第3位 素盞雄(スサノオ)神社の奇蹟の石   宮本神酒男 

 
左は秋のスサノオ神社。右はとてつもなく強力な霊力をもつ小塚と呼ばれる土盛り。向こう側に瑞光石 

 <疫神祭> 
桃の花びらが舞う中、狩衣をまとった宮司らがしずしずと歩む。
飛鳥大神と牛頭天王に御饌(ささげもの)をして疫病を祓う 

 素盞雄神社の境内を探索するうちに、何かすっきりしない感覚に陥ります。それは肝心要の祭神がよくわからないからです。ウィキペディアを見ますと、祭神は素盞雄大神(スサノオオオカミ)と飛鳥大神の2柱となっています。縁起を見ますと、この2柱なのですが、スサノオ大神の別名は牛頭(ごず)天王だとも述べています。牛頭天王とスサノオ大神が同一とはどういうことなのか、と疑問を抱かざるをえません。

 次第にわかってくるのは、飛鳥大神とならぶ本来の祭神は牛頭天王であることです。もともと「お天王さま」という呼び名があり、6月3日には天王祭という御輿を担ぐ祭も行われます。ということは、廃仏毀釈のとき、はじめて牛頭天王のかわりにスサノオ大神が祭神となったのかもしれません。

  
春になると「子育て神社」らしく巨大ひな壇(4か所)が登場

   
 神聖なる瑞光石の前で行われた御饌(ごせん)儀式 

 川村湊氏によると、実態はもっとすさまじいものがあったようです。牛頭天王は「隠滅させられた神」だというのです。1868年にいわゆる神仏分離の通達が出されたとき、その主な標的は権現と牛頭天王でした。それというのも、江戸時代にあっては天王さんといえば牛頭天王のことであり、天皇ではなかったからです。これから禁裏(きんり)様とか内裏(だいり)様と呼んできた天皇を天皇として掲げようというとき、天王はまぎらわしい邪神のように映ったのです。

 サカキ(榊)の力で邪なるものを退散させる 

 牛頭天王自体、神仏習合の産物という面があります。牛頭天王は祇園精舎の守護神であり、本地はスサノオ、垂迹は薬師如来となっています。図像で表わされる場合、天王の頭上には牛頭を戴いているようです。

チベット仏教では頭上に馬頭を戴く神をハヤグリーヴァ(タムディン、馬頭観音)と呼びますが、牛頭となりますと、頭が牛頭であるヤマンタカやダルマラジャなどの憤怒神があります。いずれにせよ、牛頭天王からは仏教といっても密教のにおいがしてくるのです。


台石に彫られた「蘇民将来子孫なり」。中の写真は子育て銀杏。母乳の出ない女性はその皮を煎じて飲み、
周囲に米のとぎ汁を撒いて子供の無事を祈る。右は願掛けの絵馬。 

 スサノオ神社の境内のあちこちに「蘇民将来」の文字が見えます。これもまた牛頭天王崇拝にはつきものなのです。蘇民将来の説話を全国に広めたのは陰陽師でした。この説話はつぎのような内容です。

 武塔(むとう)神は旅の途上、一夜の宿を乞います。弟の巨旦将来(こたんしょうらい)はお金持ちなのに断り、貧乏な兄の蘇民将来はもてなしました。のちに武塔神は再訪し、蘇民将来の娘には茅の輪をかけて目印とし、巨旦将来の一族全員を滅ぼしました。

 神社に伝わる説話では、武塔神がスサノオになっています。上の説話と同様スサノオは宿を乞いますが、その汚い姿を見て裕福な弟の巨旦将来は断り、貧しいい兄の蘇民将来は受け入れます。伝染病が流行ったとき、茅の輪を腰につけた兄の家族は助かり、弟の家族はみな死んでしまいました。

 蘇民将来の説話は国内各地に伝播しましたが、その名からしても、国内起源というより外国、おそらく朝鮮半島起源でしょう。その護符とともに蘇民将来信仰は各地に広がりました。

 二神が降臨した瑞光石に酒、米、塩を捧げる 

 さて話を牛頭天王(スサノオ大神)と飛鳥大神が降臨した時点に戻しましょう。役小角の弟子である黒珍は霊験あらたかなる塚を見つけ、日々祈っていると、岩が突然光りはじめ、2柱の神が翁の姿をとって現れました。これがスサノオ大神(実際は牛頭天王)と飛鳥大神だったのです。

「われを祀らば疫病を祓い福を増し、ながくこの郷土を栄えしめん」と神は託宣を述べました。その言葉に応じて創建したのがスサノオ神社だったのです。

 この光を発した岩は瑞光石と呼ばれます。正直に言いますと、どれが瑞光石なのかわからず、ほかの石を誤認しそうになりました。光を発して2柱の神を現出させるほどの石なら、もっとオーラのようなものを出してもいいのではないかとも思いました。

 火の力で疫病祓い。これも護摩神事の一種だろう  

 私自身、ネパール・ヒマラヤの村で、神石が発見される現場に出くわしたことがあります。神が憑依するようになった11歳の少女がいました。この少女に神が憑き、地面を掘るように命じました。村人らが掘りつづけて二日、それほどの特徴がない、しかし大きな石が出てくると、少女はそれが神の宿る石であると宣言しました。それから鳥の血をそそぐなどしてプジャ(儀礼)を行い、本格的な聖なる石となったのでした。

 この瑞光石が聖なる石となったときも、似たような現象が起きた可能性があります。黒珍はシャーマン的な僧であったかもしれません。石が光を放ったということは、黒珍が神がかったということです。そのまわりにいた人間は、憑依状態の黒珍を見ただけだったかもしれません。そうだとすると、瑞光石は何の変哲もない岩に見えますが、やはり神が宿る霊力のある石なのです。

 
七五三の季節。ここは奥の細道の出発点。「千住というところにて……行く春や鳥啼き魚の目は泪」 

 第6位の首切地蔵のところで述べたように、南千住駅に近い延命寺・回向院と素盞雄(スサノオ)神社を結ぶコツ通り(旧日光街道)は、刑場跡に近かったせいか、掘れば出てくるお骨からその通称が生まれたとも(杉田玄白らの『解体新書』はここから生まれました)、あるいは小塚原刑場のコツカに由来しているともいわれています。いずれにしても、こういった伝承からもこの地域の霊的パワーが並々ならぬものであることが理解できると思います。

* あらためて『江戸名所図会』を読むと、「飛鳥明神社」の項に「祭る神、大己貴命(おおなむちのみこと)と事大主命(ことしろぬしのみこと)二座なり」とあり、「大己貴命は素戔嗚命の御子なり」「事大主命は大国主命の御子なり」という説明があります。

 そして延暦年間(782−806)に比叡の、つまり天台宗の黒珍師が小塚を通りかかったとき、塚から夜な夜な瑞光が発せられ、白衣を着た翁二人が降臨したと記しています。このとき二人は大己貴命(=牛頭天王)、事大主命(=飛鳥明神)と称しました。

 なお、注釈者はこの瑞光石(荊石ともいう)について「これおそらくは上古の荒墓ならん」と述べています。古代墳墓の遺跡ではないかと考えているのです。待乳山(まつちやま)や現存しない業平(なりひら)塚と同様、古墳の可能性は十分にあるでしょう。



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