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ロヒンギャ年代記 宮本神酒男・記
*アラカンの王朝 (古代の年代はあてにならないので目安程度に考えて下さい)
(→「ラカイン五千年」)
BC3325−BC1507 第一ダニャワディ朝
BC1507−BC580 第二ダニャワディ朝
BC580−AD326 第三ダニャワディ朝
BC510−AD370 第一ウェーサリー朝
BC370−AD600 第二ウェーサリー朝
600−720 第三ウェーサリー朝
818−1103 ピンサル朝
1103−1123 第一プライン朝
1123−1160 第二プライン朝
1160−1204 ナイリンサヤル朝
1205−1460 ラウン・チェ朝
1430−1531 第一ムラウー朝
1531−1638 第二ムラウー朝
1638−1784 第三ムラウー朝
7c アラカンに最初のアラブ人、ムハンマド・イブン・ハナフィヤがやってきた。
王女カイヤプリと結婚。彼女とともに多数がイスラム教に改宗した。
788 マハタイン・サンディ王がウェーサリーの王位につく。チャンドラ朝(〜957)
ラムリー島に多数のアラブ人漂着。
アラブ人がアラカン王の前で「憐みを!(ロハム)」と叫んだ。(ロヒンギャ語源説)
アラブ人によってアラカン各地にダルガー(スーフィー廟)が建てられた。
850 ピンビャ王によってバガンに城塞が築かれる。
957 (バガンから?)ビルマ人の襲来。ヒンドゥー王スラ・チャンドラ殺される。
当時、海賊行為を働くアラカンのマグ人が恐れられた。
1203 ベンガルがイスラム国家となる。アラカンにもイスラムの波が押し寄せる。
1287 下ビルマにモン族のペグー朝成立(〜1539)
1312 ビルマにシャン族のピンヤ朝(〜1364)とアヴァ朝(1364−1555)
1404 ビルマによって追われたアラカン王ミン・ソー・ムンがベンガルの都ガウルに避難。
1430 ベンガル王ジャラルッディン・ムハンマド、将軍ワリ・ハーン率いる5万人の兵士をアラカンに送る。
将軍自身が王位につき、イスラム法を採用し、ペルシア語を公用語とした。
ベンガル王、サンディ・ハーン率いる軍を派遣しワリ・ハーンを駆逐。
ベンガルに亡命していたミン・ソー・ムン*がアラカン国王に復帰。
ムルハウン(ムラウー)にサンディ・ハーン・モスクが建てられる。
*メン・ツァウ・ムィソン、またはナライメーカラ(ベンガル側の資料より)
1433 ベンガル王死去。ベンガルのアラカンへの影響弱まる。
1437 アラカン国、ラムーを支配下に置く。
1442 碑文中の「イスラム王」はマーユー川のロヒンギャの王の可能性あり。
1459 アラカンのアリ・ハーン、チッタゴンを占領。(チッタゴンは1459年から1666年までアラカンの支配下)
1440 イスラムの聖人ビル・バドゥル没。ラカイン来訪。没後、守護聖人となる。
1486 ビルマにタウングー朝成立。
1516 チュッティ・ハーン率いるベンガル軍がアラカンからチッタゴンを取り戻すも、短期間の支配に終わる。
16c−18c マグ人とポルトガル人(フェリンギ)の海賊がベンガル湾を荒らし回る。
1614 アラカンのマグ王とポルトガル人海賊セバスチャン・ゴンザレス、サンディプを支配下に置く。
アラカン王、ムガール軍に捕まる。
1622−38 アラカン国スリ・スダルマ王の在位期間中、ベンガル詩人ダウラト・カズィが活躍。都ローサンに居住。
1650 ベンガル詩人アラオル、ポルトガル人の海賊に襲われ、父親を殺されるも、アラカンの岸に泳いで逃げる。
アラカンの大臣マガン・タクルが彼の弟子、パトロンになる。アラオル、大作「パドマワティ」に取りかかる。
1660 ベンガル太守シャー・シュジャと多くのカマンチ(傭兵)がラカインに亡命。
イスラム風の硬貨が発行され、モスクが建てられるなどイスラム色が強まる。
1662 シャー・シュジャ、殺される。ムガール朝、激怒する。
1666 ムガール朝のシャイスタ・ハーン、アラカンからチッタゴンを奪う。
チッタゴンからマグ人退去。アラカン国が勢いを失う。
1685−1710 イスラム教徒によるアラカン国の完全統治。
1754 コンバウン朝、ビルマを統一。
1784 ビルマ兵がアラカンに侵攻。マハムニ仏が持ち去られる。アラカン国滅亡。
何千人ものアラカン人が処刑された。また強制移住させられた。
このときまでアラカン国はインドにもビルマにも属していなかった。
1784−1824 ビルマによるアラカン統治。20万人のアラカン人がチッタゴンに避難。
1822 アヴァに住むブキャナン没。「ルーインガ」(ロヒンギャのことか)について記す。
1824 第一次英ビルマ戦争勃発。
1826 戦争終結。ヤンダボ条約締結。アラカンやテナセリムが英領インドに。
この時点でアラカンの人口の3分の1がイスラム教徒。
1852 第2次英ビルマ戦争。
1885 第3次英ビルマ戦争。
1937 ビルマが英領インドから分離し、アラカンは英領ビルマの一部となる。
1942 アラカンではじめてのイスラム教徒と仏教徒のいさかい。
3月28日、5千人(一説には10万人)のロヒンギャが殺される。
日本軍によるロヒンギャ虐殺もあった?
1948 ビルマ独立直後にイスラム教徒の「ムジャヒッドの乱」が起こるも鎮圧される。
1948−1962 ロヒンギャから国会に代表が送られ、大臣も選ばれた。
1962 クーデターでネウィン軍事政権発足。ロヒンギャを英領時代の移民と認定。
バングラデシュ以外にも多数の難民がカラチへ。『エクソダス』の著者の両親も。
1974 緊急移民条例発布。ロヒンギャが国籍を奪われ、外国人とみなされる。
1978 2月、アキャブのサッキパラ村でナガミン作戦開始。ロヒンギャ殲滅が狙い。
3月、作戦はバティダウンやマウンドーでも実施。多数の死者が出る。
バングラデシュのキャンプに3か月の間に30万人の難民が収容される。
1982 市民権法発布。正式にロヒンギャは「非国民」に。
1988 ロヒンギャ、アウンサン・スーチー率いるNLDを支持。しかしそれを理由に弾圧を受ける。
1991 さらに厳しいピ・タヤ作戦開始。ロヒンギャ難民急増。
2004 バングラデシュ、ロヒンギャを不法移民に認定。
2009 タイ海軍によってロヒンギャが強制送還。
2012 5月から6月、ラカインのマーユー地区でロヒンギャと仏教徒の抗争が起こる。
欧州を歴訪したアウンサン・スーチー女史、ロヒンギャ問題の言及を避ける。
10月、チャウピュ―のイスラム地区が焼き払われ、多数の死者が出た。