近所の岡本綺堂
宮本神酒男
永井荷風(1879−1959)の脂がのった時期のひとつは1930年代であり、隅田川をはさんだ今の墨田区の向島(『墨東奇譚』の中心となる場所は東向島駅近くの玉の井)や台東区の浅草、吉原あたりを舞台とする小説・随筆をたくさん執筆しているので、この地区に住む私にとって荷風が「近所の作家」であることは間違いない。
池波正太郎(1923−1990)もまた聖天様(待乳山)付近の生まれで、下谷育ち。「鬼平犯科帳」や「剣客商売」のシリーズには浅草界隈もよく出てくるので、ご近所さんに認定したい。なおあとで述べる鐘ヶ淵に関していえば、「剣客商売」シリーズの主人公、秋山小兵衛が隠居して暮らしているのはこの鐘ヶ淵である。
永井荷風、池波正太郎と比べ、半七捕物帳シリーズで知られる岡本綺堂(1872−1939)は、高輪の生まれであり、小中学校は麹町や日比谷に通っているので、おとなになるまでは東京下町とはそれほど縁が深くなかったように思われる。
綺堂は東京のどこかに思い入れがあるというより、失われた江戸に深い愛情を覚えた作家だった。海野弘氏によると、それは「単なる懐古趣味ではなく、じつは都市の発見だった。綺堂は捕物帳というスタイルを創始した。それは江戸の懐古のようでありながら、実は新しい発見なのだ」(『文藝別冊』)ということになる。
岡本綺堂は半七老人の語りによって、いってみれば江戸時代にタイムスリップするわけだが、当時の文化の中心地のひとつが浅草界隈であったことを考えれば、私にとっての「近所」が舞台のひとつとなるのは当然の成り行きだった。
綺堂という作家は、これから何度も再評価されることになるだろう。彼は中国のいわゆる志怪小説(『捜神記』『酉陽雑俎』『夷堅志』など)を翻訳、翻案して自分の血とし、肉として(中国怪奇小説集全17巻)日本最初の(?)近代ホラー作家となり、半七捕物帳全69巻によって最初の近代ミステリー作家となった。意外なことに、綺堂は当時すでに世界中で有名になっていたシャーロック・ホームズ・シリーズに触発されて半七捕物帳を書き始めたという。(末國善巳「半七捕物帳は本格ミステリーか」)
私は、綺堂は本格的な文芸作家としても認められるべき存在だと思っている。たとえば彼は近松門左衛門の影響を受けて、いくつかの心中物を書いているが(近松ものは『近松物語』にまとめている)、これらは文体こそ古風だが、心理描写が秀逸で、精緻に描かれ、たんなるエンターテイメント作家ではないことを示している。
日本では商業的成功を収めると、本格的な文芸作品として認めない傾向があるけれど、ブラム・ストーカーの『ドラキュラ』が超ロングセラーのエンターテイメント・ホラー小説でありながら、文芸作品として優れているように、綺堂の膨大な作品群も再評価されるべきだと思う。
ここではわが「近所」に関連した作品だけを取り上げていきたい。
まずは鐘ヶ淵。
鐘ヶ淵
何年か前、鐘ヶ淵駅(東武鉄道伊勢崎線)の周辺を散策していると、鐘紡と書かれた工場のような建物があり、ある種の感動を覚えたことがある。ここ鐘ヶ淵で創業された鐘淵紡績株式会社こそがカネボウ株式会社の前身だったのだ。そういう話は聞いたことがあったが、すっかり忘れていたので、突然何か真理でも発見したかのような気がしてうれしかった。
ところがその直後にカネボウは解散し、百年以上の歴史をもつ老舗の会社はあえなく幕を閉じることになる。地図で見ると、ここは現在、花王のロジスティックス・センターになっている。そういえばカネボウ化粧品の事業は花王に引き継がれたのだった。あれだけの大騒ぎになったのに、嵐は過ぎ去り、はるか遠い昔のできごとのように感じられる。時がたつのははやいものである。
岡本綺堂の短編『鐘ヶ淵』は、江戸時代の鐘ヶ淵を舞台とする作品である。作品を読む前に、鐘ヶ淵についておさらいをしておこう。『江戸名所図会』には、ここは「鐘ヶ潭(ふち)」として登場する。
同所、隅田川・荒川・綾瀬川の三俣のところをさして名づく。
小田原北条家の「所領役帳」に千葉氏の所領の下足立(しもあだち)三俣と記されているのはこれのことだろう、と『江戸名所図会』は付記している。たしかに現在の地図を見ると、隅田川と荒川、綾瀬川がこのあたりで接近している。隅田川と荒川は水路(これが旧綾瀬川)でつながり、その向こうの綾瀬川の対岸には堀切菖蒲園がある。6月頃になると私は散歩がてらに菖蒲の花を見に行くので、このあたりはなじみ深い場所である。
『江戸名所図会』は鐘ヶ淵の伝承について記す。
伝へいふ、昔普門院といへる寺の鯨鐘(かね)この潭に沈没せりとも、また橋場長昌寺の鐘なりともいひて、いま両寺に存するところの新鍮の鐘の銘にも、このことを載(あ)げたり。
「按ずるに」と前置きして、注釈者はつぎのように解説を加えている。
往昔(そのかみ)、普門院は隅田川三股の城中にありしを、元和二年(1616)住持栄真地を卜(ぼく)して、寺をいまの亀戸村に移せり。その頃あやまって華鯨(かね)を水中に投ずと。土俗伝へて、橋場法源寺(現在の保元寺)の鐘とするものは誤るに似たり。
真偽のほどはともかく、隅田川がコの字に曲がったあたりで鐘が沈んだという伝説があるのは間違いないようだ。このあたりは川の底も深く、怪異現象が起きそうな雰囲気が漂っている。実際に橋場あたりの川底から大量に出てきた頭蓋骨を祀った首塚地蔵も、それほど遠くない。ただし石浜(現在の石浜神社や橋場)はもともと足利尊氏と新田義宗(義貞の三男)が戦った古戦場であり、骨が出てきてもそれほど驚くべきことではない。
また、隅田川および流域を守っているのは水神様である。現在は隅田川神社のなかに祀られているが、もともとは八百松といわれる鬱蒼とした松の森があり、そこに鎮座していた。その隣には能の「隅田川」で知られる梅若塚があった。この地には愛憎や執着の念が渦巻き、怪異現象や神秘現象が起きやすい環境があった。
『鐘ヶ淵』のストーリー
『鐘ヶ淵』は、作者の友人の六代前の大原右之助が記録に残したエピソードである。
時は八代将軍吉宗の享保十一年、将軍の隅田川御成(おなり)があった。二代将軍の頃には、隅田川の土手を鷹狩の場所とさだめ、将軍の休息所として、隅田川御殿が建てられたという。ところが五代将軍綱吉の時代に取り壊され、木母寺または弘福寺が休息所にあてられることになった。
吉宗が御成に来た頃、木母寺の先に御前畑というのがあり、そこに将軍家の台所用の野菜や西瓜、真桑瓜のたぐいを作っていたという。*最近「寺島なす」など、地元(このあたりは向島のなかでもとくに寺島と呼ばれた)の野菜が見直されつつあるが、江戸時代は将軍家の御用達であったようだ。その付近には広い芝生があり、桜、桃、赤松、柳、あやめ、つつじ、さくら草などが植えられ、将軍が遊覧に来ていた。
吉宗は紀州から入って将軍職を継いだので、水練に熟達していた。ところが江戸の御徒士(おかち)どもに水練の心得がなかったので、吉宗は彼らに水練を奨励した。また中断していた毎年六月の浅草駒形堂付近の隅田川で行われていた水練の競技を復活させた。
そんなおり、将軍吉宗は鐘ヶ淵伝説のことを聞いた、あるいはかねて聞いていたが、鐘を引き上げ、それについて調べようと思い立った。
大勢のなかから水練に自信がある三人が選ばれた。しかしみなすこし躊躇した。いままでも沈んだ鐘の引き上げを試みた者もあったが、だれも成功しなかった。それは水神が邪魔をしたせいだった。また鐘の下には淵の主が棲んでいるとも伝えられていた。
飛び込みの順番を決めるのはむつかしかった。
第一番に飛び込むものは戦場の先陣とおなじことで、危険が伴う代わりに功名にもなる。したがって、この場合にも一種の先陣争いが起こってきた。
川御成の日、吉宗は土手の上に床几を置いて見物した。お供の面々もかたずをのんで水上を見守った。
一番目に、鮎を狙う鵜のように、さっと水に飛び込んだのは三上治太朗だった。彼は言った。
「淵の底には何物も見当たりませぬ」
ついで飛び込んだのが大原右之助だった。その日はよく晴れていて、初夏の真昼の日光がまばゆいばかりにきらきらと水を射ていた。水をくぐっていくと思いのほか暗く濁っていたが、志度の浦の海女のように恐れることなく沈んでいった。一種の藻のような水草が手足にからむように思われるのをかけのけながら、深く、深く、くだって行くと、暗い藻のなかに何か光るものが見えた。
これは大きな魚の目だった。近づくと、魚は牡丹のような赤い大きな口をあけて正面から大原に向かってきた。彼は考える。しょせんは一尾の魚。手に余って刺し殺したとあっては手柄にならない。彼は魚を抱きにかかると、脾腹を強く打たれて、気が遠くなるかと思う間に魚は深い藻の中に姿を消した。
つづいて一番若い福井文吾が水をくぐり、やがて浮き上がってくると報告した。
「淵の底には鐘が沈んでおります。一面の水草が取りついてそよいでおりますので、その大きさは確かにわかりませぬが、鐘は横さまに倒れているらしく、薄暗いなかに龍頭(りゅうず)が光っておりました」
これで福井は第一の殊勲者となったのだった。一方、三上と大原は面目を失ったことになった。三上は大原を呼び出すと小声で言った。
「福井は本当に鐘を見つけたのだろうか」
大原も半信半疑だった。もう一段の勇気をふるって根気よく探せば見つけられたかもしれないという思いがよぎる。しかし本当に横たわっていたなら、自分の目にも入りそうなものなのにとも思う。
「どうもおかしいではないか。貴公にも見えない、おれにも見えないという鐘が、どうして福井の目にだけ見えたのだろうか。年が若いので、うろたえて何かを見違えたのではないか」と、三上は興奮してささやいた。
問題は、引き上げた鐘がいつわりであったとき、どう申し開きをするかということだった。まかり間違えば腹切りである。彼らは福井を呼び出して確認したが、福井は「見間違いはない」の一点張りだった。
大原は下谷御徒町の組屋敷へ帰ったが、脾腹の痛みが激しくなった。熱も出てきた。そのとき三上がやってきて、鐘ヶ淵にもう一度くぐり入ろうと言った。大原が断ると、三上はひとりで鐘ヶ淵に戻った。
しかし三上はそのまま帰宅しなかった。翌朝、その亡骸は鐘ヶ淵で発見された。彼は若い男と取っ組み合いをしている間に死んだようだった。その男は福井だった。福井も死んでいたのである。
どうやら鐘がないことを確かめようとした三上と、あることを確認しようとした福井が鐘ヶ淵で鉢合わせたようだった。鐘のあることがわかったため、三上は福井の手柄を妬んで殺そうとしたのかもしれないし、鐘がないことが確かめられたため、面目を失った福井は、切腹することになるくらいなら三上を殺して死のうと考えたかもしれなかった。
結局水神の祟りということになり、引き上げも沙汰やみになってしまった。
箕輪心中
三ノ輪駅(地下鉄日比谷線)から南千住駅(常磐線)にかけては、いまでは活気のないどんよりとした地域になってしまったが、このあたりを散歩すると積年のネガティブ・パワーが感じられる稀有な霊的スポットであることがわかる。
南千住駅の横は江戸時代の処刑場であり、そこの通りがコツ通りと呼ばれるほど人骨が出てきたという。『解体新書』を著わした杉田玄白がここにやってきたのも、遺体がもっとも手に入りやすい場所だったからだろう。
処刑される人の見送りは泪橋で押しとどめられた。われわれの世代は泪橋といえば、その横にあしたのジョーのジムがあったというイメージが強いが。あるいは泪橋といえば、そこからドヤ街の山谷(さんや)がはじまるというイメージがあった。いまも玉姫神社の境内の隣でテント生活をしている人や、いろは会商店街の入り口の日本堤交番横で昼間から酒を飲んでいる人を見かけるが、かつての活気は失われてしまっている。
しかし最大のネガティブ・パワーの発生源は、江戸時代、遊女投げ込み寺と呼ばれた浄閑寺だろう。ここに来たら、霊能者でなくとも怨霊のようなものを感じ取れるだろう。寺の中の新吉原総霊塔の前に立ち、遊女たちの苦悶の叫びを聞くのも、供養の仕方のひとつといえるかもしれない。
『箕輪心中』のなかで綺堂はつぎのように説明する。
心中のなきがらは赤裸にして手足を縛って、荒菰(あらごも)に巻いて浄閑寺へ投げ込むという犬猫以上の怖ろしい仕置きを加えても、それはいわゆる「亡八(くるわ)の者」の残酷を証明するに過ぎなかった。
作品の後半、いよいよ心中が決行される寸前の盆の十三日に、綾衣(あやぎぬ)は行水をしながら浄閑寺の鉦(かね)の音を聞く。綾衣は吉原の大菱屋を抜け出し、すぐ近くの箕輪(三ノ輪)にあった主人公の藤枝外記(げき)の乳母の家に身を隠していた。当時、吉原の向こうには田んぼが広がっていた。田んぼのあいまにはたくさんの蓮池があったが、お時の家も蓮池に囲まれていた。
浄閑寺の鉦の音は、まもなく起きる悲劇を綾衣に予感させた。
微かにきざんでゆく鉦の音は胸に沁みるようであった。浄閑寺は廓の女の捨て場所であるということも、今更のように考えられた。運の悪い病気の女は日の目も見えないような部屋へ押し込まれて、碌々に薬も飲まされないで悶え死にする。その哀れな亡骸(なきがら)は粗末な早桶を禿(かむろ)ひとりに送られて、浄閑寺の暗い墓穴に投げ込まれる。そうした悲惨な例は彼女も今までにしばしば見たり聞いたりしていた。それでも寿命がつきて死んだ者はまだいい。心中してわれから命を縮めた者は、同じ浄閑寺の土に埋められながらも、手足を縛って荒菰に巻かれて、犬猫にも劣った辱めを受けるのである。
あらためて考えると、心中した者をぞんざいに扱うのは、心中しようとしている者たちを思いとどまらせるためだろう。手厚く葬られたら、苦境にある現状よりも死を選ぶ者たちが増えていたかもしれない。
心中は、そのまわりの人々に多大な迷惑を与えた。
遊女屋の座敷で心中した者があると、主人はその遊女ひとりを失ったばかりでない、検視の費用、その座敷の改築などに、おびただしい損害と迷惑とを引き受けなければならないので、彼らは心中を毒蛇よりも恐れた。
これは座敷で心中をした場合の話だが、もし外で決行したとしても、やはり相当の損害をこうむることになるだろう。店の評判もガタ落ちしてしまう。また、遊女屋だけでなく、男の家のほうにも損害を与えることになるが、それについては、つぎの『箕輪心中』のストーリーの説明のなかで触れたい。
『箕輪心中』のストーリー
君と寝やろか、
五千石取ろか。
なんの五千石、
君と寝よ。
旗本の藤枝外記(1758−1785)と廓の遊女綾衣の心中は実際に起こったことであり、この俗謡とともに、江戸中に広く知られることとなった。五千石は誇張であり、外記(げき)は五百石の旗本だったが、旗本と遊女の情死自体珍しかったので、世間の注目を集めることになった。
これは将来が約束された旗本でありながら、吉原に通いつめ、遊女と抜き差しならぬ関係になり、ついには心中を遂げてしまうという話である。
妹のお縫は兄外記が遊女に入れ込んでいるということを聞いて、つぎのように嘆息している。
「学問も出来、武芸も出来、情け深いのは親譲りで、義理も堅く、道理もわきまえている殿さまが、廓の遊女に武士のたましいを打ち込んで、お上の首尾を損じるなどとは……」
作者は「吉原の遊女が天下の旗本の奥様になれないのは、この世のむごい掟だった」と述べる。だから「しょせん添われぬと決まっている人と真剣の恋をするほど盲目な女は廓にも少ない」のである。にもかかわらず外記が綾衣との恋に溺れていったのは、外記がだらしない人間だったからか、綾衣がそこまで美しく、魅力的であったからなのか、たんに成り行きでそうなってしまったのか。
出会いは盂蘭盆の草市だった。この草市のときは、「廓も大門口から水道尻へかけて人の世の秋の哀れを一つに集めたような寂しい草の花や草の実を売りに出る。遊女もそぞろ歩きを許されて、今夜ばかりは武蔵野に変わったような廓の草の露を踏み分けながら、思い思いに連れ立ってゆく」。
人込みのなかで、すれ違いざまに、侍の刀の柄が綾衣の袖に引っかかってしまう。侍はあわててそれをおさえようとして、女の袖をいっしょにつかんでしまった。これが外記と綾衣の運命的な出会いだった。外記と連れ立って歩いていた侍は、遊女仲間の玉琴のなじみ客だった。
その晩、このふたりが客として大菱屋にやってきた。普通は赤井御門守などといった名で通すのだが、ひとりがなじみの客だったので、もうひとりの素性がわかってしまった。彼は番町の旗本藤枝外記だった。
玉琴の客はしだいに遠ざかってしまったが、外記のほうは足繁く通うようになった。綾衣の遊女仲間の夕雛にもおなじような恋仲の男がいたが、その男は家族によって、勘当同様に大坂の縁者へ預けられてしまった。自分の運命も似たようなものではないかと綾衣はうすうすと感じはじめていた。
たとえ正妻でなくても、妾でもかまわない、と綾衣は思った。男の家さえ繁盛していれば、江戸のどこかの隅に囲われて、一生をあわれな日陰者で過ごそうともかまわない、という覚悟ができていた。
翌年の冬、ものに感じやすくなっていた綾衣は雪景色を見つめた。
雪は綿と灰とをまぜたように、大きく細かく入乱れて横に縦に飛んでいた。田町から馬道につづいた家も土蔵ももう一面の白い刷毛(はけ)をなすられて、待乳(まつち)の森はいつもよりもひときわ浮き上がって白かった。傘のかげは一つも見えない浅草田圃の果てに、千束の大池ばかりが薄墨色にどんよりとよどんで、まわりの竹藪は白い重荷の下にたわみかかっているらしかった。朝夕に見る五重の塔は薄い雲に隔てられたように、高い甍が吹雪の白いかげに見えつ隠れつしていた。
こんなに美しく降り積もっていても、あしたは果敢(はか)なく消えてしまうかと思うと、春の雪のあわれさが今更のように綾衣の心をいたましめた。
少し引用が長くなってしまったが、それは文章が美しいだけでなく、吉原から浅草寺、待乳山あたりの地名が出てくるからでもある。
この雪の頃、外記がやってこなくなり、綾衣は不安を感じてしまう。じつは外記は病気で伏せていたのだった。綾衣は遣手(やりて)のお金(きん)を浅草の観音さまへ病気平癒の代参にやった。そしてその帰りに浅草田町の名高い占い者のところへ行かせた。すると占い者は、こんどの病気は治る、しかし半年のうちに大難があると言った。しかもそれは剣難なのだった。
こうして次第に不吉な兆しが現れるようになった。外記と綾衣の関係は大菱屋だけでなく、廓全体で知られるようになった。噂が広まると、綾衣にも客がつかなくなってしまうのだった。
また外記は小普請入り(身持ち放埓のかどで、無役になること。出世の見込みがなくなる)していた。最悪の事態を恐れた大菱屋の主人は、外記を「堰(せ)く」、すなわち出入り禁止にしようと考えた。しかし外記は支払いがとどこおるでもなく、彼をことわる口実がなかった。
そのうち一間住居(ひとまずまい)の処置が下されそうになった。これは座敷牢のことである。無理やり外記を牢に入れて、閉じ込めるのだ。
甲府勝手というのもあった。これは甲州へ追いやられるということで、江戸に戻ってくる見込みはなかった。
そのうち、綾衣が外記のために、蒔絵の櫛と笄(こうがい)を質に入れさせていたことが発覚したとして、外記を堰(せ)いた。
こうしたことがあり、ついに外記は綾衣に大菱屋を抜け出させた。ふたりは蓑笠に姿を隠し、日本堤を歩いて、箕輪のお時の家に着くと隠れ家を求めた。
ふたりだけの問題であれば、情死しようが駆け落ちしようがかまわない。しかし叔父の五郎三郎からすれば由々しき事態だった。
藤枝の家はつぶされたも同然である。甥の身の上は自業自得の因果で是非ないとしても、自分の宗家たる藤枝の家をこのまま亡ぼしてしまっては、先祖に対しても申し訳がない、死んだ兄に対しても申し訳がない。(……)
彼は外記を自滅させようと覚悟した。表向きは頓死と披露して、妹のお縫に相当の婿を取れば、藤枝の家にも瑕(きず)が付かず、親類縁者一同も世間に恥をさらさずに済むであろう。
甥を殺す機会をうかがっているとき、叔父はその様子を見ていた。
外記はうっとりとした眼をあげて黙って天井を眺めていた。何かに気を取られて、魂はうつろになっているような其のとろけた眼づかいが、五郎三郎の気に入らなかった。こいつ、よくよく性根を女に奪われているのだと思うと、慈悲も情けも無駄なように考えられて、一旦ゆるんだこぶしの肉がまた動いてきた。
硬派である叔父からすれば、女のことばかり四六時中考えている甥の外記は許しがたかった。遊女と純愛なんて、五郎三郎からすればとんだ茶番だった。堪忍袋の緒が切れた五郎三郎は外記に斬りかかったが、外記は将棋盤でそれを防いだ。まわりが止めに入ったことで、その場は殺傷沙汰にならずにすんだ。
そしてこうしたことを聞いた綾衣は結論に達する。
殿さま(外記)に死ぬようなことがあればわたしも死ぬ。わたしに死ぬようなことがあれば殿さまも死ぬ。それよりほかにはもう二人の行く道はない。
ふたりを置いて外出していたお時の子、十吉と村のむすめお米が戻ってきた。彼らが目にしたのは凄惨な光景だった。
内へはいって二人は(帰りがけの稲妻以上に)怖いものを見せられた。蒼い蚊帳のなかに、外記は腹を切っていた。綾衣は喉を突いていた。男も女も書置きらしいものは一通も残していなかった。多くの場合、書置きというたぐいのものは、この世に未練のある者が亡き後をかんがえて愚痴を書き残すか、あるいはこの世に罪のある者が詫び状がわりに書いていくのであるが、二人はこの世に未練はなかった。
外記の遺体は藤枝家に引きとられたが、綾衣の死骸は自身が予想した通り、浄閑寺に埋められた。「手足を縛って荒菰に巻かれて」穴に投げ入れられたのだろう。いくら覚悟の上とはいえ、不憫このうえない。
しかしこの心中事件は、純愛事件なのだろうか。肉欲に溺れていたのだとしたら、それを純粋な愛と呼べるのだろうか。遊女仲間の夕雛は、男と別れさせられたあと、しばらくするともとの遊女の「通常営業」に戻っているように思われる。このような選択は綾衣にはなかったのだろうか。もちろんそのような選択をしていたなら、そもそも心中事件は発生していなかったのであるが。
⇒ 岡本綺堂とフォーティアン現象
文藝別冊「岡本綺堂」(2004)
『江戸名所図会』中の「鐘ヶ潭、丹鳥の池、綾瀬川」
左上から右下に流れるのが綾瀬川。左下から右下へ流れるのが隅田川で、右下に鐘ヶ潭の文字が見える。この綾瀬川は旧綾瀬川であり、隅田川に合流しているところは現在水路になっている。つまり川の合流地点が鐘ヶ淵ということになる。
中央上に戸田茂睡の歌が書かれている。
『鳥の跡』あやせ川にて
錦ぞと みるやこころの あやせ川 うつるもみぢを いかで折りなむ
隅田川(写真左から右)に、写真中央で荒川と結ぶ水路(旧綾瀬川)が合流している。このあたりが本来の鐘ヶ淵。綾瀬川断層が走っているので、地震のときは注意したい。
江戸時代は上の 『江戸名所図会』の絵のようになっていたが、洪水被害が多かったため、まず荒川放水路が造られた(1930年)。もともと千住大橋(写真左方面に300m)から上流が荒川、下流が隅田川と呼ばれていた。1965年に荒川放水路が荒川に名称変更し、旧荒川+隅田川がすべて隅田川となった。隅田川は北区で荒川(旧荒川放水路)から分岐した川である。また絵図で大きな川である綾瀬川は、水路のような小さな川になって荒川と並行して流れ、少し下流のかつしかハープ橋で中川に合流し、清砂大橋の下流で荒川と一体化する。(ややこしくてすいません)
本来の鐘ヶ淵は釣りスポット。綺堂が描いた怪魚が釣れるかも? *2017年10月から11月にかけてこのやや下流でスナメリという種類のイルカが目撃され、話題になったが、姿が見えなくなったため、ブームとまではならなかった。このあたりは小魚がたくさんいるので、イルカもつい奥のほうまで来てしまったのかもしれない。カワウがもぐって魚をとる光景が見られるのもこのあたり。右写真は平和橋(中川)から見た死にそうなシーバス。体長80cmくらい。
堀切菖蒲園の菖蒲の花
『箕輪心中』の表紙
首切り地蔵
浄閑寺の新吉原総霊塔