ソマレクの謎を追う
知られざるボン教の古層
宮本神酒男
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フシェ村からマシェルブラム峰を望む
去る9月末、私はパキスタン北部、バルチスタン・スカルド郊外の瀟洒なホテルのレストランから、シガール川がインダス川に滔々と流れ込む壮大な風景を眺めていた。前年も会った地方学者ロブサン氏がまもなくやってこようとしていた。
前年バルチスタンに来た目的は、チベットのボン教の総本山であるドランジ(インド・ヒマチャルプラデシュ州ソーラン)で話題になっていたロブサン氏と会うことだった。なぜ話題になったかといえば、ロブサン氏がそのウルドゥー語の著書で、古代のボン教と関連するかもしれないサムレク(ソマレク)の民間伝承を発表したからだった。
ケサル王の末裔を主張するロブサン氏
もしソマレクがボン教の古代の聖人ミル・サムレク(Mi-lus bSam-legs)であるなら、ボン教史を書き換える重要な発見といえるかもしれなかった。そもそもチベット仏教と比べると、ボン教に関する文書や記録、遺跡、伝承はきわめて少ない。古代ボン教は濃い霧のなかに隠れ、その姿はよく見えないのだ。
バルチスタンはパキスタン最北部にあり、その北端にはかの高峰K2がそびえている。インドから分離した1947年当時はまだバルチスタン東南部のチョルバト谷の住人は仏教徒であったが、いまではほぼ100%イスラム教徒である。バルチスタン東部の大多数はシーア派から派生した秘教的なヌールバフシュ派である。
10月初旬は色づく季節
驚くべきことに、バルチスタンの人々が話すバルチ語はチベット語の一種だった。よく「古代チベット語」といわれるが、厳密にいえば、隣りのインド・ラダック語に近い言語で、ウルドゥー語がまざって変容しているものの、古代の語彙や発音を保持している。
7世紀から9世紀中盤にかけてのチベットは、帝国と呼んでもさしつかえないほどの広大な版図をもっていた。いまの新疆ウイグル自治区や敦煌も、唐と争いながら、一時はその大部分を治めたことさえある。チベットがバルチスタンにやってきたのは、7世紀か遅くとも8世紀のはじめごろだった。チベットはバルチスタンを支配下に置き、ギルギットも攻略し(バルチスタンからギルギットにかけてボロールという国があったが、二国に分裂した)パミール高原を越えて中央アジアへ進出しようとしていた。ペルシア語の資料によればアフガニスタンのカブールをも陥れたというが、多くの歴史家は賛同していない。
現在の北西インド・バルモール(ダラムサラの北)で発見された石碑には、当時侵入してきたチベット軍の将軍の名キュンポ・ジョヌ・パクパが記されていた。このキュンポ(ガルダの意)は、おそらくボン教の本場、シャンシュン国出身であることを示している。
スピティのガルダの岩絵。ボン教の影響か。
シャンシュンは吐蕃に吸収併合されたが、吐蕃の西方の最前線はシャンシュン兵で組織されていたのではなかろうか。もしバルモールまでボン教が伝播していたとするなら、バルチスタンにも同様にシャンシュン兵によってボン教がもたらされたかもしれない。
ロブサン氏によれば、バルチスタンにはボンデパを自称する人々がいるという。ボンデパとはボンの人々、という意味である。彼らはもちろん現在はイスラム教徒だが、シャンシュン兵の子孫で、古代はボン教徒だったかもしれない。
ボン教は、ときには簡単に「チベットの仏教以前の土着の宗教」というふうに紹介される。それは間違いではないのだが、千数百年前のボン教と現在のボン教は、おそらくまったく異なる。そしてそれは仏教が導入されたことによって衰退したわけではなく、変容しながらも今日まで生き残ってきた。
廃仏毀釈の前の神道を思い浮かべていただきたい。神仏習合し、本地垂迹によって仏教の神格が神道に入り込んできた。廃仏毀釈がなければ、神社の奥の殿には仏像と見分けがたい神像が鎮座していたかもしれない。ボン教も生き延びるため仏教を取り入れ、あるいは仏教化し、いつのまにか仏教、とくにニンマ派と見分けがたい宗教になっていた。近いどころか、ボン教開祖トンバ・シェンラブをブッダのひとりとみなすことによって、正真正銘の仏教の一派になったともいえる。ダライラマ14世はボン教を仏教の5番目の宗派と認定さえしている。
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