チベットの英雄叙事詩 

ケサル王物語 

25  3年間抵抗するものの、ついに王妃ドゥクモ、ホル国に連れ去られる 

 

 ホル国の兵が撤退するのはすさまじく速かった。宿営の準備を進めているとき、ビュンと唸りをあげて、赤い帯がついた銅の矢がクルカル王(白テント王)の幕舎に飛んできた。兵や馬はあわてて逃げ惑った。シェンパらも何事かと、幕舎から出て、リン国の兵の来襲かと遠い山のほうに目をこらした。 

 しばらくして騒ぎがおさまり、敵兵の姿が見えないことを確認し、幕舎に飛び込んできた矢を調べた。それには手紙が結わえてあった。書を読んだクルカル王の顔は、怒りのあまり手紙と同様に暗褐色になっていた。

「シェンパ・メルツェを呼んでこい!」と王はわめいた。「早く、すぐにだ!」

 メルツェがやってくると、王は手紙を投げつけて言った。

「読んでみろよ。何が万事うまくいっているだと!」

 メルツェは手紙を拾い上げて、何が書かれているか注意深く読んでみた。

 

だれが尊い命と戦利品を取り換えることができましょうか 

それは緑の石ころとトルコ石を取り替えるようなもの 

毒の木と白蓮を取り替えるようなもの 

黄銅鉱を輝く黄金と偽るようなもの 

鉛をあざやかな白銀と偽るようなもの 

黒いカラスを歌のうまいホトトギスと偽るようなもの 

侍女を王妃ドゥクモと替えるようなもの 

 

もともと雪獅子と打ち解けた仲になりたかったのに 

それが尾の長い黒犬だと誰が知ろう 

もともと猛虎とともに過ごす仲になりたかったのに 

それが互いにキツネみたいにだましあうと誰が知ろう 

もともと熊のように立派な夫婦になりたかったのに 

それがちっぽけなラバの夫婦になると誰が知ろう 

もともとドゥクモと死ぬまで変わらぬ愛を誓ったはずなのに 

それがすぐモノにできる侍女だと誰が知ろう 

 

その名がとどろく白テント王よ 

このようなあざむきをよしとするのか 

このような屈辱を受け入れるのか 

このような恥さらしに耐えられるのか 

このまま手をこまねいているつもりか 

何をあわてて国に戻ろうとしているのか 

 

 メルツェの心は重くなり、顔を黒い雲が覆った。

「この手紙は誰から来たのか」と、差出人がだれかわからないメルツェは吐き捨てるように言った。

「それは矢にくくりつけられていたものです」と侍者が言いながら赤い飾りがついた銅の矢を差し出した。

 メルツェは必死に記憶の中をまさぐった。そして赤い飾りの銅の矢の持ち主をやっと思い出した。これはタクロンの長、トトンの矢である。メルツェは怒涛天を衝くといったふうで、怒りを抑えきれなかった。

「大王さま、リン国人がわれらをだましているとは思いもよりませんでした。われらは兵を退いているところですが、いまいちど敵兵を一人残らず殺して本物のドゥクモを連れてくるべきです」

 メルツェはそれ以上何も言うことができなかった。まず手紙を書いたタクロン王トトンを殺し、二度と悪ふざけができないようにする必要があった。

「われらはドゥクモを見たことがないが、メルツェよ、そなたは見たことがあるではないか。われらがだまされるのは無理もないが、そなたがなぜだまされるのか。まさかわれらをだまそうとしたのではあるまいな」と、メルツェが何度も撤兵することをすすめたのを思い出し、疑いの目を向けた。

「めっそうもありません。大王さま、ドゥクモは王妃です。あなたさまの王妃となるお方です。そんなお方をじろじろと見ろとおっしゃるのですか。わたくしメルツェの目から見ると、世の中の女はだれもおなじようなものです。ただし服装が違えばおなじではないのです。婢女(はしため)が王妃の服装をしていたとしたら、どうやってわたくしに見分けることができましょうか」

 王が自分を疑っているのではないかと思ったメルツェはあわててそうやって説明したのである。

 クルカル王はメルツェの説明が理にかなっていると思い、これ以降は疑うことがなかった。

「ではメルツェよ、おまえに十万の兵を率いてリン国を攻め、ドゥクモを連れ帰ってもらおうではないか。われらは国で待っていよう」

 メルツェは王の命を受け、快諾したが、兵の数は少なめにした。少なければ、リン国の民の死傷者も少なくてすむと考えたからである。ドゥクモを連れ帰るのに必要な数の兵士がいればそれでよかった。国王としてもドゥクモを手に入れることができれば満足だった。

 ホル国の軍隊が現れたとき、タクロンのトトン王はいささか興奮した。ケサルに報復する絶好の機会がやってきたことを意味していた。前回北の魔王に手紙を送ったときは、ルツェンが王妃メサをさらっていった。これは一時的にトトンを喜ばせたが、怨みがすべて晴らされたわけではなかった。

 こんど王妃をさらいにやってきたのはホル国王の軍であったわけだが、喜びはより大きかった。なぜならこの一回の機会に多くの意味が含まれていたからである。競馬会に勝ったことによって、ケサルはドゥクモを王妃とすることができた。リン国でもっとも美しい娘がケサルのものになるのをただ眺めることしかできなかったトトンは、くやし泣きするしかなかったのだ。しかしいま、その無念は晴らされようとしていた。えがたいものをえようとしていた。ケサルがもっとも愛したものを手に入れようとしているのだ。

 トトンはホル人がドゥクモをさらっていくことを望んでいなかった。しかしリン国のさまざまな英雄たちはみな殺してほしいと願っていた。そうしてリン国王の座を奪い取り、国全体を支配したいと考えていた。愚かなクルカル王はドゥクモにだまされたと知ったら失神するくらい驚くことだろう。侍女を嫁にして百万人の大軍を退いたのだから。トトンは喜んだものの、それはぬかよろこびにすぎなかった。

 つねに心に悪巧みをもったトドンは、どうやってホル軍を退かせることができたのだろうか。彼ははっきりとクルカル王に言ってやりたかった。あなたたちはだまされていますよ。女ひとりに手玉にとられていますよ。しかしそれだけの度量はトドンにはなかった。彼にはドゥクモとリン国を売ることまではできなかった。彼は機会が到来するのを何日も待った。そして手紙を結んだ矢を放ったあと、何日も眠らないでホル人の様子を遠くからうかがった。そしていま、目の前にメルツェ率いる十万の大軍が現れた。

 シェンパ・メルツェはリン国と戦う意思はなかった。ドゥクモを探し出し、できるだけ早く連れ出せばよかった。刀を交わすことがなければ、ホル国、リン国ともに無駄に血を流すこともないはずである。したがってメルツェは大声をあげることもなく、息をひそめてリン国の領域に入り、ドゥクモが居住するタクツェ城を取り囲んだ。

 明け方、ドゥクモが窓を開けると、思いがけない光景があった。この数日間、彼女は思うところが多かった。彼女のかわりに行かされた侍女のことが心配でならなかった。しかしいま眼前にある光景を見て、息が止まってしまった。見渡すかぎりホル軍の兵士と馬で埋められていたのだ。無数の人の頭が動いていた。刀や盾が林立していた。兵士や馬の数は数えきれなかった。これは夢なのではないかと思った。こんな恐ろしいことが現実に起こるはずがない。

 ちょうどそのとき軍隊のなかからシェンパ・メルツェが出てきて、ドゥクモに向って大声で話しかけた。

 

若くて美しいドゥクモ王妃よ 

われシェンパがうたう曲を聞いてください 

ホルとリンの戦争がはじまって以来 

百の英雄が命を落としました 

千の男児が熱い血を流し 

どれだけの母親が子供を失い悲しんだことか 

乳と血が混じるがごとく山や川は揺れ動き 

天地がひっくりかえったかのように殺しあっています 

この原因はどこにあるのでしょうか 

 

大地は青々とした苗で装いをあらたにし 

秋の豊かな実りが待ち遠しいかぎり 

しかし霜をかぶれば一日にしてすべてが終わると誰が知ろう 

これは青天のもとで犯された罪のため 

玉の器は美しい花で飾られる 

花の咲き乱れるのが待ち遠しいかぎり 

しかし雹が降れば一日にしてすべてが終わると誰が知ろう 

これは黒雲の下で犯された罪のため 

川の水に細長い魚が自由に泳ぐ 

黄金の目をもつ魚がくるくる回って泳ぐ姿が待ち遠しいかぎり 

しかし鉄の針が鰓(えら)にかかると誰が知ろう 

この魚が新鮮で香ばしいのは不思議なことだ 

岩山には鳥の王である鷲の姿がふさわしい 

羽根が大事にされることを願うばかり 

しかし網にかかってしまうと誰が知ろう 

その羽根は矢に最適なのだ 

南贍部洲にはリン国の軍隊がふさわしい 

リン国に平安が訪れることを願うばかり 

しかし強大なホル国の軍隊が侵略すると誰が知ろう 

これはドゥクモによって引き起こされた災禍である 

 

 シェンパ・メルツェは歌いながらドゥクモのほうをじっと見た。ドゥクモは歌を聞きながら、あきらかに心を動かされていた。しかし二度と人をだまさないようにと、はっきり告げる必要があった。ホル人はそんなに簡単にだまされないのだ。

 

ずっと待ち望んでいた明月よ 

待ちわびた闇夜を照らす星々よ 

美しい玉を一心に望んでいたのに 

それが白い石ころにすぎなかったと誰が知ろう 

耳に心地いいホトトギスを一心に望んでいたのに 

飛んできたのがスズメだったなんて誰が知ろう 

美しい王妃ドゥクモを一心に望んでいたのに 

それが王妃にばけた侍女だなんて誰が知ろう 

誉め言葉と悪口の違いなんて聾唖者にもわかるもの 

愛と憎しみの違いなんて子供にだってわかること 

いい言葉でドゥクモにすすめよう 

さあいますぐ出発しよう 

 

 ドゥクモはシェンパ・メルツェの歌を一心に聞いて、もっともなことだと納得した。とはいっても、シェンパたちといっしょにホル国へ行くことはできなかった。人殺しを厭わない白テント王と夫婦になるくらいなら死んだほうがましだと思った。このように考えながらドゥクモは歌った。

 

われセンチャム・ドゥクモはリン国の王妃 

東の白ターラー女神の転生です 

南贍部洲の獅子王と 

仏前で永遠の愛を誓い 

仏陀の教えを正統なものと認め 

衆生の平安を願いました 

わたくしと獅子王ケサルは 

いってみれば月と太陽のようなもの 

天界から地上に降臨したものゆえ 

おのれのためでなく 

民衆のために身を尽くすさだめにあるのです 

 

雪山の頂の獅子は 

輝かしい緑の鬣(たてがみ)がなく 

雪山をさらに美しく飾ることができない 

平坦な土地を歩くことなどできようはずがありません 

 

白檀の林のなかの虎に 

色とりどりの模様はなく 

森をさらに美しく飾ることができない 

草原を走ることなどできようはずがありません 

 

清らかな水の池に咲く白蓮花 

繁茂する蓮の葉から出ることができず 

水瓶を飾ることができない 

魔物の手に入るはずもありません 

 

われドゥクモはリン国の王妃 

いかなる名声もなく 

タクツェ城を美しく飾ることなどできません 

ホルのヤツェ城に行くことなどありえません 

 

 シェンパ・メルツェは心中怒りがこみあげてきそうだったが、ぐっとこらえて説得を試みた。

 

岩山の頂で修行に励めば 

人のもめごとの多さも意に介さず、と言います 

どうしたら聖なる山は平安を得られるだろうか 

どうしたらホル国に平穏がやってくるだろうか 

どうしたらギャツァを長とする英雄たちに 

永遠の平和と長寿が訪れるだろうか 

ドゥクモさま、心からあなたにすすめます 

じっくりと、また急いで考えてください 

平和と戦争はいま矛の切っ先で揺れています 

一瞬のうちに生死の分かれ目があるのです 

 

「ドゥクモよ、リン国の王妃よ。われらが戦争を欲しているなどと思いなさるな。平和をなせと、私は何度大王(クルカル王)に諫言したことでしょう。大王はあなたさまを娶ることを誓い、けっしてあきらめませんでした。その決心が揺らぐことはありませんでした。

 ホル人なら私メルツェにすぐれた5つの点があることを知っています。喜んでいるときはたいへん善良で、怒っているときははなはだしい毒であるといわれます。敵にたいして私は雷のごとく屈強ですが、戦利品をえても私物にすることなく、民衆にたいしては絹のようにやわらかく接することで知られています。ホルとリンは3年も戦争をしてきました。山となるほどの死者が出て、川となるほどの血が流されました。われらはなお戦いをつづけるべきだとお思いでしょうか」

 ドゥクモはメルツェの話ぶりには誠意が感じられ、ほんとうのことを話しているのだと確信した。この三年のことを思うと、リン国の死者はかぞえきれないほどで、ドゥクモはひとり残されたように感じた。

王よ、ケサルよ、あなたはもう戻ってこないつもりなの? リン国のことなどもうどうでもよくなったの? あなたが北の魔国へ去ってから三年、私は待ち続けた。そしてホル軍が侵入してきて三年、計略をめぐらしてもちこたえることができた。あわせて六年もたつというのに、王よ、なぜあなたは戻ってこないの? 

 東のヴァジュラ(金剛)のダーキニーよ、南のラトナ(宝生)のダーキニーよ、西のパドマ(蓮華)のダーキニーよ、北のカルマ(行)のダーキニーよ、五仏のダーキニーよ、この苦難のドゥクモにあわれみをかけてください。どうかお守りください。困ったときには助けてください。このセンチャム・ドゥクモを憐れんでください。いつももう命を絶とうかと思いました。どこか遠くに飛んでいきたいと思いました。取り囲んでいる軍を突破して逃げたいと思いました。どうしたらいいのでしょう。

 ドゥクモにはどうしようもなかった。ホル兵が退き、リン国軍も解散したいま、だれもホル軍がふたたびやってくるとは考え及ばず、緊急に招集をかけることなど不可能だった。

「メルツェよ、おまえはなぜさぼって彼女に無駄口をたたかせているのか。とっとと連れていくのだ」

 シェンパ・メルツェがドゥクモを説き伏せようとしているあいだに、10万の大軍を率いたクルカル王がやってきていた。メルツェの兵は数が少なく、いつリン国の兵の逆襲にあわないともかぎらないので、王は不安でならなかった。メルツェが出発するとすぐ王は10万の精鋭兵を招集していた。

「王よ、われらはそうあわてるべきではありますまい。昔から言うではありませんか。野牛の肥えた肉があるとき、じっくりと煮込むには工夫がいる、つまり涼しいところで干してから煮込む。バター茶を作るとき、いいお茶をいれるには工夫がいる、つまり質のいいお茶を選んでからお茶をいれる。弓の上に鋭い矢をのせているとき、しっかり照準をあわせるには工夫がいる、つまり弓をどう射るかを考えてから照準をあわせる。

 王様、どうか幕舎にもどってお休みください。わたしはドゥクモを説き伏せます。われわれに従ってくれるならそれがいいのですが、もしできないなら強制的に連れていくことになるでしょう」

 クルカル王はもっともなことだと思ったが、自分のテントに戻るのをためらっていた。そのときヒューという音をたてて、稲妻を帯びた一本の矢が幕舎のなかに飛び込んできて、王の椅子の上の柱に突き刺さった。王は驚きのあまり椅子から転げ落ちた。

「はよう、はようメルツェを呼んでこい」と王は叫んだ。メルツェはすぐに幕舎に戻り、柱に刺さっている矢を確認した。

「大王さま、これはケサルの神矢でござります。われら、一刻も早くリン国を離れるべきでしょう。ケサルがまだ戻ってきていないとすれば、これはよからぬこと」

「ではドゥクモのしわざだと?」

「よく考えたいとドゥクモは申しておりました」

「よく考えたい! もう3年も考えているのだぞ! 意図的に引き伸ばしておるのだろう、ケサルが返ってくるまでな。いま、こうしてケサルの神矢が届いたということは、ケサルが遠くない場所におるということだ。長居は無用、明日にでも兵を退いてホルに戻ろうではないか」

 クルカル王の声は威勢が良かったが、神矢を見たとたんに縮み上がってしまった。

「大王さま、私が考えますに、ドゥクモを連れ去るというのはよからぬことです。ケサルが遠くないところにいるなら、愛する妃をおめおめと奪われるに任せるでしょうか。それでも大王さまがドゥクモを迎えたいとおっしゃるなら、本格的な戦争が勃発してしまうことになるでしょう」

「それはわしも考えておることだ」とクルカル王はメルツェの話に聞き入りながら言った。国を出てから3年の月日が流れていた。王は家が恋しくなっていた。

 そのときまた一本の赤い銅の矢が幕舎のなかに飛んできた。それには黄色い紙が結われていた。メルツェはその矢と黄色い紙を見た瞬間、それがよからぬ兆しであることがわかった。彼はトトンをすぐに殺さなかったことを後悔した。

 クルカル王は手紙を手に取り、メルツェの心配がもっともであるか確認しようとした。しかしその表情から憂いは消え去った。王は黄色い紙を見ると、狂人のように笑い出し、大声で言った。

「は、は、これは神の助けだ。美女ドゥクモを手に入れるぞ」

 シェンパ・メルツェは王の手から手紙を受け取り、その毒々しい字面を見た。手紙の中身はつぎのようなものだった。

 この矢はたしかにケサルの神矢である。しかしケサルははるか遠いところにいる。つまりケサルが矢を放つことは不可能である。この矢を抜き取って魔神の足で踏みつぶせば、その力を鎮めることができる。すなわちケサルを鎮めることができる。ドゥクモをさらっても、ケサルは手足が出せない。

「大王さま、まずは矢を抜くことです」

メルツェはこの手紙の毒々しい言い方が気に入らなかったが、このとおりにすればたしかにすべてがまるく収まるはずだった。これを拒む理由はなかろう。

 ふたりの屈強な侍従が半日かかって矢を抜き取ろうとしたが、微動だにしなかった。

「メルツェよ、おまえがあの神矢を抜き取ってこい」と王は命じた。メルツェは命じられると進み出て、矢を抜こうとしたが、汗をかいただけでやはり動かすことすらできなかった。

「ならばわしがやってみよう」クルカル王はメルツェの力をもってしても抜き取れないとみると、みずから2本の矢を引き抜こうとした。しかし矢を抜くどころか、もんどりうって王は地面に激しく叩きつけられることになってしまった。この神矢がおそるべき力をもっていることが王には身にしみてわかった。

 クルカル王は心の中で思った。神矢がこれほど手ごわいなら、あの獅子王もまた相当手ごわいのではないか。すると一刻も早くドゥクモを連れ去らねば、機会をのがしてしまうのではないか。

「メルツェよ、早くリンの城を攻めよ。そしてドゥクモを連れてくるのだ。ドゥクモがどう考えようとかまわない、考える前に連れ去るのだ」

「大王さま、いまだドゥクモと結婚したいと考えておられるのですか」

「何も言うな。ドゥクモを連れ去らなかったからわれらはここに3年もいるのではないか。どれだけの兵士や馬が死んでしまったことか。どれほどの食料を費やしてしまったことか。当初の目的を見失ったら、われらが何をしにリンに来たかわからなくなってしまうだろうが」

 クルカル王の号令が発せられると、ホル軍の兵士たちはタクツェ城のまわりを囲み始めた。ドゥクモはすでに敵を迎えうつ準備ができていた。彼女はケサルが残した鎧兜と弓矢をもちあげると、それを着て、突然タクツェ城の前に現れた。

 

ホルの王よ、兵士よ、よく聞け 

われは獅子王ケサルである 

北方の魔物を倒し 

いま国にもどってきたところである 

ところがリン国はおまえたちに蹂躙されているではないか 

この怒り、もはやおさえようがない 

赤い鳥の7本の矢を放って 

クルカル王の首を射止めようぞ 

 

 ホル兵たちは手に弓矢を持ち、鎧兜を着た姿を見て、ケサルが本当に戻ってきたのだと信じ込んだ。彼らのなかに動揺が走り、ざわめきが起こったかと思うと、いっせいに四散した。王もまた気勢がそがれてしまい、落胆した。

 しかしトトンはこの千載一遇の機会をのがさなかった。

「あそこに立つ者はケサルではございませぬ。王妃ドゥクモです。兵を退く必要はありません、いや、いまこそ攻めるべきです」

 トトンは弓を射るのではなく、歌をうたったので、クルカル王は安堵した。王も兵士たちもケサルを恐れる必要はなかった。王とメルツェはすぐに城の前に向かったが、ドゥクモが4本の矢を放つと400人のホル兵が射抜かれた。第5の矢を準備しているとき、ドゥクモは捕えられた。王が銅の笛を鳴らすと、兵は一斉に退却した。



⇒ つぎ 


ホル国クルカル王(白テント王) 
 漫画版ホルのクルカル王(白テント王)は若くてイケメン。実際、クルカル王を美男子とするバージョンもあり、醜いオッサンとはかぎらない。ドゥクモからすれば、十年近く行方不明になっている元夫(ケサル王)よりも、愛してくれる現在のイケメン夫のほうがいいかもしれない。ケサルの母親も、もともとゴク部落の長の妻だったが、リン部落に略奪され、センロンの妻になったという経緯があった。チベットの遊牧社会では、略奪結婚は珍ししくなかったのだ。



クルカル王と無理やり王妃にさせられたメサ(通常、ここはドゥクモのはずだが、漫画ではなぜかメサになっている) 



シェンパ・メルツェ 
 シェンパ・メルツェはホル国の大臣であり、将軍だったが、のちにその能力と人望が認められ、ケサルのもとで大将軍となる。シェンパの元来の意味は「屠殺人」であり、それが官職を表していたとしても、恐ろしいほど強いイメージがある。
 アレクサンドラ・ダヴィッド=ネールが最初に会ったケサルの語り部は、このシェンパ・メルツェが憑依し、刀を持って暴れまわっていた。漫画版のシェンパ・メルツェはその意味で、やや線が細すぎるといえよう。


⇒ 第31章 第32章