心風景 inner landscape 3    宮本神酒男

怪しい光沢を放つ蝶たち 

 「蝶が好き」と言うとき、蝶には二種類の意味がある。それは上の写真のような標本になった蝶と、野原で花から花へと飛び移って蜜を吸う蝶である。生きている蝶と死んだ蝶とでは、似て大いに非なるものだ。亜熱帯で珍しい蝶を求める蝶のコレクターは、生きている蝶を探して、殺して、標本箱に蝶のミイラを保存するのだから、その両者が同時に好きということになる。

 蝶という生きものは、かけがえのない美しさを持つゆえ、他者に「殺したくない」と思わせるとともに、「コレクションしたい」「宝物にしたい」と思わせ、そのために殺されてしまうこともある。

 蝶と対照的な生き物がハエであり、その幼年時代のウジ虫である。中国はじつは、知られざるウジ虫大国だった。中国のド田舎には仕切りの壁がない公共トイレが多く、そういうトイレはしばしばウジ虫に占拠されていた。私はおそらく100回よりもはるかに多くそんなトイレを経験しているが、一番ひどかったのは(2005年頃)雲南省のある観光客皆無の村の役所の公共トイレだった。便壺のあふれだしそうな糞尿の水面(?)をよく見ると、数千匹のウジ虫のかたまりで、文字通り波打っていた。それらのうち数十匹がコンクリの床に這い出て、私のシューズめがけて徒競走しているところだった。靴底でウジ虫をつぶすとグチャっとなってきたなかったので、私はかかとでそれらを追い払った。

 もしウジ虫として生まれたら、どんな気分だろうか。生きていることにどんな意味があるだろうか。蝶が美しいことで危害が加えられないように、ウジ虫、ハエはその醜悪さで身を守ることができるのだろうか。神のような立場からすれば、美しさと醜さは同等なのかもしれない。仏教的観点から見れば、輪廻転生のなかで、われわれもウジ虫、ハエに生まれ変わるかもしれない。そう考えると、ウジ虫、ハエもいとおしく思える。

 以前、サムイェー寺(チベット最古の寺院)の食堂でトゥクパ(チベットの麺)をすすっていると、大きな窓の内側で若いお坊さんが数匹の大型のハエを外に追い払おうとしているのを見かけたことがある。うまく追い出したところでハエたちはすぐに中に戻ってきてしまった。ハエを叩き潰すとか、ハエとり紙を設置するという考えはないらしい。殺生を禁止しているからだが、禁止されていなくても、命あるものを殺すのは忍びないのだろう。私も昆虫を殺すのが好きではないので、この無駄ともいえる「放生」を行なっているお坊さんの気持ちはわからなくもなかった。

 意外と頭部はハエに似ている 

 しかし一部の熱心な仏教徒やジャイナ教徒以外は、無造作にハエの命を奪ってしまうだろう。ハエを見てわれわれは「美しい」と思えないし、コレクションしたいとも思わない。ウジ虫のイメージも影を落としている。
 では蚊やゴキブリはどうだろうか? 腕にとまっている蚊を叩きつぶさないのは、ある意味勇気の必要な行為である。実際私も唸り声を聞いただけで即座に蚊を殺している。私自身に関していえば、殺生しない宣言は偽善的で、御都合主義ということになる。

 瀕死の蝶(胴は蜂に似ている)を救う (雲南省独竜江) 

 上の写真は、道の水たまりに落ちていた傷だらけの蝶をつまみあげ、近くの灌木の葉の上に「置いてあげた」ときのものだ。これは蝶を助けたといえるだろうか。溺れて苦しんでいるのなら、踏み潰して苦悩から解き放ったほうがいいのではなかろうか。それとも見ぬふりをして、自然の摂理に任せて、通り過ぎるべきなのだろうか。
 これが人間であればどうだろうか。重い病にかかった人間は延命されるべきなのか、あるいはいっそのこと楽にしてあげるべきなのか。そもそも命というのは等価なのか。蝶とヒトを同じとみることはできるのだろうか。同じ人間でも、大統領とホームレスの命の値段は同じなのか。大半の人はこういう問いかけをばかばかしいと思うかもしれない。少なくとも優先順位はあるんだよ、と彼らは言うだろう。もし命に序列があるなら、究極的には、お坊さんが「下等の」生物を殺しても、とがめられるべきではないということになる。ではそれが猫なら? イルカなら? 命に関して価値基準を導入すると、物事はとても複雑になってしまう。許しがたい相模原の障害者福祉施設の残忍な殺戮事件はいつでも起こりうるのだ。

 なぜか翅の色が変化する (ベトナム) 
おそらくジャングル・グローリーと呼ばれる蝶の一種(Thaumantis diores) 

 魔法のように青の輪が浮かんできた 

 私は基本的に野山で飛びまわっている蝶を見るのが好きだ。蝶の翅(はね)の紋様ほど美しく、ミステリアスなものはないと私は考えている。上の2枚の写真はベトナム中央高原のコントゥムの郊外を散歩しているときに撮ったものである。撮ってから数年、さきほど、私ははじめてこの2枚の写真の蝶が同一であることに気がついた。黒地に白の紋様が入っているが、瞬時のうちに白色のまわりに青色が出現しているのである。おそらく直後には右側にも青色が浮かび上がったはずだ。
 こういいう青い輪が浮き出てくる蝶が一般的なのかどうかはわからない。発色現象そのものは構造色と呼ぶらしい。「それ自身には色がついていないが、その微細な構造によって光が干渉するため、色づいて見える」とウィキペディアには書いてある。構造色のため、角度によって色が変わって見えることがあるという。しかしこの蝶はみずから色を出しているように思え、構造色では説明できない。翅の構造を変化させ、環状の青色を出現させているように見える。(しかしこの画面で角度を変えて見ると青色が茶色に消えるようでもある……)

 ロジェ・カイヨワは『メドゥーサと仲間たち』のなかで、「(蝶の)紋様は何の役に立つのか」と問いかけている。カイヨワはしばしば問いかけと曖昧な答えのどうどうめぐりに陥ってしまうことがあるが、ここではこう結論づける。
「華美な色彩は、残像色としての作用をはたすことによって、つまり、捕捉者に襲われたこの昆虫が、逃げるのに必要な何分の一秒かの間、その捕食者の網膜に残存することによって役立つのである」
 カイヨワが述べているのはもっと派手な色彩を持つ蝶なのだろうが、この蝶も青色を出すことによって、「目くらまし」しているのだろうか。あるいは観察者(私)と関係なく、オスの蝶の求愛活動なのだろうか。

 あまり蝶らしくない格好 

 鱗粉のグラデーションが神秘的 
たとえばの話、蝶にむかって、かつておまえは毛虫だったのだと、あるいは動作の鈍い幼虫にむかって、いつの日かおまえは歩く宝石になるだろうと、誤解のないよう的確に説明することが、はたして可能だろうか。フリッツ・ライバー『跳躍者の時空』深川眞理子訳より 

 いままで見たなかで、もっとも色鮮やかで美しいと思ったのがこのミャンマー国境付近にいた蝶である。旧式のビデオに搭載されたカメラで撮ったので、画質は悪いが、それでも驚異的な鱗粉の芸術を見せてくれる。ロジェ・カイヨワは上の叙述につづいて、蝶の紋様は「芸術活動」だと推断している。
「すべて生物と呼ばれるものには、彩色された紋様をつくり出そうとする一つの傾向があり、こうした傾向が、生物の進化における両極に、蝶の翅と画家の絵とをもたらしたと想像する」
 カイヨワの言葉は、ほとんど「神のインテリジェンス」と言い換えてもさしつかえないように思われる。
 ただ、私が思うに、蝶の美しさは他の生きものに「こんな美しいものを殺したくない」と思わせる防御の武器なのではなかろうか。この文章の冒頭部に戻ると、蝶は美しいゆえに殺すのを躊躇させるし、一方で宝物としてコレクションしたいと思わせるのだ。別の項のコノハチョウとあわせて、蝶という生きものは生命の神秘と美について考えさせる稀有な存在である。




擬態は神のデザインなのか本文) 

なり
 

セルロイド 

擬態インテリジェンス(本文)


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