洗って使っているのかもしれないが。

 そのあと私は再建中の寺院を見に行った。その年の1月、この村は深い雪に埋まるのだが、そんな季節に火事が発生し、延焼して4割もの家屋が焼失してしまったという。寺院も大半が焼けてしまった。そのため寺院は再建中で、クル谷から寺院の木彫り専門職人が呼ばれ、神々を彫っていた。
 しばらくすると遠くから、わめきながら近づいてくる人がいた。はじめ気にとめなかったが、よく聞くと、「おまえは外国人だろう! 罰金2千ルピー払え!」と叫んでいた。これはヤバイ、と思って私は走って逃げた。民家の壁さえ触ってはいけないのに、神殿に入るとは何事だ、というわけだ。

 こんな目にあいながらも、私はトプデン氏ら数人とともにいくつかの民家を訪ねている。そこでお茶を飲んだり菓子を食べたりしているのだ。その間ひとことも話すことができなかったが、家の人も声をかけてこなかった。外国人と気づいても、気づかないふりをしていたのだろう。

 
楽器を演奏するガラと呼ばれる人々も、また巡礼隊の幹部であるラパ(シャーマン)のひとりもアウトカースト。連帯感を持った! 

 村の中心部にある聖なる集会所(これはジャムル寺院のようだ)にわれわれは入ることを許されなかった。食事のときも、村はずれの河原の近くでひっそりと食べなければならなかった。この写真の楽器演奏の人たちや、ラパのひとりもアウトカーストだったので、同類のよしみで仲良くなった。私はこの村でのみアウトカーストなのでまだよいが、彼らはずっとアウトカーストでなければならない。もしよきヒンドゥー教徒であったとしても、彼らはヒンドゥー寺院に入ることすらできないのである。

 私が泊まっていたゲストハウスは村の一番上のはずれにあった。村の中心部で海抜2650mだが、ゲストハウスはそれより100mは高いだろう。滞在中私は2匹の犬と仲良くなった。1匹目は後ろ脚の1本が麻痺したシェパード系の、だがみすぼらしい犬だった。いっしょに下の村の中心部に下りて行ったものの、ほかの犬に吠え立てられ、何匹かの犬に襲われ、逃げてそのまま戻ってこなかった。
 2匹目はゲストハウスに住むルビーという名のジャーマン・シェパードだった。ルビーは頑丈で運動神経がよく、頭がよかった。他の犬に吠え立てられても、ひるまなかった。襲われても、一瞬反撃するだけで攻撃してきた犬はキャンキャン叫びながら逃げて行った。何度かゲストハウスと村の中心部を行き来するあいだに、どの犬もルビーを見ただけで逃げるようになった。ルビーは好奇心が旺盛で、観察力もあった。村の中心部で祭りや行事が行われたが、ルビーはその一部始終を逐一見ているのである。その目、耳、鼻の動きで感覚器をフルに動かしているのが見て取れた。またルビーが私という存在をちゃっかり利用しているのもわかった。犬が一匹なら人間に蹴飛ばされるだろうが、人といっしょならだれも邪険に扱わないのだ。
 私はゲストハウスに戻る時、よくルビーと駆けっこをした。斜面は急勾配で、歩いて半時間もかかる距離があり、当然ながら人間のほうが先にバテてしまった。

 この差別的な村が最古の共和制をもった共同体として名を馳せているのは皮肉というほかない。ここに挙げた写真の人々はいわば長老議員である。彼らの写真が撮られるのは異例のことだが(ほとんど奇跡といっていい)、われわれのリーダー、スンダル・シンが取り計らってくれたからである。あるいはこのとき、私が外国人だということに気づいていなかったのかもしれない。

   


   


   
世界初公開? 最古の共和制共同体の元老の6人 


 いかがだろうか。いや、なぜそんな聞き方をするかといえば、この村にはアレクサンドロス大王の兵士後裔説があると言われているからだ。もう一度聞く。彼らはギリシア人の末裔だろうか。たしかに一般的なインド人とはまったく風貌が異なっている。パシュトゥン人やタジク人のほうが近い。アレクサンドロス大王の兵士後裔説の伝承を持つとされる地域はいくつかあり、その伝承はめずらしくないが、古代インド(BC2世紀からAD1世紀)にはギリシア人王朝が建てられたこともあるので、ギリシア人の血をひいているとしても驚くべきことではない。彼らの言語カナーシ語は、ボーティ(チベット系言語)、クルイ(Kului)、ヒンディー、サンスクリットの混合語だという。彼らは古代チベットのシャンシュン国の末裔だと主張する人々もいる。なぜならカイラース山から先祖がやってきたという伝承を持っているのだ。シャンシュン人はかならずしもチベット人ではない。インド・アーリア系の人々も含まれていた。シャンシュン人かどうかはともかく、カイラース山の近くに居住していたという説は荒唐無稽ではない。

 マラナの共和制について簡単に説明したい。
 村は大きく2つの区(ベール behr)に分かれる。上部の区(ベール)はダラ・ベール(Dhara behr)、下部の区はサウラ・ベール(Saurha behr)と呼ばれる。この二つの区は人口、戸数ともほぼおなじである。
 ベール(behr)はさらに4つのチュグ(chugh)と呼ばれる部落に分かれる。この4つのチュグとは、タムヤニ・チュグ(Tamyani chugh)、ダラーニ・チュグ(Daraani)、パチャーニ・チュグ(Pachaani)、サルワリ・チュニ(Salwari chugh)である。
 村には二つの議会の家、つまり議事堂がある。それはカニシュタン(Kanishtang)とジェシュタン(Jyeshtang)である。上院と下院のようなものだ。ジェシュタンには3人のメンバーがいる。それは神の代理人カルダル(Kardar)、プジャリ(儀礼専用の祭司)、カルミシュタ(Karmishta)あるいはグル(Gur 託宣)である。
 それに加えて各チュグから二人ずつ代表が送られる。
 ジェシュタンのメンバーはあわせて11人ということになる。
 カルダル、プジャリ、グルは世襲であり、ほかのメンバーは選挙で選ばれる。
 カニシュタンのメンバーは家族の長がなることが多い。それゆえカニシュタンのほうが数は多い。

     
   接近してはいけない外国人に興味津々の女の子たち。右は村を覆わんばかりの大麻。「ナチュラリスト」たちに教えてあげたい 


 マラナは世界最古の共和制として知られるが、じつは旅行者の間では大麻でも有名だ。村中麻だらけなのである。(もっとも、マナーリはもちろんのこと、この広い地域、山であろうと、川辺であろうと、どこでも大麻草だらけである。トレッキングの途中、疲れたら、あたりに生えている大麻の葉をとり、こすって香りをかぐと、少し生き返ったような気がする。これは違法ではないだろう)
 ここの大麻は質がいいなどと言われる。ただし私が行った前の年には大規模な手入れがあり、たくさんの村人が検挙された。それでもゲストハウスの部屋にいると、しつこいぐらいに村人が訪ねてきて大麻を売ろうとする。私が断ると、「え、なんで? じゃあ何のために来たの?」とでも言いそうな表情を見せる。この村は裕福には見えないし、観光業も成り立ちにくい。大麻は彼らにとっての換金作物なのである。しかしそれが合法化されることもないだろう。そのため共和制という表の顔を見せながら、裏の顔を捨てられないのだ。



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