ロヒンギャ:ミャンマーの知られざる虐殺の内幕
4 ロヒンギャ関連(2008―2015)
余波
2015年6月半ばまでに、最悪の危機は終わろうとしているように思われる。インドネシアとミャンマーは海上のこれらの人々の上陸を許し、ミャンマーは効果的に国境を閉じている。少なくともモンスーンがアンダマン海に悪天候を連れてくる頃に、海上の大量死が発生するリスクは避けられた。しかしそれはいかなる本当の解決をももたらしていない。すべては進行中のロヒンギャ迫害がやまず、この地域に大きな影響を与えつづけていることを示している。
ミャンマーはあきらかに葛藤していて、ロヒンギャを強制的に追い出そうとしているのか、あるいは国内の強制収容所に閉じ込めておくのか、はっきりしない。アメリカは過去、この点を非難してきた。彼らに通常の生活を送らせる意図はまったくないので、これを、時間をかけた殺人と同等であるとみなさないわけにはいかない。一種の自然消滅を待つジェノサイドである。しかしながら、2015年に明らかになったのは、ミャンマーからの難民流出や人身取引と、ほかの同地域の国、とくにタイとのつながりである。タイは奴隷労働が経済システムの柱となることを許していた。奴隷の値は今、たいへん安く、彼らの命は、奴隷主にとってさえも、ほとんど価値がなかった。
もちろん、地域大国以外も、同様の国があった。ほかの国の政府は知らないふりをすることができた。アボットの「無謀な難民」という言葉は、ボートに強制的に乗せられた個人のレポートと折り合いがあわなかった。同様に、国際的な食品会社も責任を共有している。彼らは地域の水産業の製品を買いながらも、労働者の状況には知らないふりをしているからである。実際、ミャンマーにおける迫害によって、奴隷労働を基礎とする経済システムのなかで人々は生きるようになっている。もし難民が逃げ出すことができない状態から脱したら、このシステムは崩壊してしまう。
悲惨なケースを付け加えると、一部のミャンマーから逃げた難民は、モンスーン季節に海上で悪天候に捕まるのを怖がり、国に戻ろうとした。彼らは逃走資金とするためにすでに財産はすべて売っているので、ラカインに戻ってきたときには極度の貧困生活が待っていることになった。一部の例では、難民キャンプに滞在している人々は、船に捕らわれた人々を救うために、密輸業者にお金を払っている。アンダマン海が比較的静かな時期には、難民がかならず流出した。しかし毎年逃げようとする人々はより貧しくなり、彼らの絶望を掘り起こし、奴隷として売ろうとする者たちに対し、難民はあまりにも脆弱すぎた。
逃亡したり、ラカインから強制的に追い出されたりした人々の運命は厳しいものだったが、残った人々の状況はもっとひどかった。八月半ば、サイクロン・コーメーンによってモンスーンの雨が地域にもたらされた。その結果ロヒンギャが住むすべてのキャンプが洪水の被害に遭ってしまった。小さな道具や貯めていた食料などが失われてしまったのである。コーメーンはとくに破壊的というわけではなかった。通常の範囲内のやや大きめのサイクロンにすぎなかった。しかし国内難民キャンプのインフラはないに等しく、ちょっとした嵐でもロヒンギャには大きなダメージを与えた。当然のごとく、当局は問題の存在を否定しつづけた。
「難民キャンプはしっかりしています」ラカイン州政府長官のウー・ティン・マウン・スウェは言った。「そこの人々は豊かです。彼らは土地を持ち、穀物を市場で売ることもできるのです」小冊子を見せながら役人は言った。小冊子には、国の予算で作られるアスファルト道路や学校のプロジェクトについて書かれていた。
州や国の限られた努力があっても、ロヒンギャの村々の破壊や難民キャンプの洪水の被害の慰めにはならなかった。こうしてミャンマーの政治的状況は悪化し、ラカインの地方政治は仏教徒過激民族主義者の手に落ちてしまったのである。ロヒンギャは彼らが残した小さな共同体の富をも失おうとしていた。
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