ドルポから来たブッダ
サイラス・スターンズ著  編訳 宮本神酒男

 

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1  天才僧は家出少年だった 6
2  サキャ大僧院での勉学 7
3  ジョナン寺へ 10
4  大仏塔建造と他性空 13
5  時代の寵児となった他性空 15
6  カーラチャクラのジョナン派版解釈 17
7  隠棲と講義の日々 19
8  元朝皇帝からの招待 20
9  ジョナン寺を辞し、ラサへ旅立つ 21
10
  中央チベットの熱烈ドルポパ・ブーム 23
11
  プトゥンとの面会はたせず 25
12
  最後の日々 26

 

 

 

 

 

 

 

ドルポから来たブッダ

サイラス・スターンズ 宮本神酒男訳

 

 1309年、17歳の新米僧が現ネパール領のドルポの家から逃げ出した。ムスタン(ロー)地方への悲惨な旅路を耐えたのも、偉大なる精神的グルを求めてのことだった。

 そのときだれが想像できただろうか、20年もたたないうちに、彼がチベット・ツァン地方のジョナン寺の座主に就くことを。そこに彼はチベットでもっとも大きな寺院塔(クンブム)を建て、チベット仏教界を揺るがすいくつもの論文を書くのである。論文のなかで彼は真実の本性について独自の見解を示す。

 ドルポパの考え方と影響を理解するには、まず彼の生涯と彼がすごした文化的環境をあきらかにしていく必要がある。幸運なことに、二つの決定的資料によってたしかな情報をわれわれは得ることができる。

 それらはドルポパの弟子のふたり、ガルンワ・レイ・ギェルツェン(Gharungwa Lhey Gyaltsen 1319-1401)とクンパン・チューダク・バルサン(Kunpang Chodrak Balzang 1283-1363?)が編纂した伝記である。彼らは多くのできごとの生き証人であり、人生や経験についてのドルポパ自身のことばを彼らは記した。

 ジェツン・ターラナータ(Jetsun Taranatha 1575-1635)やマントゥ・ルドゥプ・ギャンツォ(Mangto Ludrup 1523-1596)らがずっとのちに記したものも、興味深く貴重な資料ではあるが、しばしば初期の資料と合致しないことがある。

 

 

 

1 天才僧は家出少年だった

 1292年、ドルポパはニンマ派の密教を実践する一族に生まれた。その一族はとくにヴァジュラキラーヤ(Vajrakilaya)を信仰し、彼は少年ながらその専門家といえるほど精通していた。

 1297年、5歳の彼は赤のマンジュシュリのイニシエーションを受けた。瞑想のなかで彼は神のヴィジョンを見た。この神から彼はすさまじい力を授かったといわれる。

 1304年、出家したとき彼は12歳だった。そのとき彼は超越的知識の完成、すなわち般若波羅蜜(プラジュニャーパーラミター prajnaparamita)と論理的認識法(プラマーナ pramana)の論考について学びたかったが、故郷の地域にはそのための研究施設がなかった。

 これらの論題はサキャ派が得意としていた。しかしこの地域では、サキャ派はニンマ派ほどには盛んではなかった。この頃までに彼はインド人大師アバヤーカルグプタ(Abhayakaragupta)の「三種の数珠」(’Phreng ba skor gsum)などの教えを、サキャ派のギドゥン・ジャムヤン・タクパ・ギェルツェン(Gyidon Jamyang Trakpa Gyaltsen)から教えてもらっていた。あるいは密教の灌頂を受けていた。このサキャ派の僧は、もっとも重要な精神的な師のひとりとなった。師の信仰心の深さに圧倒され、ドルポパはギドゥンについてムスタンへ行きたいと考えた。しかし彼にニンマ派を学んで欲しい両親の反対にあい、目論見は潰えてしまう。

 1309年、17歳になったドルポパは親の許可なく、ひそかに家を飛び出し、困難な旅をへて、ムスタン上部の師ギドゥンのところに至ることができた。彼はそこで数多くの教えを授かった。たとえば超越的な知識の完成、すなわちプラジュニャーパーラミター(般若波羅蜜)、論理的理性の指南、すなわちプラマーナ、あるいは宇宙論、心理学、すなわちアビダルマの経典などであった。

 一ヶ月の集中的な学習だけでドルポパは、各仏教のジャンルに関連した法のことば(チューケ chos skad)をマスターし、討論に参加することができた。これが人目を引いた最初のできごとだった。

 その頃ギドゥンは彼の叔父シャキャ・ブムから緊急のメッセージを受け取った。シャキャ・ブムが教えているツァン地方のサキャ僧院にギドゥンが来るべきだというのだ。ギドゥンはムスタンの支援者や生徒たちに、すぐに戻ってくると約束し、サキャへ向かった。サキャは当時チベットにおける輝かしい学問の中心地だった。そのあいだドルポパはムスタンでふたりの熟練した僧のもとで勉強をつづけた。

 

2 サキャ大僧院での勉学

 二年後、ギドゥンはムスタンへの帰郷の準備をはじめたが、叔父のシャキャ・ブムやほかのサキャ寺の教師たちはそれを許そうとしなかった。彼は使者をムスタンに送って説明し、ドルポパにはサキャに来るよう誘った。

 ドルポパがサキャに着いたのは1312年、23歳のときだった。ふたたび以前の教師のもとで学び始めた。この時点ですでに彼はもっとも早く高みに達した生徒だとみなされていた。彼は超越的な智慧の完成(般若波羅蜜)、論理的認識法(プラマーナ)、そして宇宙論および心理学(アビダルマ)の学習に専念した。

 彼の学友らはこのアプローチの仕方に反対し、ひとつのテーマに集中するようすすめたが、彼はそれを無視し、それどころかあらたにボーディチャーリヤーヴァターラ(Bodhicaryavatara)、そしてヴァジュラーヴァリータントラ(Vajravalitantra, rDo rje phreng bai rgyud)やブッダカパーリタントラ(Buddhakapalitantra, Sangs rgyas thod pai rgyud)などの密教経典を加え、学習にはげんだのだった。わずか一年半で、彼は上記の大乗経典やその注釈をマスターした。

 この集中的な学習のあいだ、ドルポパはなおも根本的な先生であるギドゥン・ジャムヤン・タクパから特別な教えを授かりつづけた。ドルポパの早期の進歩に関わったこの教師については、ほとんど何も知られていない。ギドゥンはロンパ・シェラブ・センゲ(Rongpa Sherab Senge 1251-1315)とチョクデンという訳経師のもとでカーラチャクラを学んだ。彼が重きを置くようになるタントラはこのカーラチャクラだった。

 サキャで、ドルポパは無数の教えを授かった。そのなかでも、もっとも重要だと思われるのは、『ボーディサットヴァ三論(Sems grel skor gsum)』『仏性に関する十の経典(sNying poi mdo)』『了義に関する五つの経典(Nges don mdo)』そして『マイトレーヤの五法(Byams chos)』だった。これらは後半生においてドルポパがつねに教えた経典や論考だった。彼は論議を呼んだ彼自身の理論のために、それらから引用することが多かったという。

 ギドゥン自身は顕密すべての主題の申し分ない専門家だった。それは関連した瞑想についても同様のことが言えた。本物の教えであれば、偏見を介すことなく褒め称えることができた。とりわけ彼が賞賛を惜しまなかったのが、カーラチャクラとその瞑想の仕方だった。とくに彼は六支ヨーガ(シャダンガヨーガ)を崇めていたので、繰り返しそれを賞賛した。

 このことからじつに多くの学問的な僧がタントラ的な瞑想を実践するようになった。教師のこの特別な瞑想法への傾斜は、若いドルポパに甚大な影響を与えた。ギドゥンからすべてのイニシエーション法、経典の解釈、カーラチャクラの口伝を授かり、ドルポパはこの伝統の専門家となった。そして実際何年間か、彼はギドゥンの助手を務めたほどだった。

 この時期ドルポパはまた、ほかの偉大なる高僧、たとえばサキャ法王ダクニ・チェンポ・サンポ・ベル(Daknyi Chenpo Zangpo Bal 1262-1323)やギドゥンの叔父シャキャ・ブムなどから多くの教えやイニシエーションを授かった。またクンパン・タクパ・ギェルツェン(Kunpang Trakpa Gyaltsan 1263?-1347?)からは、プラジュニャーパーラミター(般若波羅蜜)やプラマーナ(論理的認識法)、アビダルマ(宇宙論および心理学)の経典などを学んだ。

 しかしもっともドルポパにとって意義深かったのは、カルキン・プンダリーカ(Kalkin Pundarika)によるカーラチャクラ・タントラの注釈を学んだことだろう。ドルポパはすでにギドゥンのもとで学んでいたのだが。

 サキャのシャルパ家(Sharpa)のふたりの高僧もドルポパにとっては重要な教師だった。それはドルポパにプラマーナを教えたセンゲ・ベル(Senge Bal)と道果、すなわちラムデ(Lam bras)を教えたクンガ・ソナム(Kunga Sonam)の兄弟だった。ラムデはヘーヴァジュラ(Hevajra)のタントラ群と並ぶサキャ派の重要な教法である。

 このようにドルポパはマハーヤーナとヴァジュラヤーナの双方をサキャで集中的に学び、この分野の専門家になった。とくにプラジュニャーパーラミター、プラマーナ、アビダルマは深く理解した。

 1313年、ドルポパ23歳のとき、家出をしたことを許してくれた両親が、寛容にも彼に喜捨をした。はじめての公衆を前にした講話のためである。ジェツン・ターラナータが記すところによると、デビューの準備をしている頃、ドルポパはダナクの寺院に行き、3ヶ月滞在し、さまざまな修練法のほか、『マイトレーヤの五論(Byams pai chos lnga)』を師リンチェン・イェシェ(Rinchen Yeshe)から学んだ。

 これはとても興味深い。というのはターラナータの先任者であるジェツン・クンガ・ドルチョク(Jetsun Kunga Drolchok)によれば、ブドゥン・リンチェン・ドゥプ(Budon Rinchen Drup)は、ダナクのリンチェン・イェシェによって確立されたチベット哲学がドルポパによって高められたと感じていた、というのである。他空説のようなドルポパの後期の思想体系にこのような影響がありえるのか、はなはだ疑問ではあるが、それについては第2章で扱いたい。

 サキャに戻ったとき、ドルポパは師のシャルパ・センゲ・ベルの招きによって、四つの大きなテーマによる講演を行うことになった。四つのテーマとは、プラジュニャーパーラミター、プラマーナ、アビダルマと僧院の規律である。

 朝、プラジュニャーパーラミターとアビダルマを教え、正午の茶のあとプラマーナと規律を教えた。彼の講演は聴衆から絶賛を浴びたが、一部は一度に扱うにはテーマが多すぎるとして批判した。

 この時点でドルポパはサキャ派における有望な若手学者だった。彼のサキャ派の学者としての将来は明るく輝いているように見えた。

 1314年、24歳のドルポパはツァン地方やウー地方の寺院めぐりをはじめた。それは彼の学習の総仕上げであり、チベットのほかの地域のすぐれた学者たちと会うためだった。

 ドルポパは多くの学者たちと討論を重ね、話を聞いた。学者たちもドルポパの頭のよさと学習能力には舌を巻いた。彼が将来偉大なる僧になることは約束されたようなものだった。

 この時期彼は有名になり、遍智(クン・ケン Kun mkhyen)と称されるようになった。というのも彼はシャタサーハスリカー・プラジュニャーパーラミター(Satasahasrika prajnaparamita)、すなわち般若波羅蜜十万頌をマスターしていたからである。ドルポパは終生この遍智という名で呼ばれることになった。

 この旅のあいだにドルポパはチュールン寺院の住持ソナム・タクパ(Sonam Trakpa 1273-1352)から受戒を授かった。ソナム・タクパは若い頃ブドゥン・リンチェン・ドゥプ(Budon Rinchen Drup)から受戒を授かり、のちにはサキャ派大師ラマ・ダンパ・ソナム・ギャルツェン(Lama Dampa Sonam Gyaltsen)、その長男のドゥンユ・ギェルツェン(Donyo Gyaltsen)に受戒を与えていた。

 ドルポパはまたそのとき、終生屠られた肉はたべないことを誓った。

 ドルポパは旅のあいだに、カギュ派やニンマ派の教えを学んだ。断(チュー gCod)や苦悩の沈静(シジェ Zhi byed)も含まれていた。これらの教えの実践をしているあいだにも、彼はツァン地方やウー地方を旅していた。

 彼はラサへ行き、チベットでもっとも聖なる寺、ジョカンに詣でて、祈りを捧げた。彼は悟りへの覚醒について書く一方で、ジョウォ仏への讃歌を作った。彼はまたジョカンでさまざまな供え物をしたが、それはそれ以降慣例となった。

 おそらく旅の帰途、ツァン地方を通るとき、ドルポパはトプ(Trophu)の寺院に立ち寄り、供え物をし、大きな弥勒仏と大きなストゥーパの前で祈りを捧げた。これらはトプの訳経師ジャムパ・ベル(Jampa Bal)が建造したものだった。大きなストゥーパを目にして、ドルポパはこのような大きなストゥーパを、いやもっと大きなストゥーパを建てたいと願った。この願いはそう遠くない将来にかなうことになる。

 ターラナータによると、この旅の終わりにドルポパは故郷のドルポに戻り、家族のもとで一年間過ごしたようである。それから彼はサキャにもどり、多くのイニシエーションと精神的な教えを与えた。それからヘーヴァジュラの隠棲を行い、ヘーヴァジュラと8人の女神のヴィジョンを得た。

 29歳になる1321年までに彼は30人以上の教師のもとで学んだ。このなかでもっとも有名なギドゥン・ジャムヤン・タクパ・ギャルツェン(Gyidon Jamyang Trakpa Gyaltsen)は70ものイニシエーションと教えを授けたという。

 

 

3 ジョナン寺へ

 1321年、29歳のとき、ドルポパははじめてジョナン寺を訪ねた。のち彼はしばしば弟子や伝記作家のレー・ギャルツェン(Lhey Gyaltsen)にこの訪問のときの経験について語った。

 

<どんなに多くの学者が集まろうと、私は引け目を感じたことはなかった。私の自信は増すばかりだった。ところがはじめてジョナンに来たとき、すべての男も女も真剣に瞑想をしていて、瞑想によって真実性を理解しているのを見て、どうしようもなく引け目を感じた。彼らには信仰心がわきあがり、純粋なヴィジョンが現れているようだった。>

 

 ジェツン・ターラナータによると、ドルポパはそれから中央のウー地方へ旅をした。ツルプ寺で彼は第3代カルマ派のランジュン・ドルジェ(Rangjung Dorje)に会い、仏教の教義について広く論じあった。

ジョナンでのドルポパの初期の活動は、あきらかに触媒の役目を持っていた。1322年、30歳のドルポパはサキャを去り、師ヨンデン・ギャンツォ(Yonden Gyantso 1260-1327)と会うためジョナンにもどった。そして彼はカーラチャクラ・タントラと多くの究境の完成、すなわち六支ヨーガの伝授を求めた。

 ドルポパはそのときすでに彼自身大師として認められ、ジョナンへ行くときも8人の侍従僧を伴うほどだった。サキャでは、ドルポパがチョナンに着く前夜、彼の師匠であるクンパン・タクパ・ギェルツェンは多くの僧に囲まれた観音菩薩が法の光に照らされながらチョナンに来る夢を見たという。

 またおなじ夜ジョナンで、大師ヨンデン・ギャンツォはシャンバラの国王カルキン・プンダリーカがチョナンで仏法の勝利の旗を掲げる夢を見たという。

 この吉祥の夢を見て、ヨンデン・ギャンツォはドルポパに完全なカーラチャクラのイニシエーションを与える決心をした。また菩薩三論、六支ヨーガの深奥なことば(zab khrid)を伝えることにした。彼はまたカチュー・デデン(Khacho Deden)の庵室の使用を提案し、ドルポパはすぐにそれを受け入れ、瞑想の修行に入った。

 この瞑想修行のすぐあと、将来のドルポパの弟子で伝記作家となるクンパン・チューダク・バルサンがはじめてズム・チュールン(Dzum Cholung)の寺院でドルポパに会った。ここでドルポパはゾクチェンとナーローパの六法(na ro chos drug)の教えを受けていた。

 クンパンは即座にドルポパが特別であることがわかった。チョナンにもどると彼はドルポパをギプク(Gyiphuk)の隠遁所に招き、さまざまな教え、とくにカーラチャクラを伝授するよう要請した。彼は翌年ずっとドルポパのそばにとどまり、個人的な侍従のようになった。

 その年の春、師ヨンデン・ギャンツォはドルポパにチャナン寺で講義をするよう説得し、密教の教え、すなわち道果(ラムデ)や、グヒヤサマージャ・タントラやチャクラサムバラ・タントラのパンチャクラマ、苦悩の軽減(シジェ)、断(チュー・コル)などに集中するよう願った。

 同時にサキャのクーン家(Khon)のティシュリ・クンガ・ギャルツェン(Tishri Kunga Gyaltsen 1310-1358)からも招かれ、カーラチャクラのイニシエーションを行うよう申し入れがあった。

 ジョナンにもどり、ドルポパはカチュー・デデンで、新たな厳しい一年間の六支ヨーガの瞑想に入った。この瞑想中、彼は六支のうちの最初の四支を理解きわめた。クンパンはこの瞑想の結果をつぎのように述べる。

 

<個人的な撤退(プラティヤーハーラ pratyahara)と精神的安定(ディヤーナ dhyana)を基本として、師は数え切れないブッダと浄土を見ることができた。呼吸のコントロール(プラーナーヤーマ pranayama)と保持力(ダーラナー dharana)を基本として、師は祝福すべき精神的ぬくもりによって格別な経験と覚醒を得ることができた>

 

 他空観(Zhentong)の考えが最初にドルポパの心に現れたのは、この瞑想中のことだった。しかしジェツン・ターラナータのカチュー・デデンの隠棲所への指南書によれば、ドルポパは六支ヨーガのうち最初の三支をきわめたにすぎない。

 瞑想をするとき、すべての対象から感覚器官を離すためには、完全な暗闇が必要だった。ドルポパが庵室(ムン・カン mun khang)を使ったのはまちがいない。ほかの著書でターラナータはこの環境について述べている。

 

[ドルポパは]六支ヨーガの教えを経験に変えた。特別な講義のとき以外は、ドルポパはカチュー・デデンの隠棲所にこもり、だれとも会わなかった。ドルポパがプラティヤーハーラとディヤーナの経験と覚醒を得る前、師(ヨンデン・ギャンツォ)は「急いで教えを与えなければならない」と述べたが、ドルポパは慎重に導いてくれるよう頼んだ。瞑想するとき、ドルポパはカーラチャクラ・タントラが説明するように、プラーナーヤーマのしるしを得ることができた>

 

 のちにおなじ著書のなかでターラナータは意味深いことを述べている。

 

<カチュー・デデンにいるとき、他空観という特別な考えおよび瞑想法を得たにもかかわらず、ドルポパは数年間ものあいだ、そのことをだれにも話さなかった>

 

 この瞑想修行はドルポパの精神的発展において中核を成すものだった。しかしながら5年以上ものあいだ、彼は他空観について人と話すことはなかったのだ。

 1325年、瞑想修行が終わると、師ヨンデン・ギャンツォはドルポパに、法統を継承し、チョナン寺の伝法位に立つよう促す。このことは、ドルポパの希望とは相反するものだった。ドルポパは、寺院の高位につくことで派生する責任や規則に縛られず、人里離れた隠棲所で瞑想に集中したかったのだ。

 1326年春、決心する前、彼はラサへ行った。ジョカン寺を訪ね、観音菩薩像に、さらなる瞑想に励むべきか、ジョナン寺のトップに立つべきか、そのどちらが仏教に貢献することになるかを聞こうと考えたのである。

奇跡的に、菩薩像の胸から蓮の花飾りのかたちをした光線が射した。そして像はチャナン寺の伝法位に就き、仏法に寄与せよと歌ったのである。

 1326年の秋、ドルポパはジョナンにもどった。ここにドルポパは正式にヨンデン・ギャンツォの後継者として伝法位に就いた。これ以降彼はチョナン寺で前任者の生活様式を引き継いだ。夏と冬のみは瞑想修行を行った。そして秋と春には僧らに教えを与えた。

 ドルポパがとくに教えたのは、カーラチャクラ・タントラ、三菩薩釈(Sems grel skor gsum)、必要三義(sNying poi mdo)、了義の五つの経典(Nges don mdo)、マイトレーヤの五論(Byams chos)、ナーガールジュナのいくつかの著作、さまざまな密教の教えなのであった。

 興味深いことに、カルキン・プンダリーカによるカーラチャクラの注釈とあわせるように教えたという。

 

 

 

4 大仏塔建造と他性空

 何年も前、チョナン寺の創健者クンパン・トゥクジェ・ツォンドゥ(Kunpang Tukje Tsondru 1243-1313)は弟子のヨンデン・ギャンツォに語った。

 

<この私の隠棲所に、息子よりすぐれた孫が、そして孫よりすぐれたひ孫が来るであろう。将来ひ孫はサンデン(Zangden)上部で法を教え、サンデン下部に大きなストゥーパを建てるであろう>

 

 彼の師であるヨンデン・ギャンツォが1327年に逝去したとき、ドルポパはトプ(Trophu)の大ストゥーパの前で祈った祈祷のことばで満たした記念碑塔を建てた。このストゥーパはもちろん師の恩への感謝の気持ちを表したものである。

 それからまた彼はこのストゥーパは、勉学や黙想、瞑想などの機会に恵まれない人々の崇拝の対象となるべきだと感じていた。そうすることによって人々は徳を積むことができるだろう。

 大きなストゥーパは1329年春、サンデン上部に建てられたが、すぐに倒れてしまった。1330年春、サンデン下部に巨大ストゥーパを建てる基礎プランが提出された。ドルポパのまわりのだれもが、ストゥーパがあまりに大きすぎ、この野心的すぎるプロジェクトは失敗に帰するだろうと考えた。

 彼らは土と石の廃墟だけが残り、他者からの嘲りのもとを作るだけではないかと本気で心配した。ドルポパはつぎのようにこたえた。

 

<私がはじめて伝法の旅に出たとき、トプ訳経師のストゥーパを見た。それを見ると、おびただしい祈りのことばが出てきて、より強い信仰心を持つようになったのだ。またもし巨大な仏像やストゥーパを建てたなら、その人の徳と智慧は成就されると、数え切れないくらいの顕密経典が述べている。世界の本性を想念するのは、徳の基礎中の基礎である。もし生きるものの条件を考えるなら、私はそれらにたいし無限の慈悲の心をもってしまう。疑いなく、このストゥーパを見、聞き、触るものはみな解放されるであろう。自由の種が植えられ、他者への厖大な恩恵が生まれるだろう。それに反対する人々はあとで後悔することになるだろう>

 

 ストゥーパの建築は信じられないほど活気あふれる雰囲気のなかで進んだ。たくさんの熟練した工匠や労働者が偉大なる事業に貢献しようと、チベット中から集まってきた。建築資材や食べ物もあらゆる方向から集まってきた。台所や休憩室が何百人もの労働者のために用意された。彼らはマニのマントラを唱え、グルたちの名を呼びながら肉体を動かした。

ドルポパ自身も土や石を運んだり、ときには壁を作る作業に加わったりした。彼はストゥーパの西側に傾斜路を作らせ、ロバが塔の本体に土砂を運びやすいようにした。南側と北側にはもっと長い傾斜路を作らせた。それによってたくさんの資材を運び入れることができた。工匠たちは何度もストゥーパの周囲をまわったが、すこしでも列を乱すと崩壊し、また建て直さねばならなかった。

 ドルポパのプロジェクトは広く知れ渡り、チベット中から金、銀、銅、鉄、絹、茶、布、薬などが寄進された。

 この頃までにドルポパは数多くの行者、学者、訳経師を集めていた。たとえばクンパン・チュータク・バルサン(Kunpang chotrak Balzang)、マティ・パンチェン・ジャムヤン・ロドゥ(Mati Panchen Jamyang Lodro 1294-1376)、ロツァワ・ロド・ベル(Lotsawa Lodro Bal 1299-1353)、そして偉大なる座主チョレー・ナムギェル(Choley Namgyal 1306-1386)らである。

 彼らはみなストゥーパの建設に加わった。ニャウン・クンガ・ベル(1285-1379)もおそらく参加していた。というのもストゥーパが奉献される1333年より前にチョナンにおいて、ドルポパの『仏教総釈(bsTan pa spyi grel)』のための序論を書き上げているからである。

 ストゥーパの建築という肉体労働によって、ブッダの教えの究極的意味についての講義が生まれたといえるだろう。その様子をつぶさに見たクンパンによると、ストゥーパの真ん中に長い柱が置かれた1330年冬に先立ち、ドルポパは集まった聴衆に向かって『三菩薩釈』を講義した。この機会に、ドルポパははじめて、自性の空(rang stong)の相対性と他性の空(gzhan stong)の絶対性について明確に区別した。

 しかしながらターラナータによれば、ストゥーパの基礎が完成し、サンデン上部で伝法位に就いたあと、ドルポパははじめて十人ほどの聴衆に他空観を説いたという。それは『仏性についての十の経典』を解釈する過程であきらかにしたものであった。

 いずれにしてもストゥーパを建てる最中にドルポパは悟りに達し、はじめて他性空やそれに関連する考えを公にしたのである。

 ジョナンのストゥーパは、ヴィマラプラバー(Vimalaprabha)の描写に沿って注意深く建てられた。つまりブッダがはじめてカーラチャクラを教えた月の御殿の光栄のストゥーパ(dpal ldan rgyu skar gyi mchod ldan)とおなじものが造られたのである。

 ドルポパによれば、チベットでは知られていなかった他性の空の絶対性を悟ることができたのは、彼の師たち慈悲によるところが大きいという。また彼が三宝とその象徴するものに身を捧げたからであり、仏法の恩恵のために彼がすべきことをしてきたからである。

 伝記作家のレー・ギャルツェンによれば、ドルポパが絶対的真実性を悟ったのは、師、ブッダ、菩薩、そして偉大なるストゥーパ(sku bum chen po)といった驚くべき三宝の建設がもたらしたのである。

 他性空の悟り、カーラチャクラ・タントラの教え、そしてジョナン・ストゥーパのあきらかな関連性について、ドルポパはつぎのように歌っている。

 

ああ、私の幸福の取り分はすくないけれど

この発見は幸福以外の何者でもない

 

この発見が愚か者にもたらされるなんて

カルキン帝の祝福だろうか

 

わが肉体がカラーパ(Kalapa)の庭に着いたのではないけれど

カルキン帝がわが心に入ったということなのか

 

わが知性は三宝のなかで洗練されていないけど

須弥山を建てたことにより海が迸り出た

 

師、ブッダ、カルキンに敬礼します

その本質は高貴な者にも理解するのが難しい。

ストゥーパも同様だろう

 

 巨大なストゥーパの建造に関して言われた「須弥山(メール山)を建てる」と、祝福と覚醒した力から流れる「海」とは、ドルポパの代表作『了義の海:山の法(ダルマ)』(Ri chos nges don rgya mtsho)のことである。

 日時は明記されていないが、ドルポパの『仏教総釈』の序論に言及されていることから、この論文は13331130日のストゥーパ奉献よりも前に完成していたとみられる。序論は1330年の5月か6月の30日に弟子ニャオン・クンガ・ベルによって書き上げられているからだ。

 このように偉大なるモニュメントの建造は、ドルポパにとって、内なるプロセスについて深く考えさせる契機となった。これ以降ドルポパは無数の意味深い作品を著わしたのだった。

 

 

5 時代の寵児となった他性空

 最初の「他性空宣言」のあと、ドルポパはそれを説明するためにいくつもの論文を書いた。しかしターラナータによれば、これらの論文が出回ったものの、ドルポパの使った一般的でない仏教用語(chos skad)のため、多くの学者は理解することができなかったという。

 容易に慣れたカテゴリーに分けることのできない著作物を目の当たりにして、学者たちは疑いなく従来の自信を揺るがされていた。とはいえターラナータの別の書によると、ドルポパが「他性空宣言」をしたとき、すべての人が幸運に感じ、勇気づけられ、喜んだという。

 サキャ派、ゲルク派、カダム派、シャル派、ボドン派の支持者が他空観の哲学(grub mtha’)について聞き、心をつかまれる(snying gas)、あるいは魂を揺さぶられる(klad pa gems pa)のは、さほどあとの話ではなかった。

 およそ三百年後、サキャ派高僧ジャムゴン・アメイ・シャプ(Jamgon Amey Zhap 1597-1659)は、ドルポパがサキャ派開祖の教えと矛盾する他空観を教え始めたとき、裏切られたと感じたサキャ派の学者たちは激怒したと主張した。

 思い起こさなければならないのは、ジョナンはサキャ派の支部のように考えられていた点である。ドルポパはサキャ派の僧として教育を受け、この時点までサキャ派の伝統的な教えを受け入れていたのだ。

 アメイ・シャプはすべてのサキャ派の学者がドルポパを拒絶したと主張するが、あきらかに誇張である。彼自身の祖先であるティシュリ・クンガ・ギェルツェン(Tishri Kunga Gyaltsen)、彼のふたりの息子ダ・エン・チューギ・ギェルツェン(Da En Chogyi Gyaltsen 1332-1359)とダ・エン・ロド・ギェルツェン(Da En Lodro Gyaltsen 1332-1364)、ドンユ・ギェルツェン(Donyo Gyaltsen)と彼の兄弟ラマ・ダムパ・ソナム・ギェルツェン(Lama Dampa Sonam Gyaltsen)はみなドルポパに教えを説くよう要請したのだから。

 17世紀のチョナン派のリーダーであるターラナータによれば、ジョナン寺に来てドルポパと論じ合った人々はみなその理論に確信をいだき、ドルポパを信仰するようになったという。

 いっぽう反対意見や拒絶を書いて送った人々は、ドルポパからの申し分ない返答を受け取り、理解を示したという。

 非常にはっきりした例が、ドルポパとプトゥン両者とともに学んだバラワ・ギャルツェン・バルサン(Barawa Gyaltsen Balzang 1310-1391)である。バラワは、ドルポパが「世界の基礎の智慧(kun gzhi ye shes)」と「世界の基礎の意識(kun gzhi rnam shes)」とを区別している点について、いくつか疑問を持った。そしてそれらを書いてドルポパと弟子たちに送ったのである。彼は弟子たちから返答を受け取ったが、疑問は解けなかった。

 のちにバルサンはドルポパ自身から返答を受けたが、それらは満足いくものだったものの、弟子たちの意見とは異なっていた。

 最終的にバルサンはサキャ・チュサンの隠棲所でドルポパと面会した。ドルポパの説明は書面に書かれたものとおなじだった。バルサンはドルポパの教えの重要性をはじめて理解した。

 このようにさまざまな学者と論議を重ね、ドルポパはついに彼の代表作、『了義の海:山の法(Ri chos nges don rgya mtsho)』を著した。

 

 

 

6 カーラチャクラのジョナン派版解釈

 1334年、ジョナン派の隠棲所デワチェンに滞在中、ドルポパは弟子のロツァワ・ロド・ベルとマティ・パンチェン・ジャムヤン・ロドゥ・ギャルツェンにカーラチャクラ・タントラとその釈論ヴィマラプラバーの新訳に着手するよう命じた。

 弟子にして伝記作家クンパン・チュータク・バルサンの要望に応じて、ドルポパ自身要点の アウトライン(sa bcad)とヴィマラプラバーへの注釈(mchan bu)をまとめた。しかし残念ながらこれらは最近出版されたドルポパ全集には含まれていない。

 ジョナン派新訳(jo nang gsar gyur)のいきさつに関するより重要な情報は、早期のションドゥン・ドルジェ・ギャルツェンのジョナン派訳への注釈から読み取ることができる。

 

<のち偉大にして卓越した大師、一切智者法主ダルマキールティシュリーバドラ(Dharmakirtisribhadra)、シュリー・カーラチャクラの成就者は注意深くこのタントラの意味をお考えになった。命に促されて、教えにしたがって、ロドゥ・ギャルツェンとロドゥ・バルサンポ、すなわち偉大な学者スティラマティ(Sthiramati)にしたがって正確に翻訳することのできる翻訳僧は、多くのインドのタントラや釈論を鑑み、翻訳し、校正し、完全翻訳版を完成することができた>

 

 この改訳版が完成して何年かのち、シェラブ・リンチェンという名の訳経師がドルポパにチベットにおけるカーラチャクラの伝統についていくつかの質問をした。ドルポパはジョナン派の翻訳に関してつぎのように述べた。

 

<ふたりのロドゥという名の訳経師は翻訳を一新するとともに、すばらしかったものにさらにすばらしいものを付け加えた。たびたびの詳細な解釈、研究、瞑想によって翻訳を完成し、秘密の教えだけでなく、タントラの注釈の深い意図をも発見するにいたった。そしてすべての偉大な師、勝利者、精神的息子たちのストゥーパの建造と付加から、究極の奥深いことばがあきらかになった。深遠なタントラの秘密のことばが完全にあきらかになった>

 

 カーラチャクラ・タントラとその釈論のジョナン派版翻訳についての興味深い論議は、ドルポパの後継者でチャナン寺座主だったジョナン・クンガ・ドルチョク(Jonang Kunga Drolchok)によってなされた。医師の長でカーラチャクラの成就者、チャン地方の法王、リクデン・ナムギェル・タクサン(Rikden Namgyal Trakzang 1395-1475)の自伝のなかで、クンガ・ドルチョクはドルポパに命じられた改訂版に関するチャムリン・パチェン・ソナム・ナムギェル(Chamling Panchen Sonam Namgyal)の意見を記録していた。

 

<一切智者プトゥンもまた(カーラチャクラ・タントラとヴィマラプラバーの)ション(Shong)版訳を解釈のための根本テキストとし、「修正すべき30の点がある」と述べた。したがってドルポから来た一切智者のブッダもまたふたりの翻訳官に命じ、彼らが新しい翻訳に取り組んでいるとき、早期にプトゥンによってなされた解釈は遅れをとってしまった。彼らは確信をもっていたので、了義のことばを完成することができた。

 ドル(Dol)版注釈によって細部を確定したあと、ドルポパは本質的な意味に関する釈論に取り組み、馬車方式を用いてあきらかにした。『了義の海』(Nges don rgya mtsho)、『仏教総釈』(bsTan pa spyi grel)、『第四集結』(bKa bsdu bzhi pa)などの著作がそうである。

 私は確信をもって言う。聖なるカーラチャクラ・タントラに関してこれ以上の著作は、シャンバラの北部にいたるまで、ないだろう。仏法に関する一般的なことがらは、プトゥンがまさっているかもしれないが、カーラチャクラの核心となると、ドルポパの慈雨に対抗することはできないのだ>

 

 ジョナン派版新訳は、たしかに他空観や教義の解釈と実践を確立し、広めるための重要な部分となった。カーラチャクラ・タントラとヴィマラプラバーはドルポパの革新的な教えの究極的な基礎となった。バイリンガルの弟子たちと論議を重ねることによって、ションドゥン・ドルジェ・ギャルツェン(Shongdon Dorje Gyaltsan)によって改訂されたド・ロツァワ・シェラブ・タク(Dro Lotsawa Sherab Trak)の初期の翻訳こそが深遠な意味(ニータールタ nitartha, nges don)の理解をさまたげていたことがわかってきた。

 ドルポパは1333年、ストゥーパの建造を終えたところだった。彼の代表的な著作『了義の海:山の法』はおそらく完成したばかりである。ドルポパ自身サンスクリットに精通していたが、まわりにはすぐれた訳経師がたくさんいた。マティ・パンチェン、ロツァワ・ロドゥ・ペー、クンパン・チュータク・バルサン、ディクン・ロツァワ・マニカシュリーといった訳経師はすべて、六支ヨーガの実践者か、カーラチャクラの学者だった。

 チベットでもっとも影響力のあるサンスクリット文法学者パン・ロツァワ・ロドゥ・デンパ(Pang Lotsawa Lodro Denpa 1276-1342)もまたドルポパに賛辞を惜しまなかった。

 チベットの歴史上、カーラチャクラの二大マスターであるドルポパとプトゥンが同時代人であり、ともにツァン地方に住み、共通の師、共通の弟子を持つというのは驚くべきことである。

 1334年のチョナン派の新訳の前に、プトゥンはションドゥン訳のカーラチャクラとヴィマラプラバーに彼自身の詳細な解釈をつけていた。そして毎年経典と解釈を講義していたのだ。

 ドルポパはもっと明確に自分なりの視点を打ち出し、注釈をまとめようとしていた。ヴィマラプラバーについてもその注釈と梗概を著すその動機について語っている。

 

<了義の本質がカーラチャクラの論釈のなかに見出されるので、それは驚くほどわかりやすい。間違いを防ぐため、私は他の経典と同様、ヴィマラプラバーの根本的な論文に梗概と注釈を加えたい>

 

 ドルポパのヴィマラプラバーへの注釈は、レー・ギャルツェンによって編集された著作リストのなかでも最初に挙げられるほど本質的である。カーラチャクラに関する38の論述のなかでも、もっとも重要なのである。

 ドルポパは彼のヴィマラプラバーへの注釈は並外れた著作と感じていたはずだ。つぎに引用する彼のことばからは、注釈よりも彼自身のことがよくわかる。

 

<カーラチャクラ・タントラへの論釈に彼自身の注釈を加えながら、法主ドルポパは叫んだ。「ああ、これはいったい誰の作品なのか。信じられないほどすばらしい!」

 手のひらを何度もあわせながら、彼は言った。「このように了義を理解するたび、私とは何者だろうかと思ってしまう」>

 

 たんなる傲慢ではない。ドルポパは六支ヨーガ、つまりカーラチャクラの究竟次第の成就者だった。彼はシャンバラのカルキン帝に触発され、ヴィマラプラバーの著者であるシャンバラ皇帝カルキン・プンダリーカの転生とみなされていた。ドルポパ自身、自分はプンダリーカの生まれ変わりだと考えていた。

 

 

7 隠棲と講義の日々

 ジョナン・ストゥーパの完成のあと、ドルポパは各地を旅し、先々で隠棲所に滞在し、瞑想に時間を費やした。それと同時に多くの小堂を建て、チベットの仏典を細かく吟味し、意義深い論文をたくさん著した。

 この時期彼はまた、多数の浄土やタントラの神々のヴィジョンを経験した。とくに彼はカーラチャクラの源泉であるシャンバラの浄土を見ることができた。実際に幻影によって彼はシャンバラに行くことができた。

 クンパンによるとドルポパはジョナンのギプク(Gyiphuk)の隠棲所にいるとき、数知れない経典を編纂したという。

 このときドルポパはすでに、チベットにおける大師のひとりだという評価を得ていた。サキャ・クン家のドゥンユ・ギャルツェンからは賞賛の手紙を得たし、サキャ・ティシュリ・クンガ・ギャルツェンからは金を、三代カルマ派ランジュン・ドルジェからは金のマンダラをもらった。

 ネズミの年(1336年)の秋、ドルポパはサキャ寺から講義をするよう招待された。数千人の聴衆にたいして講義をしたあと、ドルポパは哲学的な見方について論議をかわした。顕密の経典、とくにプラジュニャーパーラミター(般若波羅蜜)経をいわば証拠とし、自性の空(rang stong)と他性の空(gzhan stong)というカテゴリーをもうけて、相対的真実と絶対的真実を明確に分けた。

 地・虎の年(1338年)、ドルポパはチャナン寺の伝法位を辞し、ロツァワ・ロドゥ・ペーを後任に指名した。ロドゥ・ペーはその後17年、チャナン寺伝法位にとどまった。

 

 

8 元朝皇帝からの招待

 ドルポパ52歳、ロツァワ・ロドゥ・ペーがジョナン寺の座主について7年、猿年(1344年)の9月、モンゴル帝国の特使ザンバラ・トゥシュリ(Dzambhala Tushri)とバテ・ツェ・エン(Bhate Tshe En)が元朝皇帝トゴン・テムル(Toghon Temur)の勅令を持ってツァン地方にやってきた。ドルポパとプトゥンを中国に招くためである。

 ドルポパもプトゥンも朝廷の招待には応じず、隔絶した場所で禅定に入った。レー・ギャルツェンによれば、トゴン・テムルは激しく不愉快に感じ、ドルポパはなた招待されるのではないかと恐れた。そのような事態を避けるため、彼はそのあとの4年間、場所を変えながら隠棲した。その期間の終わりごろ、彼がチベットに残ってもよろしいという書簡が朝廷から届いた。書簡はこの国にとどまり、仏法のために尽くすようにということばが添えられていた。

 レー・ギャルツェンはこれらのできごとを率直に描いているが、クンパンがおなじことを語ると印象が変わる。実際彼の描いたできごとが1344年の招待のことなのか、それよりもあとの中国皇帝からの知られざる招待なのか、判然としない。

このより具体的な描写によると、著名な中国の学者ザラ・カラ(Dzala Kara)はラサ滞在中にドルポパの名を聞いたという。

 中国に戻ったザラ・カラは、皇帝ジャンペ・コルロ(Jampey Khorlo)によってケシャムカラ(Keshamkara)朝廷に召され、ウ・ツァン地方でだれがもっとも有名な学者かと聞かれた。

 ザラ・カラはドルポパを賞賛した。皇帝はザラ・カラ、ロポン・ツァカラ(Lopon Tsakura)、ザラ・カラに率いられた50人の人足、ランチェン・パドマ(Langchen Padma)ら4人の飛脚を含む大規模な一団に豪勢な贈り物を持たせ、ドルポパを中国に招くべくチベットにひそかに派遣した。

 一行がジョナンに着くと、ドルポパはザラ・カラと中国語で話し、最終的に中国へ行くことを承諾した。彼は一行に三ヵ月後、ラサで再会することを約束した。そして中国人は誰にも知られずにラサに行った。

 このバージョンによると、猿年(おそらく1344年)にドルポパは高弟クンパン・チュータク・ベル、ササン・マティ・パンチェン、チャンツェ・ロツァワ、マニカ・シュリに、彼とともにラサを訪ね、有名なジョウォ仏とシャーキャムニ仏を礼拝(らいはい)するよう命じた。ドルポパはロツァワ・ロドゥ・ベルに彼の帰還までジョナン寺の座主を代行するよう頼み、白檀の馬車に乗ってラサへ向かった。

 ラサで聖なる仏像に祈りを捧げると、帰ってきた答えは、もしドルポパが中国へ行くと、たいへんな災害がもたらされるということだった。しかし中国人への慈愛がなく、彼は中国に行く決心をした。この時期高弟リンツルワ(Rintsulwa 1297-1368)はすばらしいドルポパの像を造った。ドルポパ自身喜んで聖化の儀礼を行った。

 このあと物語は延々とつづくのだが、デパ・ツェニ(Depa Tsenyi)とチャンパ(Changpa)王が、ドルポパが中国軍に奪われないよう軍を動かすところがもっとも盛り上がる場面である。

 最終的にドルポパは非仏教徒と仏教徒、両者の哲学的見解に関して、長くて興味深い韻文の教戒を与えるべく中国に行く決心をする。マンズ・ギャルポ・チェンポ(Mandzu Gyalpo Chenpo)、すなわち偉大なるマンジュシュリー(文殊)の王である皇帝を啓発するのが第一の目的だった。のちがっかりした中国人に憐れみを感じ、ドルポパは魔術的な手段によって宮廷を訪ね、皇帝を喜ばしたという。

 この話はにわかには信じがたいが、詳細はのちに論ずることにしよう。どうやら実際にあった1344年の皇帝からの招待と、1358年から1360年にかけてのウー地方への旅がいっしょになり、さらに出所不明のあまたのエピソードが加わり、話が膨らんだもののようだ。

 たとえばドルポパが乗った馬車が泥の中で動けなくなり、中国の怪力男でさえ動かせなかったというエピソードがあるが、これは中国の公主がジョウォ仏を運ぼうとしたときラサ郊外の砂地で動けなくなり中国の大男でさえ動かせなかったという、マニカブン中のエピソードから取られたものである。

 

 

9 ジョナン寺を辞し、ラサへ旅立つ

 木の馬の年(1354年)、ロツァワ・ロドゥ・ベルが逝去した。彼は17年間もジョナン寺の伝法位にあった。ドルポパはジョナンにもどり、葬送儀礼を取り仕切ったあと、後継にチョレー・ナムギェル(Choley Namgyal 1306-1386)を指名した。彼は4年間この地位にとどまる。

 チョレー・ナムギェルは同じ年にすでに、チャン(Chamg)の領主ダイ・エン・ナムカ・デンパ(Dai En Namhka Denpa 1316-?)の助けで、ドルポパによって創建されていたか、拡張されたンガムリン(Ngamring)学院の法主を務めていた。

 それに先立つ何年ものあいだ、ドルポパはチベットの知識層、政界の著名人に教えを広めていた。そのなかにはサキャ派のジトク系(Zhitok)の大師クンパン(Kunpang ?-1357)、知事(dpon chen)のギャルサン(Gyalzang ?-1357)、チャンパ・シッディ(Changpa Siddhi)、ヤクデ・パンチェン(Yakde Panchen 1299-1378)らが含まれていた。

 チョレー・ナムギェルがチョナン寺の伝法位にある間、ドルポパはほとんどジョナン地区にいた。そのときこういうことがあった。年をとったので、最後の教えを受けたい者はチョナン寺に集まるようにということばをドルポパが発したのだ。

 何百人もの集まった聴衆のなかには、クンパン・チュータク・バルサン、シャルパ・リンチェン・ギャルツェン(Sharpa Rinchen Gyarutsen 1306?-1355?)、マティ・パンチェン・ロドゥ・ギャルツェン、偉大なる座主チョレー・ナムギェル、ネドゥク寺(Nedruk)座主で成就者のギャルツェン・ジュンネー(Gyaltsen Jungne)、カーラチャクラの成就者ドルジェ・ニンポ(Dorje Nyingpo)の姿があった。

 しばらくしてドルポパは、カダム派の古刹ナルタン寺で教えるべく、座主チムドゥン・ロサン・タクパ(Chimdon Lozang Trakpa)に招かれた。

 彼は弁舌巧みな人々に、ふたつの真実の違いについて説明した。すなわち本物の専門家は、相対的な「非-存在」を「存在」としたり、絶対的な「存在」を「非-存在」としたりすることに執着しないと。極端を超えた中間にあるというのだ。

 1358年末までにチョレー・ナムギェルは、ジョナン寺の座主であると同時にンガムリン学院の長であることを重く感じ始めていた。ドルポパの許可を得て、彼は両方の職を同時に辞した。ドルポパのもうひとりの高弟ゴンチョク・ギャルツェンがジョナン寺の座主を継いだのはブタの年(1359年)の1月だった。

 支配者であるツァンのサキャ派と新興勢力のウーのパクモドゥ派の長引く争いが、チベットの仏教共同体、寺社にダメージを与え、ドルポパも次第にうとましく感じるようになった。

 彼は唯一それから逃れる方法はラサへ行き、ジョウォ仏に祈ることだと考えた。この仏像に祈るのは、ブッダ本人に祈るのとおなじだと彼は考えたのだった。

 ドルポパはすでに66歳であり、晩年は生きるのが重苦しい(sku sha lcis pa)と感じるようになっていたので、ラサへの旅はかなり困難だった。彼の体躯は通常人の倍もあり(phal pa nyis gyur tsam gyis sku che)その存在感は数百人の聴衆でさえ魅了した。ドルポパの前にやってくると、いかにも重要そうで威厳のある人々も、子どもにかえったかのように見えた。

 地の犬の年(1358年)の5月16日、彼は舟に乗ってツァンポ川を下り、止まっては川岸で聴衆に講義をした。彼は約一年、ネーサル(Neysar)とチュールン(Cholung)に滞在し、講義を行った。サキャ派の15代目ラマ・ダムパ・ソナム・ギャルツェン(Lama Dampa Sonam Gyaltsen)はチューリンでドルポパに会い、教えを受けると、『第四集結 』と論注の編集を依頼した。

 さらにいくつかの招待状がウー地方から届いた。とくにツァルパ(Tshalpa)の首長とドルポパの高弟タンポチェ(Tangpoche)やブムチェンポ(Bumchenpo)から招きがあり、地のブタの年(1359年)の4月、彼は御輿に乗って旅に出た。

 ゆっくりとツァン地方からウー地方へ向かう沿道で、ドルポパは熱烈に歓迎され、さまざまな寺院を訪ねた。聴衆はときには集まりすぎ、その末端では十分に声が聞き取れなかったが、口から口へと伝えられ、届けられた。

 1354年以来高弟リンツルワが座主を勤めていたドゥルン・ナムギェル寺(Dolung Namgyel)で講義したとき、数百人の聴衆の先頭でドゥエンシャ・ションヌ・ギャルツェン(Duensha Zhonnu Gyaltsen)と家臣たちは教えを受けた。

 

 

10 中央チベットの熱烈ドルポパ・ブーム

 おなじ年の6月末、ドルポパはようやくラサに着いた。彼はジョウォ仏とシャカムニ像を金めっきするために金を、そしてバターランプのために三百貫のバターを献納した。彼はマルポリ(Marpori)、タクラ・ルプク(Traklha Luphuk)、ラモチェ(Ramoche)におよそ6ヶ月滞在した。

 ドルポパはとくに、各地からやってきた無数の教師たちに六支ヨーガの奥深い教えを授けた。これは信じがたい光景だった。あまりに多くの聴衆が仏法について知りたがり、建物に入りきれないほどだった。ある人々は聞くことすらできず、またあとからやってきた人々は建物の中に入れさせてもらえなかった。建物の中に入っても、講堂に入れない人々もいた。

 あまりに多くの教えを要求されたのと、あまりに多くの奇妙な体験(lus nyams)をしたため、ドルポパはラモチェ・カンサル(Ramoche Khangsar)を出て、ショル(Zhol)に滞在しなければならなかった。あまりに多くの人が教えを聞きたがったため、扉は壊れ、階段が崩れ落ちた。廊下の端には恐ろしい形相の犬がたくさんつながれていたが、押し寄せる人々に恐れをなしたほどだった。

 あるときドルポパは、近くのツァル・グンタン寺(Tshal Gungtang)に招かれ、盛大なセレモニーでもって迎えられた。彼はカーラチャクラ灌頂、その他の教えを領主デレクに与えた。それからドルポパは寺の外に出て、解説者によって教えをリレーする方式で聴衆に講義を伝えた。

 あるときドルポパがラサのチョカン寺のお堂のなかでチョウォ仏の前に座っているとき、領主のゲウェイ・ロドゥ(Geway Lodro ?-1364)が灌頂を要求してきた。しかし領主ルンドルブパ(Lhundrubpa)も彼をラゴン(Lagong)に招いていて、聴衆があふれんばかりだったため、夜、ドルポパはひそかに出かけ、ゲウェイ・ロドゥ率いる団体にハヤグリーヴァの灌頂を施さなければならなかった。彼はまた夜のうちにチョウォ仏の祝福を受けなければならなかった。というのはその日、市場からもあふれるほどの聴衆が来ていたからだった。

 ネズミの年(1360年)の1月末、ドルポパをジョナンから迎えに来た一行が到着した。ラサの人々はドルポパがラサを離れると聞いて失望した。

 ドルポパがガルチュン・ゲデ(Garchung Gyede)に着いたとき、ギャン(Gyang)の平原にはたいへんな数の人と馬がいた。彼の乗った御輿は通り抜けることができなかったため、僧侶たちが手を取り合って御輿を囲み、祝福を欲する人々は列を作って御輿の下をくぐらなければならなかった。

 チュカ(Chukha)に着くまでこのような調子だった。僧侶たちは『仏教総釈』(bsTan pa spyi grel)などの経文を読み上げ、大衆はヒステリックに泣き叫んでいた。大衆のほとんどが取り乱し、歩くことさえできなかった。陽は暖かく、空は澄んでいたが、大気は虹で満ちていた。ドルポパが渡し舟に乗ったとき、人々はあとを追って川に飛び込み、それをほかの人々が救うというありさまだった。

 サン(Sang)下谷でドルポパはサンプ(Sangphu)寺院の上下学院の長や僧らにもてなされ、そのあとニェン・カルナク(Nyan Kharnak)の渡し場から川を渡った。そしてラマ・ダムパ・ソナム・ギャルツェンの命によって準備された音楽と僧の隊列にエスコートされながらニェタン(Nyethang)へ向かった。

 彼がアティーシャのストゥーパに着いたとき、またも群集であふれかえっていた。彼の御輿が持ち上げられると、祝福をもらおうと人々は競って御輿の下にもぐりこもうとした。

 それから彼はキ・チュ川を渡り、ウシャン・ド(Ushang Do)の石碑を礼拝した。

 チュシュル・ドゥグ・ガン(Chushul Drugu Gang)で彼はラマ・バド(Lama Bado)の歓迎を受けた。そしてシンポリ(Sinpori)の寺の多くの宝物がドルポパのために運ばれた。

 そしてドルポパは僧の行列によってラブツン(Rabtsun)に迎えられ、ロポン・シトゥパ(Lopon Situpa)のアドバイスに従ってロポン・バルリン(Lopon Balrin)と彼の従者がやってきて仏法の教えを授かった。

 ドルポパはラブツンから、ロポン・ロチェンパ(Lopon Lochenpa)にエスコートされながらヤムドク・ナガルツェ(Yamdrog Nagartse)に行き、一ヶ月滞在し、教えや灌頂を授けた。ヤムドクの人々は彼の御輿を担ぎ、カロ(Kharo)峠を越え、オム平原に至った。

 そこでドルポパは領主のパクパ(Phakpa 1318-1370)の出迎えを受け、僧らによってラルン(Ralung)寺に導かれた。ここで多くの教えを授けた。彼はニンド(Nyingro)の薬泉で数日過ごし、ネニン(Nenying)や沿道の寺に立ち寄りながら教えた。

 ターラナータのニャン地方史によると、首領パクパ・バルサンと弟パクパ・リンチェン(Phakpa Rinchen 1320-1376)はしばらくの間ドルポパに仏法の教えを請うた。そして彼らはドルポパをジャングラ(Jangra)に招いた。しかしドルポパの体重のため(sku sha byor pa)、ジャングラまでの長い階段を登るのはきわめて困難だった。

 ドルポパは長い間階段の下のズィンカ(Dzingka)の戦場(g-yul thang)に滞在し、巨大なカーラチャクラの絹のマンダラを広げ、奉納儀礼をおこない、カーラチャクラの灌頂を授けた。

 このときドルポパは、近くのツェチェン(Tsechen)山の斜面にシャンバラの宮殿のヴィジョンを見た。そして将来ここに寺院が建ち、六支ヨーガの修行のみが行われるだろうと予言した。

 ジャングラを去り、ドルポパはパクパ・バルサンに導かれてネーサル(Neysar)へ至った。このときドルポパは首領に教戒を与えた。

「ブッダを永遠として、ダルマ(仏法)を真実として、サンガ(僧伽)を正義として崇めなさい! それは今も未来も功徳があり、あなたの地域は安定するでしょう」

 

 

11 プトゥンとの面会はたせず

 ついでドルポパはシャル(Zhalu)やツォクドゥ(Tsokdu)に招かれ、ウー地方でしたように解釈人を置いて群衆に広く教えが行きわたるようにした。いくつかのチベットのソースによれば、ドルポパがシャルに着いたとき、プトゥンは彼と論議することができなかった。1581年に書かれた仏教史のなかでドゥクチェン・ペーマ・ガルポ(Drukchen Payma Garbo)は述べる。

 

<プトゥンがリプク(Riphuk)にいたとき、(ドルポパが)論議を交わそうとやってきたが、プトゥンはできなかった。(ドルポパは)論議の開始まで宣言し、その爆竹の音はプトゥンの住居の壁を揺るがしただろう。この件はほかのソースにはない。ジョナンの瞑想家の体験に基づくものである>

 

 ジェツン・ターラナータはのちの同じエピソードに触れるが、法廷で争うような主張ではなく、ドルポパは「二番目の一切智者」プトゥンと論議を交えたかったと述べているだけである。しかしプトゥンは論議を交わすことができなかった。ターラナータによればこのことは本当にあった(don la gnas)という。

 クンパンのドルポパ伝は一連のできごとの元のソースである。彼によれば、プトゥンから手紙を受け取ったあと、ドルポパはシャルに行った。彼はシャルで暖かく迎えられ、ドルポパからも贈り物をした。それからプトゥンにメッセージを送った。プトゥンはシャルではなく、あきらかにすぐ近くのリプクにいた。彼は最初の手紙を受け取っていたし、シャルに移動し、仏法と衆生の益のために、論議を交わす絶好の機会だと知っていた。

 シャルではジャムヤン・ガルポら人々は戦々恐々とし、プトゥンに話しかけた。プトゥンは十分に理解していた。彼は従者に、ランダムに仏典を引いて持ってくるように命じた。ことの吉兆を占うためである。持ってきた仏典はマハーベーリー・スートラ(Mahaberi sutra, Phags pa rnga bo che)だった。

プトゥンが従者にその仏典を読ませると、たまたまドルポパの登場を予言していると思われる箇所だった。これは不吉なことだと考えられた。

 このできごとにみな恐怖感を抱いた。しばらく話し合ったあと、彼らは三つの白いほら貝、二つの金像、その他たくさんの贈り物をドルポパに渡した。そしてプトゥンはいま健康状態がよくないとドルポパに告げた。

 しかしドルポパはことの次第を知っていて、論議(thal skad)の開始を宣言した。その音はプトゥンの住まいの壁にひびを入れたという。

 シャル地域を去ったあと、ドルポパはふたたびナルタンに招かれ、座主や僧に『蓮華小釈』(’Grel chung padma can)を説いた。そのとき座主は立ち上がり、ドルポパを全身全霊で崇拝していることを情熱的に語った。それからジョナン寺の座主に導かれた一行が迎えに来て、ドルポパはジョナンへ帰っていった。

 その帰り道でも、ドルポパは何度も止まり、教えを授けた。とくにトプ(Trophu)にはしばらく滞在した。巨大なマイトレーヤ(弥勒)像と彼自身のジョナン・ストゥーパ建造を触発した大ストゥーパに、彼はバター灯明を捧げた。

 マイトレーヤ像の前でドルポパはトプ・ロツァワ伝を読みたがった。それを読み、彼は長時間涙を流し続けた。

 ジョナン寺に向かって百人もの列ができていたので、ドルポパは大小すべての寺院や学院で講義をした。群集が彼を支え、アヴァローキテーシュヴァラ(観音)の六次真言を唱えながら、祈り、信仰の涙を流し、谷間を抜けていく光景は信じがたいほど感動的だった。

 沿道では人々が、手で頭をさわってもらうかわりに、御輿の下をくぐって、ドルポパの祝福を受けた。

 

 

12 最後の日々

 ネズミの年(1360年)の5月16日、ドルポパは健康な体でジョナンの隠棲所に戻った。ウー地方でもらった厖大な贈り物はストゥーパやさまざまな寺院の堂に飾り付けられた。

 ドルポパは多くの贈り物を受け取り、四方からやってきた人々、たとえば大師ドゥン・シトクパ(Drung Zhitokpa)、偉大なるパンチェンパ(Panchenpa)、偉大なる座主にして首領のナムカ・イェシェ(Namkha Yeshe)らに教えを授け、住まいのデワチェンで瞑想生活に入った。

 その後ドルポパはズム・チュールン(Dzum Cholung)へ行き、勝利のストゥーパ(rnam rgyal mchod rten)を建てた。彼はまたインドの成就者シャヴァリパ(Savaripa)のヴィジョンを見た。シャヴァリパは彼に六支ヨーガを直伝した。ドルポパは6月にチョナンに戻った。

 鉄の牛の年(1361年)の秋、69歳になったジョナン寺座主のドルポパはサキャへ向かった。ドルポパは高弟らにさまざまな教戒を与え、チベットの寒い気候について述べたあと、暖かい場所に行けば寒さに煩わされることもない、と言った。

 弟子のひとりが、その行こうとしている暖かい場所はどこなのか、とたずねた。

 ドルポパの答えは「デワチェン(スカーヴァティ Sukhavati)」だった。そこなら暖かいと。弟子の一部は、それは彼の住まいだと考えた。そこはデワチェンと呼ばれていたから。しかし一部の弟子は、ドルポパがデワチェンの浄土へ行こうとしているのだと理解し、血の気が引いた。

 11月4日、ドルポパは寺院の僧に向かって、彼の代表作『了義の海』(Nges don rgya mtsho)の講義をはじめた。また新米の僧らには初歩的な実践について教え始めた。

 六日目、『了義の海』の半分ほどを終えたとき、彼は教えることのできるすべてを教えたと言い、経典を大事にするようにと付け加えた。新米の僧らにたいしては、その日四つの初歩階梯のすべてを詳しく教えた。

 彼は今まで以上に輝き、健康そうに見えた。彼はより広範囲にわたるアドバイスを僧らに与え、だれもが感極まって喜びの涙を流した。

 解散したあと、彼らは口々に言った。

「どうして師は空中を見ておいでになったのだろう? どうして師はあんなにお元気でいらっしゃるのだろう?」

 それからドルポパはストゥーパに行きたいと言った。従者たちは、いま雪が降っているので道があぶない、ととどめた。彼は、あなたたちはわかっていない、私は行かなければならないのだ、と言い張った。彼らはそれでも反対し、師が住まいに帰るのを手伝った。

 お茶が準備され、個人的な会話のため、弟子たちを呼びに従者が遣わされた。弟子たちがドルポパの前に集まると、彼は十相自在(rnam bcu dbang ldan)について詳しい説明をした。

 その晩は、彼はだれにたいしても愛想がよく、冗談を言い、よく笑った。それから彼は床に就いた。夜が更け、彼は従者の僧ンゴドゥプ(Ngodrup)にたずねた。

「夜明けはまだか?」

 従者は、夜はまだ半分しかすぎていないと答えた。ドルポパは、

「すぐに夜明けになるにちがいない」と言って寝床にもどった。

 しばらくして従者が起き上がり、「いま、夜明けです」と告げた。

 ドルポパは「それでは着るのを手伝ってくれないか」とこたえた。

 従者は衣を着けるのを手伝い、たずねた。「いま起き上がろうとしていらっしゃるのですか」

 ドルポパはないも言わなかった。従者は、ドルポパはすでに瞑想に入っているのだと考えたので、それ以上聞かなかった。朝日が昇ってきたとき、従者はドルポパの手をとり、「いま立ち上がりますか」とたずねた。

 ドルポパは顔をまっすぐ前に向け、瞑想に入っているように見えた。そしてなにも言わなかった。従者は判断に窮し、何人かの経験のある年長の弟子たちを呼んだ。

 彼らはその様子を見て、寒すぎるのだと考えた。そして日のあたるところへ出して、体をマッサージした。

 正午すぎ、目は閉じられたままで、いかなる病の兆候もなく、彼は深い瞑想に入っていった。それから彼は住まいに戻され、四方に敬礼した。数分後、彼はヴァジュラ・サットヴァ(菩薩)のポーズを取り、至福の世界へ去っていった。

 偉大なる座主チョレー・ナムギェルはドルポパの死の知らせを聞くと、すぐ遺体と対面したいという旨の伝言を送った。遺体はドルポパ自身のベッドの上に数日間保管されていた。ドゥン・シトクパ(Drung Zhitokpa)ら年長の高弟が訪れ、供え物を置いていった。昼も夜も人が訪れては供え物を置き、五体投地し、遺体の周囲を巡礼した。

 チョレー・ナムギェルが到着すると、ドルポパの遺体は木棺に移された。木棺は香油が塗られ、絹や宝石で飾られ、火葬場に置かれた。遺体は木綿の布のように柔らかかった。21日目から満月の日まで、偉大なる座主ラマ・パンチェンパに率いられた百人以上の高僧によって葬送儀礼がつづいた。

 虎の年(1362年)の1月6日夜、火葬儀礼がおこなわれた。遺体が火に供せられると、煙はわずかに槍の長さ分立ち昇っただけだったが、矢のごとくストゥーパに向かい、何度も周囲をまわり、それから西の方向へ飛んでいって消えた。

 そのとき厖大なお香、バター灯明、音楽などが供えられた。とくに男女の行者が瞑想小屋の屋根の上にバター灯明を供えたところ、谷全体が明るく輝きだした。

 煙が完全に消えるまで、人々は涙を流しながら、祈りを捧げた。

 あくる朝、火葬場は封印された。十日後に開封されたとき、残っていたものが弟子たちに分配された。この弟子たちはドルポパからヴィマラプラバーを伝授されていた。灰のなかには水晶のように明るい舎利(ring bsrel)が残っていた。

 このとき舎利から金箔で飾られた奉納物(ツァツァ)が作られた。

 ツァツァと舎利がサキャに運ばれると、音楽とサキャのシャルマ家に率いられた僧侶らの黄色の隊列によって盛大に迎えられた。ドルポパの弟子やゲンデン(Genden)寺の檀家によってたくさんの供え物が舎利に捧げられた。そして記念式典がサキャ寺の講堂で開かれた。

 同様の記念式典がウー、ツァンの多くの寺、たとえばナルタン、チュールン、ネヤサル、ツァル・グンタンなどで開かれた。

 ジョナンでは灰と舎利を集めていっしょにし、ドルポパ像のなかに入れ、それをドルポパ自身が建てたストゥーパのなかに置いた。

 ドルポパの晩年には、チベットの精神的、知的世界におけるその影響ははかりしれないものがあった。彼の教法にたいして賛否両論あったが、彼はおおいなる愛と慈悲の心でもって教えていた。

 実際に目撃した人の話によれば、彼は強情な哲学的見解を批判するときも、怒りを見せることはまずなかった。仏法に関する論議をするときも、敵を作ったり、立つ位置を間違えたりしがちだが、彼は野卑なことばを吐いたり、攻撃的になることはなかった。

 ドルポパはチベットが政治的に安定しない時期に生きたが、どこかの側につくことはなく、ただ偏見や偏向に反対しただけだった。

 彼はこんなことばを述べたことがあった。

「ここジョナンでは、われわれはどこかの宗派に属そうとは思わない。仏教の悟りは偏見を帯びた仏法を通って得られるものではない。このようにわれわれは価値のない悪に与することはない。空の雲のように、なにかの側に立つことはない」

 この見解は彼のすべての著作の最後にも、「(この書は)公明正大な、偏向のない、四つの信頼を与えられた作者によって編集された」というふうに現れる。

 こうした姿勢から、多くの人々がドルポパを崇めるのである。すなわち彼は仏教の偉大な聖者であり、人生における大きな目標は、ブッダのメッセージの了義を生き返らせることだった。彼はそれが失われかけていると感じていたのだ。

 この試みの危険性を察知しながら、同時代の仏教の潮流を彼は変えようとしていた。彼はセクト主義が廃し、愛と慈悲によって成し遂げようとしていた。にもかかわらず、彼の宗派は、あとになって、彼が生前対抗しようとした勢力によって弾圧されることになる。