他性空の変遷

サイラス・スターンズ著 編訳 宮本神酒男

1 ドルポパ以前の他性空:他性空はカシミール起源? 31 
2 ドルポパと他性空(1):カーラチャクラと六支ヨーガ 33
  ドルポパと他性空(2):画期的なドルポパ 35
  ドルポパと他性空(3):サキャ派からの独立 39
3 ドルポパ以降(1):ジョナン派批判の先鋒レンダワ 40
4 ドルポパ以降(2):他性空に入れ込んだサキャ派僧 44
5 ドルポパ以降(3):サキャ派、ゲルク派と手を結ぶ 47
6 ドルポパ以降(4):孤軍奮闘するターラナータ 50
7 ドルポパ以降(5):ターラナータ没後、ゲルク派化進む 52
8 ドルポパ以降(6):弾圧後から現在まで 55

橋と建物

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 のちに他性空(シェントンgzhan stong)として知られるようになるチベットの初期の哲学的見解を提唱していたのはだれなのか、じつはほとんど知られていない。レー・ギャルツェン(Lhey Gyaltsen)によれば、14世紀以前、多くの真剣な瞑想家が、了義の教えを部分的に理解することができたが、さまざまな経典、論書、秘教的な口伝のなかに見出される了義の教えを完全に理解できたのはドルポパが最初だった。彼はまたそれを哲学体系にまで高めたのだった。

 ターラナータは、中観他性空の口伝の系譜とジョナン派におけるカーラチャクラの伝承を調べた。

中観他性空は、第三転法輪の経典や釈論に源を発する。つまりマイトレーヤやインドの兄弟アサンガとヴァスバンドゥにまで遡るということである。もうひとつの口伝の系譜では、ナーガールジュナを祖としている。このターラナータの論考は、大乗仏教の経典や釈論から他性空の教義が生まれたとみなしている。

 ターラナータによると、ジョナン派が得意とし、伝承してきたカーラチャクラの系譜は、タントラ、とくにカーラチャクラ・タントラやその釈論そのものに源を求めることができる。ドルポパ以前の各系統の始祖の教えは、つぎのように示すことができる。

 

1 ドルポパ以前の他性空

 大乗仏教をもとにした他性空の系譜の師のひとりとして、ターラナータはディメー・シェラブ(Drimey Sherab)すなわちツェン・カウォチェ(Tsen Khawoche 1021-?)を挙げる。カウォチェはウッタラタントラ口承の第一人者である。

 チョナン・クンガ・ドルチョク(Jonang Kunga Drolchok 1507-1566)は、さまざまな系統から集めた百の教えのアンソロジーのなかで、このカウォチェのことばをいくつか集録しているが、チベットで他性空を扱ったもっとも古い例だろう。

 彼が記載した抜粋は歴史における他性空の位置をあきらかにするものである。

 

<他性空の教義に関してツェン・カウォチェは言った。「カシミールのパンディタ、サニャジャナは意味のあることばを述べている。「三度、勝利が法輪を回転した。初転は四諦を宣した。第二転は非了義を宣した。第三転は徹底的な差異を宣した。第一、第二転は真実と作り物を区別しなかった。第三転において、絶対性に関し、中庸と極端を区別し、現象と真実性を区別することが教えられた。ダルマダルマターヴィバンガ(Dharmadharmatavibhanga)とウッタラタントラが再発見されなければ、マイトレーヤの伝承は失われていたかもしれない」

 『蓮華鉄鈎』(Padma lcags kyu)と名づけられた釈論のなかで、ツェン・カウォチェは以上のように述べたのだが、のちに、インドで他性空は明確には知られていなかった、それを認識したのは一切智者のドルポパであると主張した。

 どうか一切智者プトゥンの「質問の答え」(dris lan)にも注意していただきたい。そこに引用されるダナクパ・リンチェン・イェシェ(Danakpa Rinchen Yeshe)の哲学体系はドルポパによってさらに高度なものとなるのである>

 

 クンガ・ドルチョクはこのツェン・カウォチェの一節が、ドルポパによって確立される前の先行的な哲学体系を示す重要な例であるとして、重視している。ツェン・カウォチェは師のサニャジャナの意見を紹介している。すなわち、現象とその真実性とをはっきりと区別する第三転の法輪のみがブッダの教えの了義を表していると。

 クンガ・ドルチョクは、ドルポパの時代まで、他性空がインドでもチベットでもまったく知られていなかったのではないかという批判に対し、これで十分反駁できると考えていた。さらに彼は偉大なるプトゥンが、ダナクパ・リンチェン・イェシェによって確立されたチベットの初期の哲学体系をドルポパが高度なものにしたと述べている点、また読者からの問いにプトゥンが答えていることなどを挙げている。

 これはきわめて興味深いが、残念ながら、現存するプトゥンの回答は、ドルポパに触れていない。とはいえ、プトゥンがダナクのリンチェン・イェシェとともに学んでいたのはたしかなのである。

 きわめて若く、1313年、サキャ寺でデビューする前、ドルポパはダナクに三ヶ月滞在し、リンチェン・イェシェとともに学び、彼から『弥勒(マイトレーヤ)五法』の解釈を受けた。五法のうちのひとつはウッタラタントラだった。ドルポパによる他性空の教義の確立への影響については、下に詳しく述べたい。

 ジョナン派のカーラチャクラ・タントラ伝承の系譜を見ると、ドルポパ時代よりずっと前に了義方面は認識されていた。最近見ることができるよういなった11世紀のカーラチャクラ大師ユモワ・ミキュ・ドルジェ(Yumowa Migyo Dorje)の『四明灯』(gSal sgron skor bzhi)という論集に明確に示されている。

 これらの論集で扱っている題材は、のちにドルポパが深く掘り下げるものだった。実際、ターラナータはユモワをタントラの他性空の先駆的存在と位置づけている。

 しかしながら意義深いことに、ドルポパが使った用語、たとえばシェントン(他性空)やクンシ・イェシェ(kun gzhi ye shes 宇宙の根本の智慧)などはユモワが書いたもののなかには現れず、大乗仏教や釈論から借りた用語は使用しなかった。

 それにもかかわらず、ゲルク派大師トゥカン・ロサン・チューギ・ニマ(Thukan Lozang Chigyi Nyima 1737-1802)は後代、著書『善説水晶鏡』(Grub mtha' shel gyi me long)のなかで、他性空を発案したのはユモワであり、ドルポパの時代まで他性空は秘伝(lkog pa'i chos)とし口頭で伝えられ、文字に書かれることはなかったと述べている。ドルポパがユモワの『四明灯』を積極的に教えていたことが知られているにもかかわらず、彼はユモワに言及せず、その著作から引用することもなかった。

 ユモワの四つの小論は極論すれば、六支ヨーガの完全な実践、すなわちカーラチャクラ・タントラにおける究竟次第の瞑想体系について述べたものである。これらの小論は統合(ズン・ジュク zung 'jug)、大印(phyag rgya chen po)、輝く光('od gsal)そして空(stong nyid)などのテーマを含んでいた。

 現存するカーラチャクラ・タントラ経典が、チョナン派のなかで受け継がれてきたことは、チョナン派の伝承にしたがって祈りがカーラチャクラ大師たちに捧げられるという事実からも明白である。その系譜は四つの小論のうちの最初の論に書き添えられていたものである。

 これらの小論のなかで論じられているトピックは本稿のテーマからは離脱してしまうので、ここでは触れないことにする。ともかくここで彼が繰り返し論じるのは、精神的道程は悟りのプロセスである、という大多数の学者の意見は受け入れられないということである。空は、すべての現象の究極的自性であり、本性ではない。そして存在、非存在、その両者、あるいはどちらかの極端性からのがれている。

彼は、空が絶対性をもつという哲学体系のなかにおいてのみ、この空の見解が成り立つと考えた。これは秘教的教えの段階に従って瞑想されるのではない。

 簡潔に言えば、瞑想の過程のなかにおける空は、経験的でなければならないということだ。自性による空(rang bzhin gyi stong pa nyid)はダイレクトに経験することができない。

 これらのことばを述べながら、ユモワは六支ヨーガの実践をしているときに起こる特別な体験について触れている。それら「空の形」(shunyabimba, stong gzugs)は、目に見えるものである。これはカーラチャクラ・タントラによる階梯としての空のダイレクトな体験である。それゆえユモワが、論理的な分析と把握できない空は階梯ではないと言うとき、彼は瞑想のあいだに見られる空について言っているのである。これは彼のテーマだった。

 この見方の残響は、ドルポパの著書中にも見出される。

 ドルポパの教えはタントラ群、とくにカーラチャクラに堅固に根を下ろしている。彼の論は既成の教義を単純に追うものではない。マハーヤーナとヴァジュラヤーナの見解と実践の融合を代表しているのだ。このことは彼の見方が、第2章で翻訳された釈論と出会ったとき、いっそうはっきりするだろう。

 

 

2 ドルポパと他性空(1) 

 ツェン・カウォチェやユモワ、その他後年他性空として知られる教義を教えた師たちは、あくまで小さなグループのなかで私的に教えていたにすぎない。11世紀から14世紀にかけて、この系統に属した者が書いた論文はどれも後世に残らなかった。

 ドルポパが覚醒し、その教義を他性空と名づけるまで待たねばならなかった。このことばと教えは今ではチベットでは広く知られている。

 ドルポパが他性空の認識を宣言した当時の状況については第1章(『ドルポから来たブッダ』)で述べたとおりである。この賛否両論の教義については、第3章やパート2で詳しく吟味することになるだろう。ここでは彼の画期的なことばの使用法、動機、経典解釈の方法などについて論じたい。

 ドルポパ自身の記述からも、彼の理論のもっとも重要なソースとなったのは、カーラチャクラ・タントラ、ヘーヴァジュラ・タントラ、チャクラ・サンヴァラ・タントラについての論釈『三菩薩釈』(Sems grel skor gsum)だった。たとえばチャン地方北部の首領にあてた書簡のなかでドルポパは、自性(rang stong)の空が絶対的真実であるという観点を論じ、これらの三論が根本的なテキストであると述べている。

 なかでもとくにカルキン・プンダリーカのヴィマラプラバーが彼にとって重要だった。ドルポパはこう言及した。「カーラチャクラ・タントラの偉大なる論釈のなかに、了義の本質的な点を私は発見した」

 心に留めておくべきは、ドルポパはカーラチャクラの究竟次第の修練である六支ヨーガのすさまじい実践者であり、彼の教義の形成には経典、とくにカーラチャクラ関連の経典が基礎となっているものの、彼自身の瞑想体験が決定的な役割をはたしているのである。

 実際ジョージ・タナベが最近日本の高僧明恵の研究のなかで強調するように、「仏教徒は長い間、瞑想と修行の第一の体験(体験が第一なのだが)が重要だと主張してきた。

 ドルポパはあきらかに、シャンバラの国では理解されたが、チベットでは理解されていないブッダのメッセージの了義に関する深い洞察を体験していると感じた。第1章で述べたように、ドルポパは晩の瞑想中に実際にシャンバラへ行ったと主張した。

 翌朝ドルポパはシャンバラの見取り図、宇宙との関係、そしてカーラチャクラ・タントラの秘密の教えについての講義をした。直接シャンバラを見たあと、ドルポパはそれを賛美する頌を作った。そのなかでシャンバラとカイラシュ山が同時に存在することを発見したが、そのことはインド、チベット両者の学者も知らなかったことだ。

 個人的な瞑想のアドバイスを弟子らに与えるとき、ドルポパ自身が発見した特別な知識を伝えた。彼は、シャンバラでは多くの人が六支ヨーガの瞑想から立ち上る経験を理解することができるが、チベットでは彼をのぞきだれも理解していないと強調した。そして彼の覚醒はカルキン帝の慈悲によるものだと言った。

 ドルポパは弟子への教戒のなかでつぎのような頌をうたった。

 

<もし私が率直に話したなら、他人はそれを好まない。もし他人が言ったことを私がしゃべったら、それは弟子たちをだますことになる。

 このご時勢、師であることはむつかしい。そうであるなら、私はだからこそ率直にあなたたちに話そう。

 北方のシャンバラにカルキン帝はいらっしゃいます。カラーパ(Kalapa)のダルマ(法)の王宮で、多くの住民は体験を理解する。雪の国チベットでは、私だけが体験を理解している>

 

 また別の弟子に宛ててドルポパはつぎのように書いた。

 

<このごろというもの、専門家として知られる多くの人々は、すばらしい瞑想をし、高い理解を得たと主張し、偉大なる成就者だと自負するが、この方法については気づかない。私はそれをカルキン帝の慈悲によって発見することができた>

 

 六支ヨーガの瞑想における体験、シャンバラの国土およびカルキン帝とのヴィジョンにおける接触、そして彼らの特別な祝福、これらがいっしょになって彼の理論につながるインスピレーションを得ることができた。

 しかしこうも言うことができるだろう。ドルポパの教えのなかに結実したものは、何世紀にもわたってチベットの仏教の伝統のなかに存在していたのだと。

 前章で少し触れたように、ツェン・カウォチェやユモワは初期のチベットの師だが、その見解はドルポパの理論の先駆的存在だった。

 ドルポパの同時代人、たとえばカルマ派3世ランジュン・ドルジェが述べたことは非常に興味深い。ランジュン・ドルジェはおそらくドルポパの影響を受けていた。他性空の最初の支持者であったかもしれない。16世紀のサキャ派高僧マントゥ・ルドゥプ・ギャンツォ(Mangto Ludrup Gyantso)はドルポパとランジュン・ドルジェの面会に関しつぎのように述べている。

 

<師(ドルポパ)はカルマ・ランジュン・ドルジェとお会いになった。そして師が自性(rang stong)の空の哲学体系を作られたので、カルマパは将来他性の空の支持者になるだろうと予言した。思うに、他性空の伝統を最初に打ち立てたのはカルマ・ランジュン・ドルジェである。一切智者の師(ドルポパ)はジョナン寺でそれをお受けになった>

 

 ターラナータによるとこの面会はドルポパが29歳か30歳のときのことらしい。1322年、ジョナンに行ってヨンデン・ギャンツォと会う少し前のことである。彼はつぎのように描く。

 

<それからドルポパはラサ、ツルプなどへ行った。彼は法王ランジュンと仏法について論じた。ランジュンはドルポパに対し経典による理論づけは示せなかったが、いわば千里眼を持ち、つぎのように予言した。「あなたはまもなく見識、実践、そして法のことば(chos skad)を持つことになるだろう。それはいまのことばよりもっといいものになるだろう」>

 

 ターラナータは直接カルマパの予言を引用しているが、ドルポパの他性空の源泉としてカルマパを描いてはいない。残念ながらこの面会についてはどちらの自伝にも出てこない。しかしシトゥ・パンチェン・チューギ・ジュンネ(Situ Panchen Chogyi Jungney 1700-1774)が書いたカルマ・カムツァン(Karma Kamtsang)の法統の歴史には記述がある。そのなかでドルポパは自性の空が真実であると考えている。年代記を参考に考えると、このふたりの大師の面会は1320年と1324年のあいだのいずれかである。

 

 

2 ドルポパと他性空(2)

 ドルポパの哲学的な試みのなかでもっとも画期的だったのは、仏法の新しいことば(chos skad)を作ったことである。マハーヤーナとヴァジュラヤーナの経典のなかで見出される幅広いテーマを表現するには欠かせないものだった。ターラナータによれば、ドルポパがはじめて他性空について教えたとき、彼はほとんどの学者にも理解できない、おびただしい、新しいことばを用いて論文を書いた。それは学者たちにとって、解釈学上の革命だった。上述のように、ランジュン・ドルジェもまた、ドルポパが革新的な言辞を編み出すだろうと予言した。

 ドルポパは、ことばに関し、ふたつの面でチベットでは前例のない貢献を果たした。まだまだわからない点が多いが、ドルポパがかなりの語彙を大乗経典や経論から抽出して特殊用語、すなわち仏法用語を作り出したようである。それらの元が原典にあるのはまちがいないが、通常の講義で用いられることはなかった。

 テーマを強調するためにドルポパは新しい用語を編み出した。たとえば、他性空(gzhan stong)やアーラヤ智慧(kun gzhi ye shes)などである。彼はまた大中観(dbu ma chen po, mahamadhyamaka)のようなインドの仏典にはないが、チベットで何世紀も使われてきた用語を取り入れた。多くの仏典に見られる見解やテーマを説明するため、彼はなじみのない用語もまた活用した。

 独特のことばの使い方をしながら、ドルポパは大乗仏典や経論から用語を借り、それを自分の著作のなかで活かした。いくつかの例を見れば、彼の著作のユニークさが理解できるだろう。

彼の主張のなかで論議を巻き起こしたのは、タターガタガルバ(tathagathagarbha ブッダの本性、つまり仏性)やダルマダートゥ(dharmadhatu 真実の広がり、つまり法界)、ダルマカーヤ(dharmakaya 真実の仏身)といったことばで表される究極の真実を永遠の状態としたことである。

 もちろん大乗仏典や経論においてこのような趣旨の言説は珍しくないが、チベットの多くの学者にとって、解釈学の立場からすれば、これらの言説は仮説の提示とみなされ、あらたな解釈(neyartha, drang don)を必要とするものだった。

 ドルポパにとって仏典や経論のすべてのことばは了義(neyartha, nges don)であり、字義通りに解釈されるべきものだった。彼はあらたな解釈など必要ないかのように自在に仏典の用語を使用するようになり、そのことは疑いなくショッキングなことだった。

 たとえば、チベット語のダク(bdag)すなわちアートマン(atman)、タクパ(rtag pa)すなわちニティヤ(nitya)、そしてテンパ(brtan pa)すなわちドゥルヴァ(dhruva)は、サンスクリットのシャーシュヴァタ(shashuvata)の三つの訳語、テル・スク(ther zug)、ユンドゥン(g.yung drung)、ミ・ジクパ(mi jig pa)と同様、仏典のチベット語訳のなかに見出される。その経典とは、ウッタラタントラ(Uttaratantra)、ランカーヴァターラ(Lankavatara)、ガンダヴューハ(Gandavyuha)、アングリマーリーヤ(Angulimaliya)、シュリーマーラー(Shrimara)、マハーパリニルヴァーナ(Mahaparinirvana)などであり、真実の仏身(dharmakaya)、タターガタ(Tathagata)、仏性(tathagatagarbha)などを表す。

 「自身」「恒常」「永続」「永遠」などと訳されることばは、全著作を通じてドルポパが使用してきたのであり、仏典の一節の意味を論じるときだけのものではない。仏典で使用されるこれの用語の解釈をめぐってプトゥンが攻撃していることからすると、ドルポパの同時代人がいかに激しく反応を起こしたかがわかる。

 ドルポパの初期の著作『仏教総釈』(bsTan pa spyi grel)は代表作のひとつだが、ここですでに問題となっている用語が使われている。初期のもうひとつの重要な著作『殊勝中観秘訣』(dBu mai man ngag khyad phags)はドルポパに戒を与えた師ソナム・タクパ(Sonam Trakpa)のために書かれたものだが、ここにもいくつか用語が現れ、のちに発展するテーマの萌芽が見られる。これらの用語は以後ずっとドルポパの著作に現れつづける。

 彼の最後の重要著作である『第四終結』(bKa bsdu bzhi pa)でもこれらの用語を使っているが、それとともに聞きなれないことば「永遠の仏身」(g.yung drung sku, ther zug sku; shashvatakaya)も登場させている。

 残念ながらドルポパは代表的著作をいつ書いたのか、日時を明記しなかった。おそらく将来、用語を比較解析することによって著作を時系列に並べることができるようになるだろう。たとえば『仏教総釈』や『殊勝中観秘訣』は「他性空」(gzhan stong)や「アーラヤ智慧」(kun gzhi ye shes)という用語が出てこない。

 このことからこれらの著作は初期のものだという印象を与える。仏典から語彙を借りて次第に自分のことばを形成していき、のち、彼自身のダルマ(仏法)の用語を創出することになる。

 他性空ということばは通常、ドルポパ自身が考え出したものと思われている。しかしドルポパの時代よりも前に複数のルートでこのことばが用いられた証拠がある。ドルポパ自身は、至尊ポーリパ(Poripa)と呼ぶ大師からこの語を引用した。

 

<相対的真実は自性の空(rang gis stong pa)である。

そして絶対的真実は他性の空(gzhan gyi stong pa)である。

もしふたつの真実の空が理解されないなら

仏道が否定される危機に陥る>

 

 ドルポパに先立つ作者によってこの語が生まれているなら意味深いことだが、ポーリパと呼ばれる初期の大師に関する情報はまったくないといっていい。唯一同定されうる人物があるとするなら、それは初期のカギュ派の大師ポリワ・ゴンチョク・ギャルツェン(Phoriwa Gonchok Gyaltsen)である。

 他性空のほかの例として、ラ・ロツァワ・ドルジェ・タク(Ra Lotsawa Dorje Trak 11c-12c)の伝記が挙げられる。霊的な歌のなかでラ・ロツァワは自性(rang stong)に対比させて他性空を登場させている。しかしながら、この伝記はあきらかに17世紀頃に作り直されたものだ。他性空ということばが含まれていても、それは注目に値しない。

 ドルポパの同時代人で尊敬すべきニンマ派大師ロンチェン・ラブジャムパ(Longchen Rabjampa)もまたヨーガーチャーラ(瑜珈師)学派の三性(trisvabhava)理論について述べている。ロンチェンパは「自性の空」(rang gis stong pa)、「他性の空」(gzhan gyis stong pa)、「両者の空」(gnyis kas stong pa)と三つに分類しているが、ドルポパの使用法とは軌を一にしていない。

 13世紀にペマ・レンテル・ツェル(Payma Lendrel Tsel)によって発見されたパドマサンバヴァ作とされる『ダーキニーの心滴』(mKha’ ‘gro snying thig)においても、仏性の論議のなかで他性空という語が使われている。しかしその使用法はドルポパとはまったく異なっている。

 これらのことから、ドルポパの時代以前に他性空(gzhan stong)という語が現れていたのはまちがいない。散発的であり、ドルポパがこだわった語の意味とは微妙に異なってはいるのだが。伝統的にドルポパが他性空という語を創り出したということになっているが、もっと正確に言えば、彼以前には曖昧に用いられてきた語を明確に規定したのである。かつ彼の哲学を表現するためにこの語に根本的に重要な意味を持たせたのだ。

 ドルポパ哲学のもうひとつ重要なテーマは、アーラヤ識(クンシ・ナムシェkun gzhi rnam shes, アーラヤヴィジュニャーナalayavijnyana)と区別されたアーラヤ智慧(クンシ・イェシェkun gzhi ye shes, アーラヤジュニャーナalayajnyana)である。

 クンシ・イェシェ(アーラヤ智慧)が初期のチベット人の著作のなかに現れるかどうかははっきりしない。ドルポパは彼が理解し、詳細に解説すべきだと考えたチベットで知られていない概念のリストのひとつにクンシ・イェシェを挙げている。

 上述のように、カルマパ・ランジュン・ドルジェがドルポパの考えを発展させるにおいてある役割を果たしているかもしれない。ランジュン・ドルジェの現存する著作には、他性空もアーラヤ智慧も見当たらないが、後者は現在では不明の著作中に記述があったかもしれない。

 ランジュン・ドルジェの『深奥義』への論著のあとがきで、自身他性空の支持者であるジャムゴン・コントゥル・ロドゥ・タエ(Jamgon Kongdrul Lodro Tayey 1813-1899)は、ランジュン・ドルジェのクンシ・ナムシェとクンシ・イェシェの使用法について言及している。残念なことに、コントゥルはランジュン・ドルジェを直接引用したわけではないのだが。

 ランジュン・ドルジェは1322年、ドルポパと会った翌年に『深奥義』を著した。『青冊史』のなかのランジュン・ドルジェ伝によれば、1326年以前に彼はあとがきを書いたという。これはドルポパの著作がチベット中に出回る以前のことである。しかしながらクンシ(アーラヤ)の性について書かれたランジュン・ドルジェの歌のなかには、クンシ・ナムシェもクンシ・イェシェも見出すことができない。この歌に表れる考え方は、ドルポパとも他性空の教義とも相容れない。

 ロンチェン・ラブジャムパの著作中に「鏡のようなアーラヤ智慧」(kun gzhi me long lta bui ye shes)という一節が現れる。彼は真実の仏身()を表現するためにこの一節を用いたのである。そして意識の八様態のひとつとして、アーラヤ識と区別したのだ。

 このひとつからしても、ドルポパとの類似性が顕著なのだが、ロンチェンパの立場からすれば、クンシ(アーラヤ)を心の不純な状態として扱うほかなかった。

 

2 ドルポパと他性空(3)
 1322年、30歳になるまで、ドルポパはその人生のほとんどをサキャ派の伝統に従って、仏典や仏教哲学の研究、実践に費やしてきた。それまでの十年間、サキャ寺で研究し、教えてきたのだ。たしかなことは、ドルポパはサキャ・パンディタ・クンガ・ギャルツェン(Sakya Pandita Kunga Gyaltsen)の著作、たとえば『三律儀注』(sDom gsum rab dbye)を吟味し、マスターしたことである。これらはサキャ派の学者や修行者にとって基本となるものだった。

 『三律儀注』のような賛否両論の著作を書くことになった動機についてのサキャ・パンディタの言説と、ドルポパが動機について語ったことの類似性は驚くべきことだ。しかもその結論はまったく正反対だった。

 『第四集結』のあとがきには、ドルポパのサキャ・パンディタへの親近性、その情趣へのシンパシーがよくあらわれている。このようにドルポパは『三律儀注』から対句を抽出し、またサキャ・パンディタの隠喩句を数ページにもわたって繰り返している。

 サキャ・パンディタの詩の骨子というのは、どれだけの宗派の伝統があろうとも、もし本物の典拠がなければ、「死者のように」それらには価値がない、ということだ。ドルポパはサキャ・パンディタの対句を出発点として用い、それを繰り返すことによって関連する多くの問題箇所を示した。

 たとえば無数の退廃するトレータ・ユガ(Tretayuga)の教えがあっても、もし完全なるクリタ・ユガ(Krtayuga)がなければ、「死者のように」それらには価値がない、と彼は主張する。

 このような調子でドルポパは、遍計の性(parikalpita, kun brtags)にたいする円成の性(parinispanna, yongs grub)、相対性にたいする絶対性、他性空にたいする自性空というように、対比させている。

 これらサキャ・パンディタからの引用はそれぞれ目的があってのことだった。それらはサキャ・パンディタのテーマや主張を思い起こさせた。『第四結集』の編纂をドルポパに求めたのは、ほかでもない、サキャ・パンディタの子孫であるラマ・ダンパ・ソナム・ギャルツェン(Lama Dampa Sonam Gyaltsen)だった。

 チャン地方の首領に教義の説明をするために送った『解釈簡要』(gShag byed bsdus pa)の末尾に、ドルポパは明確に動機と意見を記している。それは精神的にも、文字通りにも、情報を含んだ証言である。

 

<真実の本性の真上に錘を垂らすように、これらの調査はなされてきた。そしてそれは偏見、えこひいき、僭越などの不浄に毒されることもない。というのは、私は一切智者ブッダ、そして第十レベルの至尊の証人となったからである。至尊とは、三種族の主、ヴァジュラガルバ(Vajragarbha)、マイトレーヤナータ(Maitreyanatha)、(哲学体系の)偉大なる創始者、たとえば高貴なるアサンガ、偉大なるバラモン、サラハ、偉大なるパンディタ、ナーローパなどである。

私は誇張や退廃を避けてきた。そして偉大なる至尊の意図を考えながら書いてきた。

 つぎのように言われるかもしれない。「至尊の考えを理解するなど傲慢である。しかしチベットのほかの大師の考えに賛成できないのは、それをあなたは理解していないということなのではないか」と。

 これは歩むべき道ではない。理解不足を招くのは、知性が劣っているからである。すばらしい師の口伝がないからである。研究が、経験が、瞑想の悟りが足りない。プライドと驕慢にあふれ、推論から真実か間違いかを決め、しゃべりすぎてしまう、などなど。

 しかし私は偉大なる仏典の伝統を学んできた。そしてインドやチベットの深遠なる口伝の修行に取り組んできた。こうして真正なる経験と覚醒が起こってくるのである。

 偉大なる根本タントラ、栄えあるカラーパの口伝、第十レベルにおけるカルキン帝の尋常ならざる心からのアドバイスの了義と出会う入り口で、私はいままで発見されなかった、悟られなかった、ほとんどのひとりよがりの学者や修行者、秘密のマントラを持するものの傲慢な者たちに理解されなかった本質が見えるようになった。

 内側から悟りを得て、一点の疑いのない確信を抱いたので、経験と理解をもつ偉大なる修行者だけでなく、秘密のマントラも持する傲慢な人々も、ブッダそのひとも、私を元の場所に追い返すことはできない。

 あるいはこう言われるかもしれない。「その確信はいい加減な、あやふやな瞑想から生まれたものかもしれない。つまり考え違いだ。それを証明する仏典上の引用などありえない」と。

 しかし証拠に欠けるなんていうことはない。論理的かつ秘教的な教戒のほか、多数の明確な引用がある。これは第十二、あるいは第十の精神的レベルのものである。ナーガールジュナ、その精神的息子たち(法を継ぐ者たち)や偉大なるパンディタ、ナーローパなどの悟りを得た専門家からの引用なのである。

 それについては、ここではこれ以上述べないが、必要とあればあとで詳しく述べたい。

 これらのなかでいくつかの点は例外的であり、チベットで知られてきた考え方とはあわないこともあるだろう。以前の哲学体系に慣れてしまっているため、それは当たり前のようになり、チベットの多くの人はその伝統を支持するようになった。それゆえ旧態依然の哲学は、堅固であったり不安定であったりするものの、違いに気づかず支持していたりするものだ。どうかバイアスのかかっていない目で、ブッダや菩薩の経典をよく見て、それらを検証しよう>

 

 これらが明快に示すように、ドルポパの理論には反対者がきわめて多かった。彼はほとんどの人が了義の教えに心を閉ざしていると感じていた。彼はしばしば同時代の確立された伝統における推論と偏見について述べている。これが彼の考えが広がるのを妨げる要因だと考えていた。彼は偏見の裁判に身をさらしているようなものだった。それゆえ彼の時代に反対した証言が何一つ残っていないのは奇妙なことである。おそらくドルポパの死まで表立って反対を表明することがなかったからだろう。

 

 

3 ドルポパ以降(1)

 ドルポパは14世紀のチベットのいかなる学者にも負けない手ごわい学者たちに囲まれていた。彼のチョナン派におけるもっとも影響力のある後継ぎは、弟子のなかでも長老格のニャウン・クンガ・ベル、マティ・パンチェン・ジャムヤン・ロドゥ、そして偉大なる座主チョレー・ナムギェルだった。ニャウンとマティの主要の著作は現存し、教義上の問題に迫る核心的な疑義にこたえるドルポパにそれらは従っている。とくにニャウンの教えは論争や否定的な反応を引き起こした。

 もっともよく知られ、影響力のあった初期のチョナン派の敵対者は、サキャ派の学者レンダワ・ショヌ・ロドゥ(Rendawa Zhonu Lodro 1348-1413)だった。学術的な観点から見た場合、レンダワはチベットにおいて中観哲学のプラーサンギカ(帰謬論証派)を確立した学者として知られる。彼は偉大なるツォンカパ・ロサン・タクパ(Tsongkapa Lozang Trakpa 1357-1419)のもっとも重要な師となった。しかしジョナン派から見れば、レンダワは、ドルポパによって広まった了義(ニータールタ nitartha, nges don)に対する悪意に満ちた敵対者だった。

 たとえば、ドルポパの最後のことばに帰せられ、伝記にも加えられた、しかし実際ははるか後代にチョナン派信者によって書かれた偽の予言のなかで、レンダワは激しく非難されている。彼は虚無的な見方(med par lta ba)を広める悪魔として描かれた。

 さらにレンダワは仏性を根本的な基体とすることに反駁し、六支ヨーガを究極的な道とすることを誹謗し、穢れを除けば根本的な果が得られるという見方を否定した。

 彼はまたカーラチャクラ・ムーラ・タントラが、他のスートラやタントラのように「如是我聞(われ、かくのごとく聞けり)」で始まっていないとして、非難し、簡約版カーラチャクラ・タントラもさまざまな点をとりあげて批判した。

 そしてついにレンダワはヴィマラプラバー(カーラチャクラ・タントラの論釈)の経文をかきあつめ、川に投げ捨てたという。

 これらは真剣な申し立てもあったが、公正にみれば、ヒステリーになりすぎている面があった。レンダワの自伝が述べるように、彼は、カーラチャクラ・タントラは仏法ではないと主張したことで知られていた。しかしそれは正確ではない。カーラチャクラを精読したとき、非―仏教的(chos min)として退けたわけではなかった。『珠玉鬘』(Nor bui phreng ba)の末尾でレンダワ自身があきらかにしたように、カーラチャクラ・タントラをたんに批判したのではなかった。

 

<(カーラチャクラが)高貴なる人(ブッダ)によって書かれたかどうかはともかく、それがすぐれた説明をしていることは容易にわかる。それゆえわたしは「これは解脱を願う人々のための入り口ではない」などと言うつもりはないのだ>

 

 レンダワの論点はカーラチャクラ・タントラ自体の内容ではなく、字義どおり(sgra ji bzhin pa)に解釈し実践されていることに対し、『珠玉鬘へのわが解答』(Nor bui phreng bai rang lan)のなかであきらかにしているように、自身の初期の疑義からカーラチャクラを擁護しているのである。

 

<今日、氷雪の国の傲慢な学者たちは、カーラチャクラとその論書の字義どおりの解釈に躍起になっている。その深奥の意味は、内包されたことばによってしか読み解けないのであるが。

 顕密の諸経典と矛盾する見解が広まっているのを見て、曲がった棒を伸ばすように、わたしは反論し、解釈してきた>

 

 レンダワはたしかにチベットにおけるカーラチャクラの伝統に対し批判的ということで有名だった、あるいは悪名高かった。しかし当初彼はドルポパの偉大なる弟子たち、たとえばニャウン・クンガ・ベルやマティ・パンチェンなどとともに学び、ジョナン派の哲学体系をかなり気に入っていたはずなのだ。それから彼はジョナン派の師たちが教義の基礎としてきた経典を徹底的に検証しはじめた。すなわちカーラチャクラ・タントラ(時輪経)、ランカーヴァターラ・スートラ(楞伽経)、ウッタラタントラ、ダルマダートゥ・ストートラ(法界頌)などである。

 彼はこれらの経典を三度読み、分析した。一度目の読了後、彼はジョナン派のとらえ方は正しいと考えた。二度目の読了後、それが正しいかどうか不安になった。三度目の読了後、ジョナン派の解釈は間違いだという確信に至った。

 そしてレンダワはサキャへ行き、師のひとり座主サンギェ・ペルに会い、ジョナン派の教義は誤謬であると報告した。レンダワはあきらかにチョナン派の伝統を壊し、カーラチャクラ・タントラを読んで感じた矛盾を表にさらし、疑義を呈することを使命だと感じていた。

 まずレンダワは自分が決めたことを師のニャウンに伝えた。ニャウンはこのレンダワの考えを聞いて非常に不愉快になった。にもかかわらず、ニャウンは偉大なる知性の持ち主であり、とりわけ理知をたくわえていたので、レンダワが論書や経典からの引用を示せばニャウンも賛同してくれるだろうと考えた。また、もしニャウンが転向すれば、ジョナン派のすべての学者が考えを改めるだろうと確信した。ニャウンはたしかにドルポパの伝統の代表的な後継者だった。

 しかしながらレンダワがニャウンと話し合うためツェチェン寺へ行くと、この老いた師は遠まわしに会いたくない旨を伝えてきたため、レンダワは切り出し口が見つけられなくなった。仕方なく彼はサキャに戻り、有名なカーラチャクラ批判の著作『珠玉鬘』を著わした。

 サキャ寺で行われたドゥン・シトクパ(Drung Zhitokpa)主催の大集会で、レンダワはカーラチャクラ・タントラの矛盾に関し、カルマパ・グンシュン(Karmapa Gonzhon)という僧と討論した。そのあと彼はジョナン寺に招かれ、仏性について討論した。これらのことすべては、ニャウンが逝去する1379年以前に起こったことである。

 レンダワの伝記によれば、多くのジョナン派僧を転向させ、多くの僧に疑いを抱かせ、多くの僧にジョナン派に加わるのを阻止することに成功したという。つまり、ドルポパ死後50年以内に、ジョナン派の哲学体系に対する強烈な反動を与えることができたようなのである。

 それにもかかわらず、レンダワの態度は後世の史書が描くようには確固たるものではなかった。後半生においてレンダワはカンブリー(Kangbuley)の隠棲所で半隠棲生活を送ったが、そこで彼は『輝かしいカーラチャクラの了義を照らす宝灯』(dPal dus kyi khor loi nges don gsal bar byed pa rin po chei sgron me)を著わした。それは彼の初期の代表的な二つの著作とは異なっていた。二つのうち最初の著作は30歳以前に書かれたものだった。それらと比べこの魅力的な著作はカーラチャクラの瞑想実践を徹底的かつ積極的に解析したものだった。

 この著作はあきらかに、他者によってなされた解釈の間違いを正しながら、カーラチャクラの教えの本質をあぶりだす試みだった。上述の歴史的なできごとや、チョナン派の敵対者、カーラチャクラ批判者としてのレンダワの名声に光をあてると、最後の著作中のつぎの一節は驚き以外の何物でもない。

 

<カーラチャクラ・タントラの考え方によると、真理には二つの種類がある。無知の妄想から起こる汚れという現象は、相対的真理である。というのもそれらは現実の把握を曖昧にし、苦悩を起こすからだ。それは完全な智慧ではなく、自性の空(rang stong)であり、虚無の空(chad stong)であり、無性の空(bems stong)なのである。

 あらゆる心の原初の状態、ならびに自ら輝く光は、絶対的真理である。理性による解釈に抵抗することができることは、実証済みである。そしてそれは非―概念的な把握の対象であるのは、絶対的である。またそれは、汚れがないならば、他性(gzhan stong)の空である。それは虚無の空(chad stong)でも無性の空(bems stong)でもない、というのもそれは自己認識的な本能的覚醒を経験するのだから。

 そう考えると、自性の空(rang stong)は極端な虚無に陥る、それゆえその悟りは解脱への完全な道とはいえない。ただ他性の空(gzhan stong)だけが、心の真実の性だけが、輝かしい光だけが、瞑想を通じた、特別な自己認識の覚醒を通じた内発的な目覚めだけが、完全な道として受け入れられるのである>

 

 レンダワは本当にカーラチャクラの了義はチョナン派の他性空なしには理解できないという結論に至ったのだろうか。この重要な著作の他の箇所ではまだ、永遠不滅の絶対的真実という考え方を、ヴェーダ教典の教義に等しいとして、強く非難しているのである。

 レンダワの著作を注意深く吟味しないかぎり、彼があきらかにカーラチャクラの了義という文脈のなかの他性空の価値を認めるようになったか、その結論に至るのはむつかしい。彼はこの時点でも、仏性の永遠不滅性など多くの面では賛同していないのである。

 いずれにしろ、後世のチベットの学者たちはレンダワをチョナン派およびカーラチャクラの敵対者とみなしつづけてきた。その最後の著作を見るかぎり、その極に立っているのだが。

 

 

4 ドルポパ以降(2)

 14世紀後半、ジョナン派に対する教義上の逆風にも負けず、ドルポパの哲学体系は、ツァン地方ではなお力強く生き残っていた。ほかの勢力が優勢になるのはそのあとのことである。

のち、ターラナータが述べるには、『大法鼓経』(マハー・ベーリー・スートラ Mahaberi sutra, rNga bo che mdo)中に見出されるドルポパに関する予言は正しく、チベット中にドルポパが広めた六支ヨーガの実践や、仏性、至上タントラ、仏性を宣言した三転法輪の顕教の教えは80年以上にもわたって学堂などの教育機関に強く残っていた。

 このあと、これらの教えは以前ほどの影響力を持たなくなった。というのも、未了義(ネーヤールタ neyartha, drang don)にとりつかれた人々、あるいは勝義を唱える人々、名声や権力があり、多数の弟子を率いた人々の出現があったからだ。

 これは、ツォンカパによって確立されたゲルク派の勃興にたいするネガティブな見方といえるかもしれない。しかしツォンカパの弟子、ケドゥプ・ゲレク・バルサン(Khedrup Gelek Balzang 1385-1438)とギャルツァブ・ダルマ・リンチェン(Gyaltsab Darma Rinchen)は15世紀、ジョナン派を攻撃する。

 しかし、とターラナータはつづける。彼の時代でさえ、六支ヨーガの実践や仏性の教えなどは生きながらえているではないか、と。

 ジョナン派から見れば、他性空の系譜や教えに関する情報は、ドルポパの直弟子の時代からジョナン・クンガ・ドルチョク(Jonang Kuga Drolchok 1507-1566)の時代まで、きわめて少ない。実際、14世紀後半からターラナータが伝統を復活させる17世紀までの間、ドルポパによって提起された問題を扱うジョナン派の大師たちが書き残したものは何一つ残っていないのである。ほぼ150年間、ジョナン派の著作で残っているのはクンガ・ドルチョクの数編にすぎない。しかもそれらは、他性空について一言も触れていないのである。

 それゆえ他宗派の論書のなかにジョナン派のことが出てくるまで、二百年以上待たなければならなかった。それらは敵愾心にあふれていたが、唯一の例外はサキャ派の大師セルドク・パンチェン・シャキャ・チョクデン(Serdok Panchen Shakya Chokden)だった。現在知りえる情報からすると、15世紀から16世紀にかけ、シャキャ・チョクデンはもっとも影響力のある他性空の提唱者だった。このことは、大乗仏教と金剛乗仏教の教義の論書『21の深奥なる意味』というターラナータが著した魅力的な論書によって、はじめてわかった。

 18世紀後半、宗教史家のゲルク派僧トゥカン・ロサン・チューキ・ニマ(Thukan Lozang Chogyi Nyima)は、悪意をこめてシャキャ・チョクデンを登場させるまで、ドルポパ以降の直弟子の他性空大師らについては一切触れなかった。シャキャ・チョクデンが他性空の重要な提唱者であったのは、驚くべきことだった。というのも、ライバルであったゴーラム・ソナム・センゲ(Goram Sonam Senge)をのぞくと、彼はサキャ派でもっとも偉大な学者だったからだ。

 いったいどこでシャキャ・チョクデンは他性空の教えを習得したのだろうか。そして彼はどうやってこの教えを護持しながら、サキャ派大師という確たる地位にいつづけることができたのだろうか。シャキャ・チョクデンがどこから他性空を学んだかに関し、定説のようなものはない。

 彼の師のひとりはサキャ派大師ロンドゥン・シェジャ・クンリク(Rongdon Sheja Kunrik 1367-1449)だった。現代チベットの学者ドントク・リンポチェ(Dhongthog Rinpoche)は、最近修復されたシャキャ・チョクデンの著作を調べ、シャキャ・チョクデンは師ロンドゥンに従ってひそかに他性空を信仰し、ツォンカパの解釈の伝統を否定したのではないかと考えた。

 いまそれについて検証することはできないが、ドントク・リンポチェの考え方には一理あるだろう。たとえば、ロンドゥンによって編纂されたドルポパへの賛歌が残っている。すくなくともサキャ派の師たちはドルポパと彼の哲学に対して、敬意を抱いていたのはまちがいない。

 カギュ派においても、第7代カルマパ、チュータク・ギャンツォ(Chotrak Gyantso)はシャキャ・チョクデンに他性空を受け入れるよう促したという。前述のように、第3代カルマパ、ランジュン・ドルジェはドルポパが他性空の教義を発展させるにおいて、多大な影響を与えていた。

 現段階では、他性空がどのようにカギュ派、とくにカルマ・カムツァン派(Karma Kamtsang)の多くの僧に受け入れられたのか、はっきりとはわからない。おそらく第3代カルマパの時代からすでにこの系統のなかでは大きな勢力を成していたのだろう。

 ジョナン・クンガ・ドルチョクによって書かれた、シャキャ・チョクデンの生涯に関するもっとも初期の評伝によると、彼は第7代カルマパ、チュータク・ギャンツォに二度会う機会があった。これは1502年のことと思われる。より重要なのは、二度目のほうである。当時チベットでもっとも力を持っていた地方首領ドンユ・ドルジェ(Donyo Dorje)のリンプン(Rinpung)の宮廷でのことだった。

 カギュ派の歴史家バウォ・ツクラ・テンワ(Bawo Tsukla Trengwa)が1545年と1564年の間に記した記事によると、リンプンに到着したカルマパを歓迎するために、全ツァン地方より、2万人から3万人の人々が集まったという。

 シャキャ・チョクデンはカルマパとともにおよそ一ヶ月すごした。この時期彼はカギュ派高僧からこの上ない深遠な教えを受けた。それによって彼は執着を断ち、禅定を修し、ついにカルマパを精神的な師として受け入れた。

 後世のカギュ派の詳細な歴史書によると、カルマパはシャキャ・チョクデンに信じがたいほどの名誉を与え、講堂ではおなじ高さの法座に坐らせ、一ヶ月の間、深遠なるテーマについて論じ合ったという。このときカルマパは、シャキャ・チョクデンと自分はおなじ心(thugs rgyud gcig pa)を持っていると語った。

 その著作のすぐあとには、カルマパと同様シャキャ・チョクデンも、大乗仏教の二つの宗派の究極的な見方は、他者から見た相対的な現象の空としての、絶対的な他性空であると主張した、という一節がある。

 シャキャ・チョクデンはすでに73歳か74歳だったが、このことによって彼は他性空を受け入れたと考えられる。あるいは、彼はおそらく他性空を長い間護持していて、カルマパと長い間論じ合うことによって、考え方を変えたのではなく、それまでの考え方をより確かな、実りあるものとしたのかもしれない。そうでなければ、彼はずっと自性の空について疑問に感じながらも他性空については書かず、最後の五年間にようやく他性空についてまとめたということになってしまう。

 シャキャ・チョクデンの著作は17世紀半ば、禁書処分を受ける。政治権力を得たゲルク派によってシャキャ・チョクデンの著書は印刷が禁じられ、刷られたものもすべてが差し押さえられた。最近になってたまたまブータンでそれらが発見され、全集として出版された。この禁書処分はずっとのちまでサキャ派の教義の発展に影響を与えつづけてきたのである。

 シャキャ・チョクデンの著作の多くのテーマは、教義上の問題で分極化した宗派間の妥協と統合である。他性空説の重要性について両者とも認めているにもかかわらず、シャキャ・チョクデンの他性空とドルポパの他性空とは違いがあった。

ある小論で、シャキャ・チョクデンはドルポパとプトゥンを比較する。彼にとっては両者ともサキャ派であると述べ、おどろくべき結論に至る。すなわち、自性の空と他性の空において、ジョナン派とシャル派との間に見解の不一致はないというのだ。というのも、タントラの了義という文脈において、プトゥンの哲学もまた他性空説を含んでいるというのである。

 カルマ・ティンレーパ(Karma Trinlepa 1456-1539)によれば、統合というテーマ、あるいは二つの宗派の見解に矛盾はないとする主張は、ティンレーパの師である第7代カルマパ、チュータク・ギャンツォの方法でもあった。そのことをよく示すのが、受け取った問いに対するカルマ・ティンレーパの答えの頌だった。のち、ベーロ・ツェワン・クンキャブ(Belo Tsewang Kunkyab)に宛てた韻文の小論は、「自性の空と他性の空のあいだに矛盾はなし」という第7代カルマパの見解について述べたものだった。

 何人もの現代の学者が喚起するように、第8代カルマパ、ミキュ・ドルジェ(Migyo Dorje 1507-1554)もまた、他性空について書いている。ただし、後半生において彼は考えを改め、逆にドルポパやシャキャ・チョクデンに反駁する文を書くようになるの。

 自性の空と他性の空を調和させようとする興味深い論書が、もうひとつ現れた。16世紀から17世紀にかけてのヨーガ行者、ションチェン・デンペイ・ギャルツェン(Shongchen Denpey Gyaltsen)である。彼は、ドルポパの転生であると主張した、偉大なる成就者タントン・ギャルポ(Tangtong Gyalpo 1361-1485)からの口伝の教えである「断」(チュー gChod)に関する論書の編集者である。ションチェンは大中観の哲学体系の精髄を、頌にして示した。

 他性空やその他の問題点に関するジョナン派の教義に対するサキャ派の位置は、15世紀後半から16世紀末にかけて、つねに複雑だった。シャキャ・チョクデンとゴーラムパをのぞくと、この時期にサキャ派大師によってこのテーマで書かれたものは残っていない。とはいえ数多くの伝記にはそれに触れた箇所があり、マイナーな著作のなかには当時の状況を示すものもある。

 ゴールム・クンガ・レクパ(Gorum Kunga Lekpa)の伝記からは重要な情報を得ることができる。ゴールムは、ジョナン寺の長年にわたる座主でありながら、サキャ派の道果(ラムデ Lam bras)の教えの主唱者でもあった。

 偉大なるツァルチェン・ロセル・ギャンツォ(Tsarchen Losel Gyantso)は、16世紀において、道果に関しもっともすぐれた大師だった。またゴールムパから多くの教えを受けていた。

 ジョナン・クンガ・ドルチョクは、サキャ派の系統において、釈義と実践において代表する僧だった。

 ジャムヤン・キェンツェ・ワンチュク(Jamyang Khyentse Wangchuk)は、ゴールムパ、ツァルチェン、クンガ・ドルチョクとともに学んだ。

 

5 ドルポパ以降(3)
 ゴールムパの伝記は15世紀後半から16世紀なかばのジョナン寺の状況を知る有力な手がかりとなる。この著作からわかるのは、ジョナン派はまだまだ勢いがあり、ドルポパの主著『了義の海』や『第四集結』の根本テキスト及び広釈、『仏法総釈』などがジョナン寺で伝えられ、教えられていた。

 1516年、ゴールムパはジョナン寺の法座に就き、1527年までその地位を守った。この時期、そしてつづく自ら選んだ後継者ナムカ・バルサン(Namkha Balzang)が法座に就いた1527年から1543年までの間、ドルポパの了義の教えは腐敗することなく守られた。ゴールムパはジョナン派の特別な教えだけでなく、サキャ派の教え、たとえばラムデ(道果)なども教えた。

 これらの日々、ゴールムパは、じつはそう珍しいわけではないが、ジョナン派とサキャ派の両方の実践と修習をおこなっていた。その方向性に障害などなかった。ジョナン派の信者はサキャ派の一部とみなされていたのだ。ただ六支ヨーガの実践とドルポパ伝来の教えに力点を置いていると考えられたのである。

 ジョナン・クンガ・ドルチョクはたしかに16世紀において、もっともよく知られたジョナン派のリーダーであり、その体制はもっとも長くつづいた。クンガ・ドルチョクの厖大な自伝や『ジョナン派百の教戒』(Jo nang khrid brgya)、その他雑多な文を読むと、三つのことがあきらかになる。

 彼はサキャ派の申し子だった。彼はサキャ派の実践と教えを護持し、リメ(ris med 脱・宗派)を完全に体現していた。そして彼がジョナン派に忠実であったという証拠はまったくなく、彼が教えた人々もそうだった。

 クンガ・ドルチョクにとって、もっとも重要な柱は三つあった。それはサキャ派のラムデ、シャンパ・カギュ派の秘教的な教え、そしてジョナン派の六支ヨーガだった。彼は生涯を通じてこの三つの教えに帰依していた。

 注目すべきは、ドルポパの他性空の教えを積極的に広めようという姿勢が、クンガ・ドルチョクにはまったくといっていいほど、なかったことである。彼はどれかひとつの教えを深めるよりも、辛抱強くこれらの系統の解釈や実践を試みる雰囲気作りのほうに興味を持っていたようである。おそらく、これこそチョナン派が見出した新しい方向性なのである。

 ジョナン派の見解に激しく敵対したゲルク派の影響が増すにしたがい、サキャ派の主流は、実践においてジョナン派とほとんど違いがなかったにもかかわらず、ジョナン派の教義から距離を置くようになった。

15、6世紀、シャキャ・チョクデンやクンガ・ドルチョクの著作を読んでも、支持者が激増しつつあったツォンカパの特異な見解の影響をサキャ派の代表的な人々が受け始めていたことがはっきりとわかる。

 このことは広範囲にわたって起こっていたかもしれない。というのは、レンダワのあとの時代、サキャ派の学者たちはドルポパの見解を否定し、おそらくまったく逆の方向に向かい、レンダワの弟子ツォンカパによって建てられた、新しい宗派ゲルク派と手を結んだのである。ツォンカパの見解はもともとの古代のサキャ派大師たちの教えとは異なっていたのだが。

 シャキャ・チョクデンとクンガ・ドルチョクは、後期に勃興したサキャ派(phyis byung sa skya pa)の潮流と、新旧のサキャ派(sa skya pa gsar rnying)間の、とくにラムデの教えに関する軋轢のことに言及している。彼らは、これはもともとのサキャ派大師の教えの著しい堕落とみなしていた。彼らの見解は、ジョナン派のそれと十分折り合えるものと考えられていた。

 クンガ・ドルチョクは、新サキャ派の支持者は羊の皮を被った狼のように、本当のサキャ派の教えを破壊していると思った。すなわち、サキャ派のふりをしてじつはゲルク派なのではないかと疑ったのだ。

 一方でサキャ派信徒のなかには他性空に惹かれる者もあった。当時、チベットの精神世界で圧倒的に支配していたゲルク派に対する反発もあっただろう。

 もし宗派を与えられたなら、その宗派独自の教義に集中する、並外れた才能をクンガ・ドルチョクは持っていた。彼自身はジョナン派の代表的な存在であったにもかかわらず、特定の見解に与することはなかった。

 もし彼がサキャ派のラムデについて書くなら、さまざまな異なるアプローチによる見解を区別しただろう。またジョナン派の六支ヨーガについて論じるとき、ドルポパの解釈をもっとも正統なものとしただろう。後者において、彼は彼自身を三世(過去、現在、未来)のブッダの体現者であるドルポパになぞらえ、もういちど法座にもどり、その伝統を守るだろうと述べている。

<堂々とした三人の大師の肉体的体現者として、

三世の母なるものの守護者として、

壮麗なるドルポパという名のシェラブ・ギェルツェンは、

三世のブッダではないのか。

師の法座に座り

師の教えを守り

私はヨーガ行者ランドル、

ふたたび戻ってきた、ドルポからやってきたブッダではないのか>

 またドルポパから伝わった教えを講じるとき、クンガ・ドルチョクはためらうことなく、この偉大なる先達の用語を使用した。

 この時期、ジョナン寺自体は盛況を呈していた。16世紀のサキャ派の偉大なタントラ大師と目されるツァルチェン・ロセル・ギャンツォは、サキャ派のラムデと同様、ゴールムパに由来するジョナン派の六支ヨーガの教えを受けた。

 1539年、ツァルチェンはジョナンを訪ね、ドルポパがそこで最初に経験したことに思いを寄せ、山の斜面の瞑想用の石小屋を見た。そこで瞑想の伝統がなお続いているのだと思うと、恐れ多い気持ちになった。

 二年後、彼はふたたびジョナンを訪ね、年長の友人や師クンガ・ドルチョクにあたたかく迎えられた。当時サキャ派とジョナン派の間には、和やかな関係があったのだ。

 今日にいたるまで、サキャ派ではその教戒のマニュアルがなお権威を持っているというジャムヤン・キェンツェ・ワンチュクは、若いときはゴールムパから、のちにはツァルチェンやクンガ・ドルチョクから学んだ。

 とくにゴールムパからは、サキャ派のラムデやその他の秘教的な教えとともに、ドルポパの教えを受け取った。それから彼はツァルチェンの法の継承者となり、のちにはシャル寺の座主に就いた。

 彼の自伝からはっきりわかるのは、キェンツェ・ワンチュクは、学問の勉強よりジョナン派・サキャ派両者の瞑想の実践に惹かれていたことである。

 あるとき彼は、だれからも隔離された生活を送り、生起次第(bskyed rim)のためのナーロー・カチューマ(Naro Khachoma)、究竟次第(rdzogs rim)のための六支ヨーガを実践したいと考えた。驚くべきことは、キェンツェ・ワンチュクはシャル寺のプトゥンの法座にまで上りつめたことである。

 ひとつエピソードがある。1550年、キェンツェ・ワンチュクはラルンにあるカギュ派寺院を訪ねた。彼は一日、学者たちが教義と実践について論じ合うのを見、だれかがドルポパは永遠の実体が存在する(rtag pai dngos po yod)と述べていた。それは仏性だった。だれも反駁しなかった。

 キェンツェ・ワンチュクの考えでは、ドルポパは仏性が永遠であることを認めたが、彼にはそれが実体とは思えなかった。すべての著作のなかでドルポパは、空の本体は、自然に自ら輝く光(stong gzhi rang bzhin od gsal dus ma byas)となる。それらはむなしい論議では、証明も否定もされようがないので、だれも異論を唱えることができないと主張している。

 ともかく、キェンツェ・ワンチュクは言う、プトゥンもおなじことを主張している、と。ふたたび言おう、偉大なる大師たちの間には、究極的に、一致しないということはないのだ、と。後世において彼らの教義を理解できない者たちが、間違った解釈をしてしまったのだ。

 

 

6 ドルポパ以降(4)

 クンガ・ドルチョクの著作にはドルポパ哲学に関する記述はほとんど見られないが、クンガ・ドルチョクの転生であるターラナータが書いたものには、他性空やその関連の記述にあふれている。ジョナン派史上、ドルポパとならび重要な人物といえば、ターラナータである。

 ターラナータは16世紀後半から17世紀初頭にかけてほんの短期間、輝きをみせたジョナン派の、とりわけ他性空の復興の担い手だった。

 クンガ・ドルチョクと同様、ターラナータはさまざまな宗派のタントラの教義を実践し、教えた。いわゆるリメ(ris med)、脱・宗派運動である。彼はまた、サンスクリット密教経典の最後の大訳経僧でもあった。

ターラナータはプトゥンの系統やジョナン派に敵対したゲルク派をも含むあらゆる正統派の仏教を重んじた。彼はまたクンガ・ドルチョクと同様、サキャ派のラムデ(道果)の実践やシャンパ・カギュ派の秘教的教えを好んだ。

またブッダによる深奥な教えとして、カーラチャクラの釈論や六支ヨーガの実践を推し進めた。彼の著作からはっきりとわかるのは、ドルポパこそ教義と実践において究極の権威であるという確信だった。

 ターラナータの伝記によって、宗派のトップから見たジョナン派の状況がよくわかる。彼は責任をもってドルポパの洞察を聴衆に届け、この絶滅の危機に瀕した教えに至上の価値があることを伝えようとした。

 たとえば1590年代のはじめ、ターラナータは六支ヨーガの教えがジョナンで講じられてから長い年月がたったことを感慨深く述べた。ドルポパの法を継いだチョレー・ナムギェル(Choley Namgyal)の教戒要綱がなおジョナンで使われ、六支ヨーガが教えられているが、それはドルポパから伝えられてきたにもかかわらず、ドルポパやその法統の息子たちの哲学体系を理解する者はほとんどいない。

 もっと懸念されるのは、オルゲン・ゾンパ(Orgyan Dzongpa)らジョナン派の高僧がジョナン派の伝統にしたがって灌頂を与え、法を説いてきたにもかかわらず、その彼らがドルポパの強固な他性空の教えを批判し、反駁したことだった。他性空はブッダおよびボーディサットヴァの秘密の教えであるのに。

 結果として、不幸なことが数多く起こった。たとえターラナータ自身が他の宗派の体系を批判することを避けたとしても、間違った意見でもってさえドルポパの元来の見解を守る必要性を感じた。それはドルポパの法統にしたがった正確な解釈を確立するということだった。

 1604年、十年間もジョナン派の本来の教えを復興するために尽力したあと、こんどはチャン地方とツァン地方のあいだの争いからターラナータのすべての著作が危機に瀕する事態となった。ジョナン寺自体は敵の攻撃を受け、即座に壊滅的な被害を蒙った。

 ドルポパの大ストゥーパで瞑想していたターラナータはすっかり落胆していた。彼のすべての努力が水泡に帰し、宗派が破壊されるのを目の当たりにしながら、惑わされた、のぼせ上がった人々によって起こされたもめごとから遠ざかり、禅定に入りたいものだと考えていた。

 このときドルポパの幻影が現れ、いままでとおなじことをつづけよ、これまでの努力は無駄ではない、と勇気づけた。

 つぎの夜、ターラナータがドルポパに祈りを捧げていると、こんどはボーディサットヴァの幻影が現れ、四行連句で語りかけてきた。

 これら一連のできごとのあと、ターラナータは他性空のなかにこめられたドルポパの真の意図を理解することができるようになった。そして彼の感じていた不確かさと疑問は一掃された。

 彼はその手に鍵が置かれたように感じた。その鍵ですべてのブッダの教えの扉をあけることができるのだ。

 おのれの覚醒を表現するために、ターラナータは他性空を説くもののなかでもっとも重要な『中観他性空荘厳』(gZhan stong dbu mai rgyan)という頌形式の著作と、その思想を説明するため本文から引用を抜き出した補助作を書き上げた。

 彼の伝記にあるのと同じドルポパの幻影を描きながら、ターラナータはドルポパからいくつかの予言を受け取ったと述べている。そしてそのとき以来、彼は何度も、この世界で、あるいは夢の中でドルポパと会っている。

 そしてターラナータは付け加える。

「私が一切智者ドルポパの見解に詳しく、その真の意図を理解できたのは、こうしたことがあったからだ」と。

 生涯を通じてターラナータは、他性空に対する抵抗や反対にあってきた。たとえば、彼はンガムリン寺の座主でもあるチャン地方の首長に、あるいはトムパ・ラツェ(Trompa Lhatse)に集まった学者たちに、多大なエネルギーをそそいで他性空について説明しなければならなかった。

 彼らは興味を持ちはしたが、講じた教えの本質や意味を本当に理解することはなかった。また学者たちが理解できないのは、彼らが他性空をチッタマートラ(Cittamatra 唯識派)と認識していたからだ。チッタマートラは、知覚された形象(sems tsam rnam rdzun pa 形象唯識)の価値を受け入れなかったのである。彼らは他性空とチッタマートラとの間に大いなる差異があることを知らなかった。

 カギュ・シャマルパの高僧たちでさえ、1620年にターラナータと論じたとき、ジョナン派の見解をまったくもって誤解していた。

 

7 ドルポパ以降(5)
 1635年のターラナータ没後、後継者のクンガ・リンチェン・ギャンツォ(Kunga Rinchen Gyantso)は15年にわたってジョナン派を率いた。それから起こったさまざまなことはジョナン派の未来に決定的な役割を果たすのだが、そのことはまだ説明できなかった。西側のまとめたチベットの歴史書には通常、ジョナン派への弾圧があり、1658年、ジョナン寺はゲルク派に改宗したと書かれている。これは部分的にのみ正しい。

 17世紀の政治状況は極端に複雑だった。ジョナン派の来るべき災難に立ち向かっていたのは、中央チベットのゲルク派勢力の政治的優越に対し戦っていたツァン地方の支配者の精神的指導者でもあったターラナータだった。

 何人かの現代の研究者はジョナン派の凋落に一役買ったとして、ターラナータを非難している。しかし以下の情報を吟味したとき、それはあてはまらないように思う。詳細はよくわからないが、これからもっとあきらかになっていくだろう。

 1642年、ターラナータの没後七年、グシ・ハーン率いるモンゴル連合軍がツァン軍を破り、ダライラマ五世、ンガワン・ロサン・ギャンツォ(Gawang Lozang Gyantso 1617-1682)を全チベットの政治的最高位に就けた。伝記によれば、偉大なる五世はチョナン派の運命に自ら手をかけている。ジャムヤン・トゥルクなる人物に扇動されて、ゲルク派の講経院(シェタ bshad grwa)がチョナン寺近くのターラナータによって創建されたダクデン・タムチョ・リン寺(Dakden Tamcho Ling)に建てられた。

 このように鉄虎の年(1650年)、寺院の宗派(grub mtha’)がジョナン派からゲルク派に替わったのである。このことはその時点では、勝利したゲルク派の権威によって、他性空の教義が禁止されたというふうにみなされたかもしれない。

 1650年はまた、ターラナータの後継者クンガ・リンチェン・ギャンツォの在任期間の終了の年でもあった。彼は余生をサンガク・リウォ・デチェン(Sangak Riwo Dechen)の寺院で送ることになる。

 もともとジャムヤン・トゥルクが駆り立てて、ダライラマ五世がダクデン・タムチョ・リンのジョナン派の領地に干渉するように仕向けたのだった。この人物はいったいだれなのか?

 幸い、ダライラマ五世の伝記によって、人物像をあきらかにすることができる。ジャムヤン・トゥルクはハルハ・トゥシェイェトゥ(Khalha Tusheyetu)王の息子だった。なかなか興味深い展開である。ジャムヤン・トゥルクはモンゴル・ハルハ・トゥシェイェトゥ汗、ゴンポ・ドルジェの息子であり、エルケ・メルゲン汗(Erke Mergen Khan)の孫だった。

 イェシェ・ドルジェやロサン・デンペイ・ギャルツェン(Lozang Denpey Gyaltsen 1635-1723)の名で知られるジャムヤン・トゥルクは、ダライラマ五世やパンチェンラマ一世ロサン・チューキ・ギャルツェン(Lozang Chogyi Gyaltsen 1567-1662)、国家認定の神託僧(la mo chos skyong)らによって、ターラナータそのひとの転生、初代ハルハ・ジェツン・タムパ(Jetsun Tampa)と認定された。

 もっと興味深いのは、ジャムヤン・トゥルクはジャムヤンの転生ということである。つまりゲルク派僧院デプン寺の創建者、ジャムヤン・チュージェ(Jamyang choje 1357-1419)の生まれ変わり(sku skye)と信じられていたのだ。

 はじめチュージェの転生とされ、そのあとターラナータの転生(yang srid)と目された。もちろんジャムヤン・チュージェとしての前半生は、ゲルク派、とくにツォンカパ自身とのより深い関係を示すため、強調したのかもしれない。

 しかしながらジャムヤン・チュージェの死とターラナータの誕生との156年のギャップについては説明されず、ジャムヤン・トゥルク(ハルハ・ジェツン・タムパ)の転生の系譜上で、ターラナータの前任者であるクンガ・ドルチョクについて言及されることもなかった。

 ジャムヤン・トゥルクがターラナータの転生とみなされたのには、あきらかに政治的意図があった。圧倒的地位を確立するため、ゲルク派はターラナータの転生者がジョナン派のリーダーとなる可能性を排除したのだ。ジョナン派自体は、ジョナン派からゲルク派への転向を促すこの偉大なる転生者がゲルク派の師として認定されることを受け入れなかったが、ゲルク派政府とモンゴル軍の支配下では、選択の余地はなかった。

 ハルハ・ジェツン・タムパの伝記のなかに、ターラナータの転生と承認されたことの合理性についての記述がある。ターラナータが逝去する寸前、ジョナン派の弟子やパトロンたちは、転生者がジョナン派の教義を広めてくれるよう祈った。この一節では、ターラナータはつぎのような返事をしている。

 

<われわれジョナン派の教義が大いに広まったことは、満足すべきこと。ガンデン(ゲルク派)の法の保護者の力添えによって、あるいはいままでの祈祷の力で、わたしは野蛮な辺境区でツォンカパの教えを広めるだろう>

 

 厖大な宗教関連の著作のほか、ターラナータ自身の自伝を読めば、彼がいかにドルポパおよびジョナン派の特質である了義の教えに身を捧げていたか、容易に証拠を挙げることができるだろう。彼が上述のような発言をしたこと、またドルポパの独立した宗派を破壊したまさにその宗派に生まれ変わることを望むのは、およそありえないことである。この発言がターラナータの最後の日々について書かれた著作のなかに記述されていないのは、驚くべきことではない。

 ターラナータのあやしい最後のことばに加え、秘密の自伝から引用された一節が、ターラナータがゲルク派に転生したいと願っていた証拠だとされた。ターラナータは若いとき幻影を見た。

 

<ヤムドゥク湖にありがたい雰囲気をもった男がいた。男はプトゥンだという。プトゥンは私の頭に黄色い帽子をのせ、「さあこれからはこの帽子をかぶりなさい」と言った。

 これは本物の王冠だった。それゆえ今、長い耳垂れのついた黄色い帽子をかぶっているのだ>

 

 プトゥン・リンチェン・ドゥプは、ゲルク派の法統、とくにカーラチャクラの伝承のもっとも重要な先達のひとりである。ターラナータの幻影の解釈にゲルク派の解釈は必要ないはずだった。ターラナータはプトゥンを非常に尊敬していたし、カーラチャクラの教えを受け取ってもいた。彼の自伝には、ほかにもインドやチベットの数多くの偉大なる師の名が記載されている。

 プトゥンは早くから黄色い学者帽(pan zhwa ser po)をかぶり、のちそれがゲルク派のトレードマークとなった。しかしプトゥンおよびゲルク派の高僧たちは、黄色い儀礼用の帽子だけをかぶっていたのではない。ドルポパもまた黄色い帽子をかぶっていた。幻影のなかでターラナータが黄色い帽子をかぶったとしても、ジョナン派の首領であることとなんら矛盾しないのである。

 上述のように、サキャ派大師ジャムゴン・アメイ・シャプはドルポパ自身、晩年には他性空の見解を後悔していたと主張した。ゲルク派のトゥカン・ロサン・チューキ・ニマもまたシャキャ・チョクデンに関し、似た主張をした。

 ジョナン派の敵の最後の、そしてより効果的な策略は、政治権力を通じ、ターラナータの転生をゲルク派の上師として承認することだった。

 

 いまや15歳の転生少年のために準備は整えられた。少年はモンゴルでダライラマ五世の弟子たちから厳格な教育を受けていた。そして偉大なる五世にはターラナータの寺院をゲルク派の中心に鞍替えすべく、ダクデンに学院を創建するよう要望が高まっていた。

 1650年末、若いハルハ・ジェツンはタシルンポ寺へ行き、具足戒を受け、初代パンチェンラマから数多くの教えを受けた。

 この時点でパンチェンラマはすぐダクデンへ行くよう請われた。あきらかにゲルク派への宗旨替えを完了させるためだった。

 ダクデンで、パンチェンラマはゲルク派が取り入れた主要なタントラ仏教のために、数多くの灌頂儀式を行ない、宗派の儀礼に必要な経典を伝達した。また同じ訪問時にパンチェンラマはチョナン近辺の尼僧らに教えを講じた。

 ハルハ・ジェツン自身が同時期にチョナンやダクデンを訪問しなかったのは、意味のあることである。彼がターラナータの転生であるということが受け入れられれば、訪問が期待されただろう。

 

8 ドルポパ以降(6)

 ダライラマ五世自身によれば、ターラナータの寺院タクテン・プンツォク・リンは1650年にゲルク派に宗旨替えした。しかし以前からこの寺院にいた僧はその考え方も修行法も変えなかった。それどころか新たにやってきた僧はジョナン派の本来の教えに向かうよう仕向けられた。

 ダライラマは金メッキをした真鍮にたとえた。ジョナン派にゲルク派の薄板を貼ったようなものというわけだ。

 結果として、ゲルク派の上層部は彼らを他の寺院に体よく追い出した。そこでより厳しいゲルク派の規則に縛られることになるだろう。そして寺院にはガンデン・プンツォク・リンという新しい名が与えられた。1658年のことだった。

 このとき以来、中央チベット、西チベットでは、ジョナン派は独立した宗派としては弾圧されるようになった。弾圧にもかかわらず、ジョナン派流の他性空とカーラチャクラの教えはこれらの地域で教えられてきた。一方、ジョナン派寺院が身を隠すことなく生き残ったのは、はるか東のアムドのザムタン寺を中心とする地域だけだった。

 ジョナン派の他性空とカーラチャクラの教えは現在にいたるまで伝承され、実践されてきた。

 しかしチベット仏教の主流として残っているこれらの教えは、飛び地であるアムドのザムタン寺のジョナン派の僧たちではなく、東チベット・カム地方のニンマ派やカギュ派の高僧たちが広めたものだった。彼らはドルポパの賛否両論の見解を受け入れ、教えてきたのだった。

 ニンマ派大師カトク・リクズィン・ツェワン・ノルブ(Katok Rikzin Tsewang Norbu 1698-1755)は、同時代をリードするカギュ派の高僧たちに他性空とカーラチャクラの復興をもたらした当の人物である。彼の頌形式の自伝によれば、ツェワン・ノルブは子どものときでさえ、ドルポパとその直弟子たちの名を聞くと、信仰心が高まったという。

 他性空やカーラチャクラの教えがごく自然に感じられたのだが、のちにチョナン派の教義をツェワン・ノルブに伝えた師が、彼をドルポパの弟子、マティ・パンチェン・ロドウ・ギャルツェンの転生であると認定したとき、その理由がわかったのである。マティ・パンチェンはカーラチャクラ・タントラとヴィマラプラバーをチョナン派のために翻訳したふたりの訳経僧のうちのひとりだった。

 1726年、ツァン地方を通ってカトマンドゥ盆地へ向かう途中、ツェワン・ノルブは偉大なるヨーガ行者クンサン・ワンポからなんとかチョナン派の教義を教わろうとした。クンサン・ワンポの師のひとりは、ターラナータの直弟子だったのだ。

 クンサン・ワンポはルラグ・デプン(Rulag Drepung)改め(ゲルク派によって強制的に改め)ガンデン・カチュー(Ganden Khacho)という隠棲所で厳しい隠遁生活を送っていた。ツェワン・ノルブは三日間探したが、その姿を見ることさえできなかった。彼はこの修行者の厳しい禅定に感服し、彼からチョナン派の教義を教わろうと強く思った。

 1728年末、チベットへ戻る途中、ツェワン・ノルブはまたクンサン・ワンポに近づき、今回はジョナン派の教義を伝授してもらうことに成功した。

クンサン・ワンポは『他性空大中観広注』(gzhan stong dbu ma chen poi lta khrid)、カーラチャクラ灌頂、六支ヨーガ、その他多数のリメ(脱・宗派)の教えを伝授した。

 ツェワン・ノルブはまたクンガ・ドルチョクによって編纂された『チョナン派百の教戒』(Jo nang khrid brgya)やドルポパとターラナータ両者の全集(gsung bum)の著作からの伝授などを受け取った。

 これらのことからわかるのは、18世紀半ばになっても、おなじ寺院のなかで、ジョナン派からゲルク派に宗旨替えしていたものの、本来のジョナン派の教義は教えられ、実践されていたのだ。

 ダライラマ五世はジョナン派の教えを禁止しようとしたが、上述のように転向を無理強いさせても、成功したのは表面上にすぎなかった。

 一般的な印象とちがい、はるか東のアムドだけでなく、ツァン地方のジョナンの近くでさえ教えの伝授は生き残っていたのだ。実態はツェワン・ノルブが1734年にジョナンへ行ったとき、はっきりする。彼はかつてドルポパやターラナータが就いた法座に就き、多くの灌頂、経典の伝授、ジョナン派のもともとの秘密の教えなどを聴衆に与えた。

 すくなくともこの時期、ゲルク派の上層部はジョナン派の教えがツァン地方中に広がったり復活したりするかもしれないという危機感は持っていなかった。

 ツェワン・ノルブはのち、中央チベットでこの教えを広め、カルマパ13世、ドゥドゥル・ドルジェ(1733-1797)、シャマルパ10世、チュードゥプ・ギャンツォ(1742-1792)らにジョナン派の教えを伝授した。

 ジョナン派を持続させたなかで、ツェワン・ノルブのもっとも意義深い役回りは、大学者シトゥ・パンチェン・チューキ・チュンネ(Situ Panchen Chogyi Jungne 1700-1774)の師であったことだろう。シトゥ・パンチェンは1723年、ツェワン・ノルブがはじめて行ったときより何年も早く、タクテンとジョナンを訪ねていた。シトゥの自伝の記述からすると、それは重要なできごとだった。

 記述からすると、ターラナータのタクテンの銀の霊塔はずっと前に破壊されていた。ダライラマ五世の師ムンドパ(Mondropa)に扇動され、五世の命で宗旨替えが強要されたとき、霊塔は破壊されたようである。

 タクテンはいまやゲルク派のもとにあったが、何人かの僧はチョナン派の伝統を守っていたという。シトゥはチョナンの著作のコピーを望んだが、それらは封印されていたため、見ることができなかった。彼は、ターラナータの総本山がこんなにも簡単に陥落したことが悲しく、落ちぶれたことを嘆いた。

 しかし翌日シトゥがチョナンへ行くと、700人もの尼僧が転向しないでジョナン派の伝統を守っている光景を見るのだった。

 25年後の1748年、ツェワン・ノルブとシトゥはカトマンドゥ谷でいっしょにすごしていた。シトゥは何年もジョナン派にかなり興味を持ってきたが、ツェワン・ノルブは他性空を受け入れたと主張し、シトゥに詳細を解説した。おそらくボーダナートでのことである。

 シトゥによると、ツェワン・ノルブは彼に他性空の奥深い哲学を受け入れるように命じた。そうすれば、よい兆し(rten brel)が作り出され、長寿がもたらされ、シトゥは活動の場をおおいに広めるだろう、と言った。

 シトゥはさらにこんなことを付け加える。他性空にもいくつか種類がある。そのなかでも好みは、第7法主とシルンパ(Zilungpa)である、と。それはドルポパとすこし違うという。

 つぎの世紀、他性空の哲学は広く受け入れられるだろうが、その環境作りをするのがシトゥだろうという。ジーン・スミスが1970年に指摘したように「折り合いのつかない他性空と中観をうまくブレンドし、カムのカギュ派に広めたのはシトゥ」だった。

 ツェワン・ノルブとシトゥ・パンチェンによってはじめられた他性空とその他のチョナン派の教えの復興は、19世紀のカムにおけるリメ(脱・宗派運動)の高まりをもたらすこととなった。

 リメの中心人物は、ザ・バルトゥル(Dza Baltrul 1808-1887)、ジャムゴン・コントゥル(Jamgon Kongdrul 1813-1899)、ジャムヤン・キェンツェ・ワンポ(Jamyang Khyentse Wangpo 1820-1892)、ミパム・ギャンツォ(Mipham Gyantso 1846-1912)ら偉大なる師であった。

 そのなかでもとくに他性空を支持し、自身の著作に取り入れたのはジャムゴン・コントクルだった。コントゥルはまたカーラチャクラの六支ヨーガを崇拝していた。彼は注意深くドルポパとターラナータに従っていたのである。

 他性空と六支ヨーガのチョナン派の実践は、コントゥル、キェンツェ、ミパムを通じ、今日まで継承されてきた。これらの教えはチベット中に広がった。そしてチョナン派の伝統はアムドのザムタン寺で生き続けたが、他とは遠く離れた場所だった。

 20世紀に替わる頃から現在にいたるまで、他性空の教えは東チベット出身の偉大なる師たちによって継承されてきた。コントゥル、キェンツェ、ミパム、ジャムヤン・チューキ・ロドゥ(Jamyang Chogyi Lodro)らに教わったリメの継承者たちは、他性空に共感し、ドルポパに焦点をあわせてグルヨーガの論書を書いてきた。

 ジャムヤン・チューキ・ロドゥのもっとも重要な高弟、ニンマ派大師ディルゴ・キェンツェ・リンポチェ(Dilgo Khyentse Rinpoche)、ラブセル・ダワ(Rabsel Dawa 1910-1991)は他性空をとても好んでいた。それはカギュ派大師カル・リンポチェ(Kalu Rinpoche)、ランジュン・クンキャブ(Rangjung Kunkyab 1905-1989)やニンマ派大師ドゥジョム・リンポチェ(Dudjom Rinpoche)、ジクダル・イェシェ・ドルジェ(Jikdral Yeshe Dorje 1904-1987)も同様だった。

 現在ニンマ派とカギュ派の師たちは、これらの大師たちによって伝承されてきた釈論や実践を継承している。結果、他性空を受け入れたカギュ派やニンマ派の大師のなかでも、コントゥルとミパムの解釈がとくに広く支持されている。

 ザムタンを中心としたジョナン派の流布地域をのぞくと、ドルポパ自身が著した論書は伝わっていない。ドルポパの著作の最小限の音読による伝授(lung)も、他性空を教えるカギュ派あるいはニンマ派でさえ行なわれていない。

 これらの師によって他性空が教えられるとき、ドルポパの講じたものと著しく異なるが、コントゥルやミパムの他の著作が使用されるのである。カギュ派やニンマ派で現在他性空として教えられるものは、何世紀にもわたって発展してきたものであり、ドルポパのいきいきとした洞察を、すでに確立された大印契(チャグチェン)や大究竟(ゾクチェン)に統合したものなのである。